第23話 託された命
一変してしまった町並みを抜け、ニュクスはオネット夫妻の営む宿へと急ぐ。
他の住民と共にルミエール家の屋敷に避難してくれていればいいが、事前にヤスミンから聞いていた話によると、オネット夫妻は宿を負傷者の受け入れる救護所として開放していたそうだ。心優しいオネット夫妻のこと、自由に身動きが取れない負傷者を置いて我先にと避難するとは思えない。それは娘のイリスにも言えることだ。
ここまでやって来る間にも、所々で住民の遺体を目にして来た。唐突に出現した四柱の災厄により引き起こされた火災故に、逃げ遅れた者も少なくないようだ。だとすれば、オネット一家も逃げ遅れている可能性は高い。せめて宿が無事でさえあれば、ニュクス自身が一家を守ることも出来るが、
「……くそっ!」
宿屋が居を構える通りへと到着したが現実は非情だ。
オネット夫妻の宿も例外なく猛火に飲み込まれており、二階建てだった建物は二階部分が焼け落ち、一回り小さくなってしまっている。
「イリス!」
変わり果ててしまった宿へ向けてニュクスは、自分を兄のように慕ってくれた少女の名を叫ぶ。どんなに小さな返答であろうと聞き漏らすまいと、ニュクスは聴覚へ意識を集中させる。
「……イリスを……」
焼け崩れた宿の中から、今にも消え入りそうな、か細い女性の声をニュクスの耳は確かに拾った。生存者がいると確信したニュクスは燃え盛る炎に怯まず宿の中へと飛び込む。
かつては宿のエントランスだった空間には、焼け落ちた二階部分を構成していた木材が降り注いでいた。その中に、重い木材に押しつぶされた人影を見つける。
「……旦那さん……女将さん……イリス」
人影の正体は、イリスを庇うようにして木材に押しつぶされたオネット夫妻であった。
旦那さんは落ちてきた太い
「……女将さん俺です」
「……誰か……娘だけでも……」
「……」
女将さんの耳には、すでに間近で語り掛けるニュクスの言葉も届いていないようだった。
腰から下はすでに原型を留めぬ程に潰されており、意識を保っているだけでも奇跡的な状況。せめて我が子だけでも守らなければという、強い精神力だけで命を繋ぎ留めている状態だ……例え医者や治癒魔術の使い手がこの場にいたとしても、これだけの重症を負った人間を救うことは不可能であろう。
抱きかかえられたイリスは意識を失っているものの息はしている。大きな怪我をせずに済んだのは、両親が身を挺した彼女を庇ったからこそであった。
「娘……お願――」
例えそれがニュクスだとは分からなくとも、娘の命を預けられる救いの手の存在を確信したのだろう。ニュクスの到着から程なく、愛する娘の姿をその目に焼き付けるかのように目を見開いたまま、女将さんは静かに事切れた。
「……女将さん。あなたはイリスは守り抜きましたよ」
絞り出すようにそう言うと、ニュクスは女将さんの
革製のグローブをはめ、イリスを救い出すのに邪魔な木材を、炎熱に耐えながら一つずつどけていく。
救出に十分なスペースを確保すると、イリスを抱きしめる女将さんの腕を外していき、最期の瞬間まで娘を守り抜いたオネット夫妻から、イリスの身柄を大切に引き受けた。
「……もう大丈夫だ。もう大丈夫だから」
厳しい状況を生き抜いた幼い命をニュクスは優しく抱きかかえる。
素早く脱出しなければ、宿屋は完全に焼け落ちてしまう。
お世話になったオネット夫妻を、イリスの両親の遺体をここに残していくことは心苦しいが、イリスを救うためには二人をこの場に残していく他ない。宿屋で救護を受けていたという負傷者に関してもそうだ。この様子では生存者は望めないし、捜索している余裕も存在しない。抱きかかえる幼い命を救うだけで手いっぱいだ。
「……せめてイリスだけは、俺が無事に脱出させますから」
振り返られぬままオネット夫妻の亡骸へそう言い残すと、ニュクスはイリスを抱えて宿屋の外へと飛び出した。脱出と同時に延焼の勢いはさらに加速、宿屋は音を立てて完全に倒壊してしまった。
「……早くイリスを安全なところへ」
「やあニュクス。直接顔を合わせるのは久しぶりだね」
聞き慣れた恩人の声に、ニュクスの頬を冷や汗が伝う。
どうして暗殺部隊の統括責任者が、猛火広がる最前線などに赴いている?
通りの先には、猛火に囲まれながら汗一つ掻かず、好々爺めいた笑みを浮かべるクルヴィ司祭が佇んでいる。
「どうしてクルヴィ司祭がこのような場所に?」
嫌な予感がする。
猛火に囲まれているというのに、雪原に放り出されたかのように背筋が冷える。
「君にとても大切な任務を与える。信頼する君だからこそ、こうして私直々に内容を伝え、見届けようと思ってね」
見届けるという表現を使った以上、今この場で実行可能な命令を与えるということ。最悪な想像がニュクスの中に広がっていく。
「そう難しい仕事ではないよ。今この場で、抱きかかえたその少女を殺して見せてくれないかな?」
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