第10話 大きな背中
「こんな時でも稽古は欠かさずか」
夕刻。ビーンシュトック邸の中庭でタルワールを振るうソレイユの下を、アルカンシエル王国第三王子、シエル・リオン・アルカンシエルが訪れた。
髪を結い、稽古着である白いノースリーブのトップス姿だったソレイユは愛刀を静かに納刀し、シエルの方へと振り返る。腕を吊っていた包帯は先日外れた。
「ごめんなさい、このような姿で」
「気にするな。事前連絡も無しに訪問した俺が悪い」
ソレイユは汗の始末にタオルを取り出し、首元や顔、トップスを捲り上げて
「……目のやり場に困る。少しくらい恥じらったらどうだ」
ベンチに腰掛けたシエルが気まずそうに天を仰いだ。
「私の稽古姿くらい見慣れているでしょう。今更恥じらう理由もありません」
「お互いにまだ幼かった頃の話だろう。もう少し、女としての自分を自覚しろ」
「まあ、シエルからそのような言葉が飛び出すとは。ですが確かに
「引っ掛かる物言いだが、まあいいだろう」
苦笑を浮かべたシエルの隣に、汗の始末を終えたソレイユが静かに腰を下ろした。横目に移るソレイユの姿は髪に微かに湿り気があり、稽古後で紅潮した頬ともども艶やかな雰囲気を放っている。
「シエルも多忙な時期でしょうに、態々どうしたんですか?」
「少し時間が出来たものでな。お前と話でもと思って訪ねて来た」
「貴重な空き時間、休息に費やさずに良かったのですか?」
「休息にはちと短い空き時間でな。一人孤独に過ごすよりも、馴染みの相手と過ごした方が有意義というものさ」
「そういうことでしたら、喜んでお話し相手を務めさせて頂きます」
シエルはリラックスしてシャツのボタンを緩めた。ソレイユと話している間だけは王子としてではなく、幼馴染のシエルとして風格など気にせずに振る舞える。尤も、時期が時期だけに幼馴染としても普段よりも緊張してしまうが。
「先程の剣筋、病み上がりとは思えぬ力強さだったな。また腕を上げたようだ」
「……直近にこれまで以上の死線を経験しましたからね。剣士としてはまた一つ経験を積むことが出来ました……失ったものは大きすぎましたがね」
「フォルス先生たちのことは残念だった」
「目の前で故郷が燃え、父を喪い、多くの臣下や領民が命を落とした。己の無力感を嫌というほど思い知らされました。私がもっと強ければあるいは違う未来もあったのかもしれません」
「あまり自分ばかりを責めるな。お前たちは全力を尽くした。責めを負うとすればそれは、大局を見誤った我ら王国騎士団の方だ。小規模な戦闘で終結したエヴァンタイユとプラージュは陽動で、奴らの本命はファルジュロンとルミエールだった。過剰だった戦力を回せていれば悲劇は防げたかもしれない」
「それは結果論でしかありません。動乱発生時の王国騎士団の判断は合理的なものでした。そのことは私も納得しています。あの時点でこのような事態は想定出来なかった。誰が悪いというわけではない。ただ、不運が重なり過ぎただけですよ」
「不運が重なったというのなら、なおのこと自分ばかり責めるな。あのような状況、
「……例えそうであっても、私が大切な人達の命を救うことが出来なかったのは紛れもない事実です。皆優しいから私を責めるような真似はしない。それが救いでもあり同時に酷でもあるのです。誰も責めてくれないなら、自分で自分を責めるしかないじゃないですか」
「誰もお前を責めないのはお前に非がないからに他ならない。悲劇に対してもしもを考えてしまうのは当然のことだ。何かもっと自分に出来ることがあったのではと後悔の気持ちも強いだろう。だがな、そういった感情を考慮してなお、今のお前の有り様は俺の目には
「父上亡き今、私が領主としてルミエール領を導いていかなければいけない。だけど今の私は領主としてあまりに未熟過ぎる。例え生き急ぎだと言われようとも、苛烈なまでに己を律してく他ないじゃないですか……」
「最初から完璧だった領主などいるものか。ルミエール家の
「それは……」
ルミエール領初代領主アルジャンテは元は旅の剣士で、器ではないと当初は領主になることにも消極的だったとされる。そんな彼女にも領民を救うために剣を振るっていくうちに領主としての自覚が芽生え、次第に領主としての風格が備わってきた。
邪神封印を成し遂げた影の英雄の一人にして剣才に優れる女傑。されど領主としてはまったくの未熟者だった一人の女性。そんな彼女が
「正しくさえあれば、能力も風格も後からちゃんと備わって来る。始めから完璧を求めるなど欲張りというものだ」
「欲張りですが、その発想はありませんでした」
「お前は真面目だから、どうにも一人で気負い過ぎる。何でも一人で抱え込もうとせず、時には未熟な自分を助けてくれと訴えたっていいんだ。苦難は皆で乗り越えていけばいい。もちろん俺だってお前を支える人間の一人でありたい。辛い時は何時でも俺に寄りかかれ」
「剣術においては私が
「これでもお前よりは2年長く生きているからな――と言いたいところだが、恥ずかしながら俺もまだまだ未熟な身だ。俺だって、お前を含めたくさんの人達に支えられてこそ今がある」
「シエル……」
言葉に詰まったソレイユが慌ててシエルから顔を逸らす。その瞬間、目元から光る物が線を引いたことをシエルは見逃さなかった。
「……ごめんなさい。もう泣かないと、ロゼ領でゾフィーさんの胸を借りた時に心に決めていたのですが」
「ここは戦場や軍議の場ではなく私的な場だ。誰も涙を
労うように肩に触れ、シエルはベンチから立ち上がったが、続けて立ち上がったソレイユが引き留めるようにシエルの袖を握った。
「ソレイユ?」
「……シエルもこの場に居てください。今一人になったら、感情が爆発してしまいそうなので」
「耳を塞いでいようか?」
「……声は自分で押し殺します。けど、表情だけはどうしようもないので……背中を貸してください。なるべく濡らさないように気を付けますから」
「些末なことを気にするな。何なら鼻までかんでも構わんぞ」
「デリカシーに欠けるのは相変わらずですね。だけど、今の私には何よりも心地よい――」
体を震わせシエルの背中に顔を埋めた瞬間には、ソレイユはもう声を必死に押し殺すのが精一杯だった。
泣いて何かが解決するわけではない。だけど、涙で感情を調節しなければ、それは何時か思わぬ形で己自身を押しつぶす。いかに責任ある立場の人間だからといって、此度の悲劇は一人の少女の感情の積載量を遥かに超えていた。一度の
「大きな背中ですね……」
シエルは何も言わず、ソレイユが落ち着くまでの間、背中を貸し続けた。
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