第3話 傷跡

「戻りましたよ、ニュクスさん」


 王都サントル郊外にある煉瓦れんが造りの平屋を、ルミエール領カキの村出身の日焼けした少年、ヤスミンが訪れていた。

 王都へ戻って以降、ソレイユ達はビーンシュトック邸に拠点を構えているのだが、ニュクスだけが孤立を望むかのように自費で仮住まいを探し、先週からこの借家へと身を寄せていた。


「頼まれていた食料品です」

「ありがとうヤスミン。また世話をかけた」

「このぐらい、お安いご用ですよ」


 ニュクスから頼まれていた、市場で仕入れて来た数日分の食料品が詰められた籠をヤスミンは手渡した。続けてお釣りを渡そうとするが、手間賃だと言ってニュクスはお釣り分をそのまま握らせた。


 ニュクスの外見にはルミエール領での激戦の痕跡が色濃く残っており、クルヴィ司祭との戦闘で視力を失った右目には黒い眼帯を装着。服装は、ルミエール邸での晦冥かいめい騎士きしゼウスとの戦闘で噛み千切られた首の傷を隠すように、黒いタートルネックで首を隠している。ニュクス自身は傷跡など気にはしていないが、負傷の痕を見てイリスがルミエール領の惨劇を思い出してしまう恐れがあるため、日頃からなるべく傷を隠すように配慮していた。


「イリスちゃんの様子はどうですか?」

「大分落ち着いたよ。今は眠っている」


 アマルティア教団のルミエール領侵攻によってリアンの町は壊滅。滞在時にニュクスがお世話になった宿屋のオネット夫妻も犠牲となった。夫妻が身をていした庇ったことで娘のイリスは九死に一生を得たものの、両親と生まれ故郷を失ったという事実は11歳の少女の心を砕いた。明るく快活だった頃の姿は見る影もなく、酷くやつれてしまっている。


 身よりのないイリスをニュクスが引き取り、現在は二人でこの借家で生活している。ニュクスがソレイユと距離を置き、家を借りたのは、イリスを引き取ると決めたからというのも大きい。心優しいソレイユと屋敷を管理するリュリュ・ビーンシュトックのこと、ニュクスが引き取ったイリスを屋敷に住まわせることも快く了承してくれただろう。けれど、そこまで迷惑はかけられないと、相談することもなくニュクスは屋敷から距離を置いた。


 オネット夫妻には世話になったし、最期の瞬間には女将さんからイリスを託された。ニュクスにはイリスの命に対して責任がある。血縁でこそないものの、ルミエール領で共に過ごしていた頃からイリスはニュクスを兄のように慕っていた。彼女にとってニュクスは、残された只一人の家族に等しい存在だ。


「今日も、ほんの少し買い物に出かけようとしただけなんだがな」

「リアンの町であんなことがあった以上、仕方がありませんよ。買い物でも雑用でも、俺が何でも引き受けますから、今はなるべくイリスちゃんの側にいてあげてください」


 最愛の両親をうしなったことで、イリスは孤独というものに大きな拒絶反応を示すようになっており、ニュクスはなるべく多くの時間をイリスと過ごすように心がけていた。

 最近は少しずつ精神的に落ち着いて来たので、今日はイリスに留守番を任せて買い物に出かけようとしたのだが、一人は嫌だとイリスが泣き出してしまい、仕方がなく買い物はヤスミンに頼み、イリスが落ち着くまでずっと側に付き添ってあげていた。一緒に買い物に出かけるという選択肢もあるが、この時期、市場など人の多い場所に向かえば、望まずとも戦渦にまつわる血生臭い話題が聞こえてくる。そのような環境に傷心のイリスを連れていくことは気が引けた。


「すまない。お前だって慣れぬ土地で大変な時期だろうに」


「カキの村の住人の多くが避難したグロワールではなく、王都へ移ることを決めたのは少しでもニュクスさんのお役に立ちたいと思ったからです。俺を心配するのならむしろ、どんどん用事を押し付けてください。オネットさん夫妻にはお世話になりました。イリスちゃんには少しずつでも元気を取り戻していってほしいし、尊敬するニュクスさんに恩返しだってしたい」


「あの時のことなら恩義なんて感じる必要はない。前にも言っただろう、あれは俺が勝手にやったことだ」

「だとしても、俺は恩義を感じずにはいられません。俺が一線を越えずに済んだのはあなたの言う、勝手にやったことのおかげなんですから……それに、あなたを兄のように慕っているのはイリスちゃんだけではないんですよ」

「俺はきっと、お前の実兄のような、人に慕われるべき人間ではないぞ」

「兄には兄に対する尊敬が。ニュクスさんにはニュクスさんに対する尊敬が、それぞれ別々に存在しています。それはそもそも、比べる必要などないことでしょう」

「ヤスミン……」


 アマルティア教団に唯一の肉親であった兄を殺されたヤスミンの心を救ったのは、仇の一人を彼の目の前で殺して見せたニュクスだった。殺すことしか出来なくなってしまった自分のようになるなと、ある種の反面教師としての行いのつもりだったが、そのことがヤスミンがニュクスを尊敬するきっかけとなってしまったことは誤算だった。自分は誰かに尊敬されるような高尚な人間ではないとニュクスは自己評価を下している。自身の兄のように慕ってくれるヤスミンに、どのような言葉を返していいのか分からない。


「用事があるので、今日はこれで失礼します。何かあればまた何時でも呼んでください」


 微笑みを浮かべてそう言い残すと、ヤスミンはニュクスの家を後にした。

 後ろ姿を見送っていると、通りの角を曲がった直後、ヤスミンが歩みを止めて誰かに深々と頭を下げていた。


「こんにちは、ニュクス」


 ヤスミンと入れ違う形で、見慣れた顔が護衛も連れずに一人でやってきた。


「お嬢さんか。こんなところに何の用だ?」

「何の用だとは失敬ですね。公務の空き時間に仲間の下を訪ねてはいけないのですか?」

「貴重な公務の空き時間に態々こんなところまで?」

「意地悪を言わないでください。少し話せますか?」

「別に構わないよ」


 狭い家で申し訳ないがと一言断りを入れてから、ニュクスはソレイユを自宅へと招き入れた。

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