第27話 父親の過去
宛てもなくリッドの町を
「……お父さんが人殺しだなんて、何かの間違いに決まってる」
流木のベンチに腰掛けたイリスは膝を抱えて俯く。
イリスの知る父ケビンは、家族思いで笑顔に溢れていて、粗相をしたイリスを叱る時も決して感情的にはならず、何故それがいけないないことなのか、諭すような叱り方をする父親だった。いくら過去の話だからとはいえ、ケビンの人柄は殺人とはあまりにも縁遠い。
今日顔を合わせた全員が自分に嘘をついている。娘として、そっちの方がよっぽど現実味がある。だけど、それで納得出来るのは町の人達が嘘をついているということだけ。ニュクスやロディアがケビンが人殺しであることを否定してくれないことの説明にはならない。二人のことだから、イリスが傷つくような真実は隠すに決まっている。その事実もまた、信憑性に拍車をかけている。
嘘だと信じたい気持ちと、ニュクスやロディアがそんな嘘をつく必要がないという現実。板挟みとなった10歳の少女の心は悲鳴を上げている。
「……いったい、お父さんに何があったの?」
泣き腫れた顔を上げた瞬間、イリスの耳へ澄んだ女性の歌声が流れ込んできた。
まるで疑問への回答が発せられたようで、目線は自然と歌声の源泉を求める。よく見ると、少し離れた平たい岩場の上で、頭にスカーフを巻いた女性が歌唱していた。
イリスの姿が視界に入ったところで女性は歌唱を止め、穏やかな笑顔でイリスを手招きした。女性は長い黒髪をスカーフで纏め、白いブラウスにベージュのロングスカートを合わせている。あどけない顔立ちと大人びた佇まいが共存しており、どこか年齢不詳な感がある。
「先客がいたのね。うるさくしてしまってごめんなさい」
「うるさいなんてそんな。お姉さんの歌声、すっごく綺麗だった」
イリスの手を取り、女性がそっと岩場へと引き上げてくれた。人気の無いこの砂浜は昔から女性の練習場で、先客が、それも見慣れない女の子がいるというのは珍しい。
「ありがとう。それと私はたぶん、お嬢さんから見たらお姉さんなんて年じゃないよ。たぶん、お嬢さんの親御さんとそんなに変わらない」
「そうなの?」
「こう見えて私、今年で32歳よ」
特段驚くでもなく、イリスはただ数字を数字のまま受け止めていた。女性は20代前半でも通用しそうな雰囲気だが、イリスの母パメラも年齢に対して非情に若く見られる顔立ちだった。身近に若々しい母親がいたためか、イリスは他の人よりも年齢とのギャップというものを感じにくいのかもしれない。
「あなた、この町の子じゃないよね。お名前は?」
「イリス・オネットです。家族と旅をしていて、この町には昨日到着しました」
「私の名前はハンナ。食堂を切り盛りしながら、時々お店で歌ったりしているの。よろしくね、イリスさん」
姿勢を低くしたハンナが握手を求め、イリスもそれに応じる。
改めて至近距離で向き合ったことで、ハンナはイリスの目が泣き腫れていることに気が付いた。初対面とはいえ、小さな女の子が悲し気な顔をしていればお節介を焼きたくもなる。
「何か、悲しいことでもあったの?」
「……町の人達が、私のお父さんを悪く言うの」
「お父さんを?」
「この町はね、お父さんの生まれ故郷なの。なのに町の人達はお父さんのことを人殺しって」
「えっ?」
悩みを明かされた瞬間、驚きのあまりハンナの表情から大人の余裕が消える。
暴漢に襲われた女性を救うために殺人の一線を越え、結果、多くの住民から畏怖の念を向けられてしまった一人の正義漢。事件の当事者として、ハンナは故郷から忽然と姿を消してしまった男の名前を誰よりもよく知っている。
「……イリスさん、お父さんのお名前は?」
「ケビン、ケビン・オネット」
イリスの口から発せられた名前と、想像していた男性のファーストネームとが一致した。唯一異なっていたのは、姓がメサージュからオネットへと変わっていたことだけだ。
「……そう、イリスさんはケビンさんの娘さんだったのね」
「ハンナさん、お父さんのことを知っているの?」
「ええ、よく知っているわ。私は彼に大きな恩がある。彼のことを忘れたことは一度たりとも……」
失言だったかもしれないとハンナは言葉に詰まったが、恩人としてのケビンに対してではなく、異性としてのケビンに向けたハンナの感情にイリスが勘づいた様子はない。イリスがもう少しませていたら、早々にその感情を見破られていたかもしれない。
「……お父さんが人殺しって、本当なの?」
憂いを帯びた瞳は感情のバランスはあまりに危うい。父親は人殺しなのかと問わねばならない少女の心境は想像に度し難い。女としてのハンナの表情は成りを潜め、一人の大人としての表情でハンナは改めてイリスと向き合う。勇気を出して質問してきたのだ。その思いに応えぬわけにはいかない。
「取り乱さずに、落ち着いて私の話を聞いてね」
「……うん」
「ケビンさんが人を殺してしまったことは事実よ。だけどね、ケビンさんだって望んでそうしたわけじゃない。ケビンさんが一線を越えてしまったのは私のせいなの。ケビンさんは襲われそうになっている私を助けようとして、暴漢を殺してしまった……」
「……お父さんはハンナさんを助けるために暴力を?」
「……そうよ。ケビンさんが助けてくれなかったら、私は今頃この世にはいないと思う。周囲は暴漢を殺してしまったケビンさんの暴力を過剰だと批難したけど、そんなものは当事者じゃない外野だから好き勝手言えるだけ。当事者の私達からすれば、あれは生きるか死ぬかの瀬戸際だった」
過去を思い起こすことは被害者だったハンナにとっては苦痛だろう。それでも、自分にはケビンの過去をイリスに語り聞かせる責任があると、記憶を紡いで言葉を編み上げていく。
「……暴漢は凶器を持っていたし、体も丈夫で簡単に意識を失いはしなかった。無力化させるためには加減なんてしている余裕は無かったと思う。ただ見ていただけの人や、ましてや噂でしか状況を知らない人達に、ケビンさんを責める権利なんてない」
明かされた父親の過去に衝撃を受けながらも、イリスは決して耳を塞ぐことなく、最後までハンナの言葉を受け止めた。健気で、それでいて力強い少女に敬意を払うように、ハンナはイリスの頬に触れて伝う涙を指先で拭ってやった。
「町の人達はケビンさんを悪くを言ったかもしれないけど、お父さんのこと、嫌ったり、怖がったりしないであげてね。人殺しは確かにいけないことだけど、ケビンさんのそれは私を助けるために、恐ろしい相手に必死に立ち向かった末の結果なの。お父さんはあくまでも正義の人だよ」
「……突然のことだったから頭は混乱しているけど、ハンナさんからお父さんのことが聞けて良かったよ。お父さん、優しくて真っ直ぐな人だもの。ハンナさんを助けるために、きっと必死に頑張ったんだと思う……大丈夫、私、お父さんのこと嫌いになんてならないよ」
父親が殺人を犯したという事実はあまりにも衝撃的なものだった。すぐさまそれを飲み込むのは、10歳の少女どころか大人でも容易いなことではないだろう。
それでも、誰かを助けるために必死だったケビンの姿は、自分の良く知る父親と重なるものがある。ケビンが正義の人だったというハンナの言葉を受け入れることは、それ程難しくはなかった。
「イリスさん、私の方からも一つ聞いてもいいかな。娘のあなたがこの町にやって来たということは、もしかしてお父さんのケビンさんもこの町に?」
「お父さんは――」
イリスの返答を、突如として発生した激しい水音が無粋に
「何?」
海面から飛び上がって来たのは、サメに似た頭部を持つ四足歩行の
「危ないイリスさん!」
「いやあああああああああ」
迫る凶悪な歯列を前に、ハンナは咄嗟にイリスを体で庇った。
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