第9話 葬送

「外に出るのは久しぶりだろう。本当に大丈夫か?」

「……頑張る」


 とある日の昼下がり、ニュクスはイリスを伴って市場へと繰り出していた。人混みが苦手なイリスは上着のケープのフードを深々と被り、浅葱あさぎ色のプルオーバーにベージュのコットンパンツ姿のニュクスは、イリスとはぐれないようにしっかりと手を握ってあげている。


 この日もヤスミンの厚意に甘えてお使いを頼もうかと考えていたところ、イリスの方から一緒に買い物に行こうとニュクスへ提案してきた。ヤスミンにばかり負担をかけるのは悪いと幼いなりに申し訳なさを感じていたらしい。


 王都へと移住して以来、イリスはずっと家に籠っていたので、きっかけは何であれ、こうして一緒に出掛けられることがニュクスは嬉しかった。イリスには少しずつでも日常を取り戻していって、また何時の日か、以前のような晴れやかな笑顔を見せてほしい。


「何か欲しい物があれば遠慮なく言えよ」

「欲しい物か……」


 故郷の安心感には遠く及ばないが、サントルの街は王都だけあって物で溢れ返っている。好きな食べ物でも娯楽品でも、何かしらがイリスの気分転換に繋がってほしいとニュクスは期待する。


「私、絵が描きたい」

「それじゃあ、足を延ばして画材屋を覗いてみるとするか」


 イリスがお願い事を発するまでにそこまで時間は掛からなかった。

 ニュクスがイリスのために宿に残していった画材一式も先の動乱で焼失してしまった。絵のことは前々から気になっていたのだろう。気持ちを紛らわせるために芸術に熱中するのは悪くない選択だ。


「また一緒に絵を描こうね」

「……ああ」


 一瞬の間を置いてニュクスは曖昧な表情で頷いた。

 絵の先生としての技術的な指導なら喜んでしよう。

 だけど、一人の絵描きとしてのこの先また筆を取れるかどうかについては、今のニュクスは自信を持てないでいる。


 〇〇〇


「一度画材を置きに家に戻ろう」


 絵筆やキャンバスといった画材だけですでに荷物は一杯。このままでは食料品を持つ余裕が無いので、一度自宅まで戻ることにした。


 ルミエール領で使っていた物はニュクスのお下がりだったが、今日イリスは初めて自分で道具を選んだ。道具を選んでいる最中の表情は好奇心に溢れており、その一時だけは悲劇を忘れて一人の少女として目の前のワクワクに没頭していた。そんな一面を見て、少し心配症が過ぎたのかもしれないなと、ニュクスは心の中で安堵していた。


「なあ、レユールの町の話は聞いたか?」

「ああ、教団の侵攻で壊滅だってな。町中焼き払われて酷い有様だそうだ」

「ファルジュロンの妹夫婦と連絡がつかなくて……」

「……便りがないが、出兵した弟は無事だろうか」


 時期が時期だけに、ゼニチュ領ファルジュロンや近隣地域の戦況に関して悲劇的な話題を口にする住民は多い。少し進めばまた別の誰かが悲劇的な話題を口にしており、望まなくともそういった話題が耳へと飛び込んでくる。


 あえて気にしない振りをしながら、ニュクスはイリスの手を引いて足早に人混みを掻き分けていくが。


「ルミエール領も残念にな」

「まさか、あの剣聖率いる精鋭部隊が敗北するなんて」

「ご息女のソレイユ様がご無事とはいえ、もう再興は無理なんじゃないか。町も農園も焼失してしまったんだろう?」


 故郷に関する話題に、ニュクスに手を引かれるイリスの足が止まりそうになる。これ以上聞かせてはいけないと、ニュクスはイリスの肩を抱いて半ば強引にその場から遠ざけた。


「ニュクス……」

「いいから行くぞ」


 それ以上は言葉が見つからず、二人は無言のまま大通りを通り抜けていく。5分程歩くと、自宅にも近い住宅街の通りへと出たが、普段から利用しているルートを通ったことは、この時ばかりは誤りだった。


「……ああ、どうしてこんなことに」

「マイク! マイク!」


 通りに面する一軒の住宅から棺が運び出されていき、遺族と思しき数名の男女が現実を受け入れきれず、大粒の涙を浮かべて棺へとすがった。棺を運ぶ、黒衣に王国騎士団の腕章を巻いた騎士達は棺を運ぶ足を止め、沈痛な面持ちで遺族をさとしたり、なだめたりしている。多くの王国騎士団関係者が参列しているところを見るに、亡くなったのは王国騎士団所属の騎士だったのだろう。


「参りましょう奥さん」

「……はい」


 騎士達が遺族を落ち着かせると、一行は再び移動を開始。最寄りの王都西部の墓所へと棺を運んでいった。


 ほんの僅かな間の出来事だった。目を背けて耳を塞いで、いつもより少しだけ遠回りして帰ればそれで済んだはずなのに。戦場から遠い王都で目の当たりにした一つの悲劇から、イリスはもちろんニュクスも目を逸らせずにいた。


 この数カ月間は多少なりとも命を救うための戦いをしてきたかもしれないが、それ以前のニュクスはむしろ悲劇を生み出す側の人間だった。たまたま居合わせただけの見知らぬ相手の葬送であっても、他人事には思えなかった。


「……あのお家の人、戦争で死んじゃった」

「イリス?」

「お父さんもお母さんも死んじゃった! お家も無くなっちゃった!」

「イリス、落ち着け!」


 その場で崩れ落ちたイリスから大粒の涙と共に大量の感情が溢れ出す。呼吸の仕方を忘れてしまったかのように息も酷く乱れている。何とかイリスを落ち着かせようとニュクスは肩を抱いて優しく背中を擦ってやるが、一度始まった感情の決壊はそう易々とは治まってくれない。


「死ぬのは駄目! 一人ぼっちは嫌! お願いだから私を置いて行かないで――」


 今のイリスは半ば錯乱状態だった。呼吸はさらに乱れ、痙攣けいれんのように体が激しく震える。両親の死と故郷の消失を知った時の衝撃がフラッシュバックし、死や孤独に対する拒絶反応を体全体が示している。幼い少女が恐怖心に締め付けられる様はあまりにも痛々しい。


「大丈夫だから。イリスは一人じゃない。俺はお前の側からいなくなったりしないから」


 イリスを少しでも落ち着かせるためにニュクスは震える彼女の体を優しく抱きしめ、何度も何度も「大丈夫だから」と慰め続ける。騒ぎを聞きつけ周辺住民が集まって来たが人目など気にはしない。今はイリスを落ち着かせてあげることの方が何よりも大切だ。


「……信じられないよ……だってニュクス、一度居なくなろうとした」

「だけど、ちゃんど戻ってきたじゃないか。約束する。俺は絶対にお前の側から離れないから」

「……約束……だよ――」

「イリス!」


 恐怖の感情に支配された幼い肉体はもう体力の限界だったのだろう。感情の決壊が治まるのと同時にイリスの華奢な体は脱力し、意識を失ってしまった。ニュクスの腕の中で眠るイリスの目元は酷く泣き腫れていた。


「お兄さん、大丈夫かい?」

「騒がせて済まなかったな」


 心配そうに声をかけて来た近隣住民に一言詫びると、ニュクスは華奢なイリスの体を抱きかかえて足早にその場を立ち去った。


「……いっそのこと、イリスと二人で旅にでも出ようか」


 いくら戦場から離れようとも、人口の多い王都という環境下では望まずとも悲劇的な話題が耳に飛び込んでくる。今のイリスにとってそれはあまりにも酷だ。ニュクス自身も己の有り様に思い悩み、答えの出せぬ鬱屈うっくつとした日々を送ってきた。


 逃避という選択肢がニュクスの中で現実味を帯び始めていた。


 イリスと二人、戦渦を逃れながら旅をして。辿り着いた安住の地で第二の人生を歩みだす。魅力的な選択だと思う。手負いとはいえ、旅の中で遭遇する野盗や魔物の脅威など、かつては最強のアサシンであったニュクスの前では脅威足り得ない。


「……お嬢さんには申し訳ないが、俺のような人間がこれ以上側にいても、お嬢さんのためにはならないだろうしな」


 家に戻りイリスをベッドに横たわらせると、ニュクスは自分自身に言い訳するようにそう呟いた。

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