第21話 感嘆と不義理
「凄い! 本物の海だ」
商人が手配してくれた馬車に搭乗したニュクス一行は、港町リッド近郊へと差し掛かっていた。大きな峠を越えた辺りで、アルカンシエル王国西部の特徴でもある広い海岸線が姿を現す。
「ここいらで少し休憩にしましょうか」
気を利かせた車夫が高台で馬車を止め、ゆっくり海を眺める時間を設けてくれた。
「大きい。どこまで続いているんだろう」
「これが潮風か」
内陸部であるルミエール領出身のイリスとヤスミンは、生まれて初めて目にした雄大な海を前に興奮を抑えきれない様子。イリスは飛び跳ね、ヤスミンは感嘆とした様子で海に見入っていた。
「よっと、これでもっとよく見えるぞ」
「わーい、高い」
ニュクスはイリスを肩車で持ち上げ、より高い位置からの風景をプレゼントした。二人の間に流れる
「……そういえば彼、ああいう顔で笑うんだったよね。すっかり忘れてた」
「そう、なんですか?」
馬車の縁に腰掛けるロディアの意味深な呟きを、一番近くにいたヤスミンが拾った。
確かに幼い子供と恋仲の女性に向ける表情とでは種類が違うかもしれないが、笑顔をすっかり忘れていたというのは流石に大袈裟ではとヤスミンは思う。
「乙女の呟きに反応するものじゃないぞ、ミンミン」
「ミン? 痛っ!」
変わった呼び名と突然のデコピンで、ロディアはヤスミンの興味を煙に巻いた。
――私が最後に彼を笑わせたのって、何時だったっけ?
ニュクスは幼少期からクールな一面はあったが、それでもしっかりと喜怒哀楽を露わにし、楽しい時にはしっかりと笑う子供だった。あまりにも当たり前の光景過ぎて、彼が最後に見せた笑顔がいつだったか、ロディアもはっきりとは思い出せない。
残酷な運命に巻き込まれ、教団のアサシンとして活動し始めてからもニュクスはロディアに笑いかけてくれたが、その笑顔は何時だって、気を遣った作り物めいたものだった。標的に近づくスキルの一環で彼はどんどん作り笑顔が上手くなっていった。それが余計に痛々しかった。
そんなニュクスが、幼少期を彷彿とさせる晴れやかな笑みで笑っている。イリスという一人の少女が、彼に演技ではない、自然な笑い方を思い起こさせたのだろう。
「……私、何やってんたんだろう」
イリスは純粋でとても優しい子だ。ニュクスを笑わせてくれたことに感謝こそしても嫉妬なんてしない。
ロディアが怒りを覚えていたのはただ一つ、ずっと近くにいたはずなのに、ニュクスに本物の笑顔を取り戻してあげられなかった自分自身にだ。
ロディアはニュクスと一緒にいられるだけで幸せだった。彼の側では何時だって笑顔になれた。だけど、本当に彼も幸せだったのだろうか?
「そろそろ出発しましょうか。リッドに到着すればもっと近くで海が見られますよ。好天にも恵まれているし、早ければ今日中には到着出来そうです」
車夫の言葉を受けて一行は再び馬車へと搭乗した。
〇〇〇
「ああ、確かにその三人なら俺が馬車でこのアザールまで連れて来たが、おたくら一体何者だ?」
「僕たちは傭兵です。依頼を受け、灰髪の彼――ニュクスというのですが、彼の行方を追っています」
ニュクスの目撃情報を頼りにクルプ街道を西へ進んできたファルコとロブソンはアザールの町まで到着。人の多い場所での地道な聞き込みの末、数日前までニュクスらしき人物が出入りしいたと思われる、商人の屋敷を訪ねていた。
「おたくらは真っ当な傭兵のようだな」
「そう見えますか?」
「行商なんてやっていると傭兵と接する機会も多いが、無責任だったり横暴だったり、性質の悪い輩も時々いるからな。その点、あんたらの立ち振る舞いはスマートだ。雇用主の品格を疑われないようにという、プロの傭兵としての自覚を感じるよ」
伝説の槍使い、アークイラ・コルポ・ディ・ヴェントの「傭兵は人助けの精神を忘れてはいけない」という教えを、
「しかし分からん。確かに訳ありには見えたが、だからといってあの兄ちゃんが、おたくらみたいな傭兵に追われるような悪人にはとても思えん」
「誤解はしないで頂きたいが、僕らは彼と敵対しているわけではありません。先日までは共に戦場を駈け抜けた仲でもある。僕の雇用主は突然失踪してしまった彼と、もう一度お話をする機会を所望してましてね」
「説得のためにあの兄ちゃんを捜してるってわけか」
「もし、彼らの行方に心当たりがあるなら是非とも教えて頂きたい」
「……あんたらの事情も分かるが、あの兄ちゃんには恩がある。俺からは何も言えない」
「恩、ですか?」
「あの兄ちゃんにはクルプ街道で命を救われた。連れのお嬢ちゃんや若いのも随分と兄ちゃんを慕っているようだったし、おたくらの下を去ったのも余程の事情があったからだろう。赤の他人が知ったような口を利けた義理じゃないが、出来ればそっとしておいてやりたい」
成り行きもあっただろうが、逃避の最中にも人助けをしてしまうあたり、やはりニュクスの根は善人なのだとファルコは実感していた。加えて本来の彼は人を引き付ける天性の魅力も備わっているのだろう。命を救われたからというだけではない。ニュクス個人の人柄にも惚れ込んだからこそ、商人は彼に味方しようとするのだろう。
しかし、ファルコとてソレイユから思いを託された身として引きさがるわけにはいかない。狡い言い方なのは承知で、商人の情に訴える。
「彼を案ずるのならば、なおのこと行方を教えてください。逃避を続けたままでは、それは彼の救いにはならない。彼はもう一度、僕たちの雇用主であるソレイユ様と向き合うべきです」
「……ソレイユ、ソレイユ・ルミエール様か?」
「そうです。僕も彼も、あのお方と共に戦っています」
この時期にその名を聞かされ、彼女と向き合うことこそがニュクスにとって本当の意味での救いに繋がると諭されれば、誰だって心が揺れてしまう。
「……おたくらを遣わせたくらいだ。ソレイユ様もまた、あの兄ちゃんを必要としているということか」
「否定はしません」
その一言が決め手となり、商人は観念した様子で目を伏せた。
「……兄ちゃん達は二日前に西のリッドへ向かった。俺から言えるのはそれだけだ。一行が今もリッドに留まっている保証はないぞ」
「大変な葛藤もあったでしょう。情報提供に感謝します」
「……不義理になっちまったな」
「僕の知る彼は、あなたを恨みはしないと思いますよ」
「……」
これ以上、何と言ったらいいのか分からず、商人はファルコ達に背を向け、黙々と馬車に荷物を積み込む作業を再開した。
必要な情報は得られた。これ以上長居しても迷惑だろうと、ファルコとロブソンは
「……そういえば、一つだけ言い忘れていた。兄ちゃんの連れなら今は三人だ。えらく
「何者ですか?」
「知らないよ。ただ、兄ちゃんとは随分と深い仲のように見えたがね」
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