第28話 楔からの解放

「俺は……俺にはこの子は殺せません」

「聞き間違えるとは、私も歳かもしれないね。もう一度、はっきりと言ってくれるかね?」

「いくらあなたからの命令でも、俺はこの子を殺しません!」


 拒絶の意志は一切の抵抗なくニュクスの口をついた。穏やかな笑みと共に発せられる最後通告を受けてなお、その意志は決して揺るがない。


「私の命令を拒むというのか?」

「……あなたには感謝している。今の俺があるのはあなたのおかげだ。だけど、この子の命だけは駄目です!」

「君にそこまで言わしめるとは、腑抜けた理由の一端はやはりその幼子にあるということのようだね」


 何時いかなる場面でも好々爺こうこうやめいた笑みを浮かべていたクルヴィ司祭の表情から仮面が剥がれ落ちる。眉間にはしわが寄り、口は真一文字に結ばれている。細めた目から覗く瞳も、びつてしまった凶器を侮蔑ぶべつするかのように、酷く淀んでいた。

 これまで目にしたことのないクルヴィ司祭の表情に、ニュクスの緊張感は最高潮へ達する。狂気とも威圧とも異なる、今のクルヴィ司祭から感じる気配は、底なしの井戸から何かが這い上がって来るかのような、得体の知れない不気味さのような印象が強い。


「よかろう。君はその少女を殺す必要はない。私は常日頃から、寛大な上司であろうと心掛けているからね」

「……寛大なご処置に感謝いたします」


 笑みを浮かべたまま嬉々として部下に責め苦を与える異常な男が、その笑顔の仮面さえも破棄してしまった。このまま寛大に物事が進むとはとても思えない。不安感は拭い去れないが、余計な刺激を与えるにわけにもいかない。感謝の意として、ニュクスは深々と頭を垂れたが、


「礼には及ばぬよ。代わりといってはなんだが、新たな命令を君に与える」

「命令?」

「その少女を地面へと下ろし、一歩後ろへ下がりなさい」

「……何を言って」

「言っただろう、君はその少女を殺す必要はない。代わりに私が殺してあげよう。私は寛大からね。君自身が手を下さなくとも、その少女の死という事実そのものを持って君の罪をすすいでやろうというのだ」

「俺の目の前でこの子を殺すと言うのですか……」

「君がやらないのなら仕方がない。苦しませぬ保障は出来ぬが――」


 口元に不敵な笑みを浮かべたクルヴィ司祭が右腕を伸ばした瞬間、確かな殺意を感じ取ったニュクスは、考えるよりも先に反射的に行動を起こしていた。


「……命令に背くだけに飽き足らず、この私に牙を剥くとは」


 クルヴィ司祭の右の掌には、ニュクスの投擲したダガーナイフが深々と突き刺さっていた。その事実に驚愕し、クルヴィ司祭は双眸そうぼうを大きく見開いている。


「すみません……」


 オネット夫妻が命懸けで守り抜いた我が子の命を、託された命を、命を懸けて守り抜かなくてはいけない。そう思ったら、ニュクスは咄嗟にダガーナイフを抜き放っていた。恩人へ牙を剥く。所属組織へと反目する。そのような些末な事情を一切省みることなく、感情は、幼い命を守り抜く決意を即座に行動へ変えさせた。


「……どうして私を攻撃することが出来た? 君にはくさびが打ち込んであるはずなのに」

「何を言っている?」


 飼い犬に手を噛まれた状況だ。噛まれた側が動揺するのも当然といえば当然だが、クルヴィ司祭は少なくとも痛みに関してはまるで意に返していない。痛そうな素振り一つ見せずに、右手に突き刺さったダガーナイフを淡々と抜き取っている。

 驚愕すべきは、楔を打ち込んだはずのニュクスが、主たる司祭に攻撃を仕掛けてきたという事実そのものだ。


 アマルティア教団の中でも、クルヴィ司祭だけが使える楔と呼ばれる呪いが存在する。

 楔を打ち込まれた人間は自覚を持たぬまま、心の奥底に、クルヴィ司祭の命令を無条件に受け入れてしまう強い支配を受けてしまうことになる。支配に及ぶ呪いの定着は難しいが、凄惨な事件等を経験し、心に大きな傷を負った少年少女相手ならば楔を打ち込むことは比較的容易だ。故にクルヴィ司祭はそういう人材を好んでアサシンの候補として迎え入れる。

 洗脳ではないので、本人の自由意志は変わらず健在だ。クルヴィ司祭の狡猾こうかつなところは、勧誘する人材の窮地を自らの手で救い、強い恩義を感じさせた上でアサシンとして教育していくところにある。恩人のために力になろうとする意志は向上心を生み、より鋭い凶器としての方向性を指し示す。その上で、無意識下に発動している楔の呪いによって、どんな任務であろうともクルヴィ司祭の命令に従い、良心の呵責かしゃくにもさいなまれることもなく行動していく。それさえも、恩人のために自らの意志で突き進んでいるのだと錯覚して。

 強い支配を受けているが故、土壇場でも司祭を裏切ることはない。性格によっては時折、感情的な反論が飛び出すこともあるが、その程度では楔は抜けない。反発は一時的な気の迷いだったのだと、直ぐに己の感情を否定し自己完結へと導いてしまう。


 こういった楔の性質から、クルヴィ司祭は最初にニュクスがイリスを殺せないと反発したのも、あくまでも一過性の迷いであると考えていた。それがまさか二度も命令に背き、あまつ支配者に対して攻撃まで仕掛けてくるとは。あまりにも想定外な状況だ。


「……どうして楔が外れている? いったい何が起こった?」

「楔とは何なんですか!」


 不意に押し寄せてきた不快感に耐え切れずにニュクスが怒声を上げるが、クルヴィ司祭は思考の殻に閉じこもってしまい、返答を発しない。


「……ロディアじゃあるまいし、どうしてニュクスの楔まで……まてよ、ロディア?」


 己の中で一つの結論を導き出し、クルヴィ司祭は憎らし気に下唇を噛みしめている。

 これまで数多くの少年少女に楔を打ち込み、忠実なアサシンとして育て上げてきたクルヴィ司祭だが、一人だけ楔を打ち込めなかった少女が存在した。纏血てんけつの異名を取る黒髪の女性アサシン、ロディアだ。

 惨い仕打ちを受けて来たことでロディアは精神に異常をきたし、殺人者としての才能を開花させた。ニュクスと同じ場所に存在することだけが望みという彼女の思考も相まって、楔で支配せずとも大きな問題は起こらなかったが、先日、ついにロディアは身勝手に所属を外れ、姿を眩ますという問題行動を起こした。楔が打ち込まれていたら、こんなことにはならなかったはずだ。


 楔は呪いに分類される。楔を打ち込めなかった以上、ロディアは生まれつき、呪いという物に耐性を持つ特異体質であった可能性が高い。


 あくまでも推測だが、呪いを受け付けないロディアはニュクスと、互いを最も大切な存在であると認め合う比翼ひよく連理れんりだ。もしもロディアの特異体質が、肉体的接触によってニュクスにも少しずつ影響を与えていたと考えれば、ニュクスの中の楔が徐々に不安定な物となってきた可能性は否定できない。大恩たるクルヴィ司祭に対する忠誠心と、ロディアと共にありたいという執着故に、これまでは不安定となった楔の影響が表面化してこなかった。しかし、このルミエール領での任務が、ニュクスに決定的な変化を与えてしまったとすればどうだろうか。

 元来は優しい性格であった青年が、平和な土地で再び人の温かさに触れる。決して折れぬ強さを持つ女傑ソレイユの存在に感銘を受ける。それによって、ただでさえ不安定だった楔が、いよいよ抜けかけていたとしたら? ソレイユ・ルミエール暗殺の長期化も、楔が不安定となった影響で情に流されていた可能性も考えられる。

 そして決定的な出来事。大恩あるクルヴィ司祭が、温もりの象徴たる一家の生き残りの少女を、その手で殺せと非情な命令を下した。突発的な感情的反発も相まってその瞬間、楔は一気に心から抜けてしまった。

 今のニュクスは、非情な命令に従う無意識下の義務を喪失している。自分の意志で反発出来る。


 それでも恩人に対する思いは変わらないが、幼い命を守ることを感情が優先してしまった以上、それは恩人との離別に他ならない。

 今は何も出来なかった少年時代とはわけが違う。今のニュクスには、己の道を己で切り開くだけの戦闘能力と自己を有しているだから。


「ソレイユ・ルミエール暗殺が未達成だったことも惜しいが、これまでの活躍で十分釣りは来るか」


 冷徹なまでにクルヴィ司祭という人間の決断は早い。手塩にかけて育て上げて来た最強のアサシンであろうとも、数多くの英雄をほふって来た究極の凶器であったとしても、いざという時に制御不能に陥る可能性があるというのなら、手元に置いておくのは危険だ。


「残念だよニュクス、君を廃棄しなくてはならないとは」

「……俺が命令に逆らったからですか?」

「いいや、これは楔の打ち込みと目測の足らなかった私の落ち度だ。君が気に病む必要は無い」


 落ち度という表現とは裏腹に、クルヴィ司祭の瞳には明確な悪意が渦巻いている。


「せめてもの慈悲だ。その小娘ともども君を送ってあげよう」

「……楔だの落ち度だの、正直訳が分からないけど、殺すならせめて俺だけにしてください。さもないと」

「さもないと?」

「イリスを守るために、俺はきっとあなたを殺してしまう」


 恩人に対する親愛の情を残しながらも、鋭い眼光は殺人をいとわぬアサシンのそれであった。それは楔が完全に抜けていることを改めて証明している。楔が打ち込まれていたなら、複雑な感情を宿しながらも、成されるがままに死を受け入れていたはずだ。


「廃棄される運命にあるガラクタが随分な口をきく。私を殺す気でいるというのか?」

「暗殺部隊統率者として、俺の力量はあなたが一番よく分かっているでしょう?」


 イリスを優しく地面へと置き、ニュクスは腰に帯剣していた二刀のククリナイフを抜刀する。口ではああ言ったが、裏を返せばクルヴィ司祭はニュクスの手の内を理解しているということでもある。対するニュクスはクルヴィ司祭の本気というものを目の当たりにしたことはない。下手に策を講じるよりも、持ち前の身体能力で一撃必殺を狙うのが無難だ。


「凶器が使い手に逆らうものではないよ」

「……忠告はしましたよ」


 持ち前の俊足で迫ったニュクスを、クルヴィ司祭が魔術で迎え撃つ。

 肉薄したニュクスがククリナイフを振るうとほぼ同時に、激しい閃光が二人を覆い隠した。

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