第18話 赫 -アカ-
「……いったいこれは」
避難民を護衛してカキの村まで到着したカメリアは、その衝撃的な光景をすぐさま理解出来ずにいた。
脱出のための中継地点および防衛拠点として、厳重な警戒態勢を敷いていたカキの村は、鮮血溢れる地獄絵図と化していた。防衛にあたっていた騎士達は原型を留めぬ程に全身を切り刻まれ、例外なく血の海へと沈んでいる。アマルティア教団の侵攻開始以来、一度も突破されたことのなかったカキの村の守りが、見るも無残に切り崩されていた。
「……人影?」
赤黒い血液に塗れた家屋の影から、全身を血液で染めた華奢な少女が姿を現した。年の頃は10代半ばといったところだろうか? プラチナなブロンドのロングヘアと青い瞳。陶器のような色白の肌を持つ美しい少女だ。衣服は体のラインが透ける薄手の白いロングドレスのようだが、大量の血痕が付着し、赤色の面積の方が多くなってしまっている。
状況だけを見れば、惨劇の中の唯一の生存者とも見て取れるが、
「君、村でいったい何があったんだ」
「待て! 不用意に近づく――」
少女の身を案じ駆け寄った同僚の騎士をカメリアが制そうとするも、時すでに遅し。
「えっ?」
少女に近づいた騎士は、瞬間的に襲い掛かった鋭い痛みに疑問を浮かべたまま、一瞬で首を刎ねられた。切断面から噴水の如く勢いで血液が噴きあがる。
周辺に敵影は無く、凶刃の主が少女であることに疑いの余地はない。事実、ロングドレスの裾からは血を帯びた、鋭利な尖端を持つ黒い触手のような物体が複数本覗いている。あの鋭利な触手が騎士の首を刎ねたと見て間違いない。
当然ながら、人体を切断する威力を持つ触手を体から生やした人間など存在しない。人の姿をしているが、少女の正体は人外の魔物であると見て間違いないだろう。
「あなた方は、私の退屈を紛らわせてくださいますか?」
少女が可憐な笑みを浮かべると同時に、空気感が一気に死一色に染め上がっていく。一瞬でも判断を誤ればその瞬間に命を落すと、カメリアの生存本能がそう警告する。
「来るぞ! 回避しろ!」
少女の裾から伸び出した無数の触手が、恐るべき速度で護衛の騎士達へと迫る。
「くっ! ああああああ――」
一人の騎士は瞬間的に右方向に飛んで回避しようとしたが、回避方向からも二本の触手が迫り、右脇腹から体を刺し貫いた。そのまま二本の触手は逆方向へと騎士の体内を切り抜け、胴体を完全に両断した。
「嘘だろ――」
一人の騎士は回避は間に合わないと判断し、バックラー(丸盾)で触手の攻撃をやり過ごそうとするが、触手は易々とバックラーを貫通。そのまま騎士の顔面と腹部一撃で刺し貫いた。
「く、来るな――」
「よせ――がああああ――」
一人、また一人と少女の触手の餌食となっていく。
4人目の犠牲者が無残に四肢を断たれ戦死。僅か3分程で、生き残りの騎士はカメリアと、馬車の側に待機させていた後輩の騎士の二人だけとなってしまった。
「あなたはなかなか粘りますね。少しだけ楽しいです」
「……化け物め」
あらかたの騎士を排除したところで少女は攻撃の手を緩め、触手を一度ドレスの裾の中へと引き戻した。
致命傷こそ負わなかったものの掠めた攻撃も少なくなく、カメリアは全身に浅い切り傷を負っている。状況は絶望的といってもいい。
――このままじゃ全員殺される。危険は伴うが、この場に留まるよりはマシか。
「僕が時間を稼ぐ。急いでリアンの町まで戻るんだ!」
馬車を護衛する後輩の騎士へと指示を飛ばす。あの恐るべき魔物が存在している以上、カキの村の突破は困難だ。街道を引き返す最中に教団の別部隊の襲撃を受ける可能性も考えられるが、この場で少女の姿をした魔物と一戦交えるよりはよっぽど生存の可能性は高い。
ルミエール領に使える騎士として住民の命を。たった一人の家族として大切な妹の命を。絶対に守り切らないといけない。
自らの命を犠牲に時間を稼ぐことこそが最善の策であるとカメリアは即断した。魔物が不穏な動きを見せればすぐさま対処出来るよう、馬車に背を向け魔物の動きを注視する。最期に愛する妹の顔を一目見たいという衝動に駆られるが、振り向いた隙を突かれるわけにはいかない。妹と住民達をこの場から逃すために、もう後ろは振り返らないと決めた。
「兄様を置いてはいけない。私も残ります!」
カメリアの言葉を聞いた妹のソールが、いてもたってもいられず馬車から身を乗り出す。たった一人の肉親が自己犠牲によって自分達の命を救おうとしてくれている。妹として絶対に許容出来ない。
どうしようもない状況であることは理解している。ルミエール家に仕える者として住民の命は守らなくてはいけない。故にカメリアの決断そのものに意は唱えない。
だけどせめて、最期の時は愛する兄と共に。
それだけだがソールの願いであった。
「駄目だ! 中に戻れ! ソールのことだけは絶対に守り抜くと僕は誓ったんだ。僕のためにも君は生きてくれ……早く馬車を出せ!」
「嫌よ! 兄さ――」
ソールの悲痛な叫びが不自然なタイミングで中断され、不意にゴトンと、何か重い球体が地面に落下した嫌な音が鳴った。
カメリアの全身から冷や汗が噴き出す。目の前で同僚たちを無残に切り刻まれた時以上の悪寒が体中を貫く。
振り向いてはいけない。隙を見せてはいけない。見てはいけない。確信してはいけない。直接目にしなければ、不安は不安のままで終わる。認識するまではそれは現実ではない。
目視してしまったら、きっとそんな現実は受け入れられない。
それなのに、何かの間違いであってほしいと砂粒よりも小さな希望を抱き、カメリアは咄嗟に音のした後方へ振り返ってしまった。
「ソール?」
馬車から身を乗り出した妹の体には、本来存在すべき頭部が見当たらない。
訳も分からず視線を落とすと、
「……ソール?」
頭部が切り離された人間が存命しているはずがないことくらいは分かっている。
それでも、あまりにも一瞬かつ呆気ない出来事が故、状況をすぐさま理解出来ずにいた。ひょっとしたら呼び掛けに応じてくれるのではと、思わず、何度でも、愛する妹の名を呼んでしまう。
「僕の視界に映り込まぬように、長い距離を回り込んだのか……」
絶望はまだ終わらない。
圧倒的な射程を持つ無数の鋭利な触手は、村の外周を通って馬車の背後へと回り込んでいた。ソールの首を落したのもその内の一本だ。
カメリアは決して警戒を怠ってはいなかった。目につく範囲に触手が伸び出された気配は無かった。初見の状態で、魔物の触手が圧倒的なリーチを誇り、村の外周を回り込んで背後を取るなどと想像出来るはずもない。
「止めろ……」
鋭利な触手が馬車目掛けて襲い掛かる。
事態を察したリアンの町の住人達も馬車から飛び出し、触手から逃げ延びようと必死に駈けるが、
「止めてくれー!」
一か八かカメリアが本体たる魔物の少女へと斬りかかるも、少女とカメリアとの距離よりも、触手の攻撃速度の方が圧倒的に上回っている。
耳を塞ぎたくなる断末魔が次から次へと飛び交っていく。老若男女関係なく、無数の斬撃によってそれらは人の形を失っていく。斬撃の凄まじさ故に、血飛沫は距離のあるカメリアの足元にまで届いていた。馬車も二頭の馬ごとバラバラとなり破片が飛び散る。鮮血に塗れたそれは馬車の木片の一部なのか、乗り合わせた人達の肉片の一部なのか、赤すぎてもはや区別がつかない。すでに命を落していたソールの亡骸も追い打ちでさらに無残に切り刻まれ、もはや原型を留めてはいない。
「……なんてことを……なんてことを……命を賭して守りぬくと誓ったのに……どうして僕の方が生きている……」
絶望の底に突き落とされ、カメリアは力なくその場に崩れ落ちた。
あまりにも衝撃的な光景に涙すらも出てこない。
このような惨たらしい現実など、受け入れられるはずがない。
「……何故だ。何故殺した」
それでも、剣だけは絶対に手放さない。
愛する妹を惨殺した仇を前に、怒りに震えぬ兄などいない。
百回殺しても足りない。百回殺されたって剣を突き立ててみせる。
すでに手遅れではあるが、民を守るために剣を振るい続ける騎士としての矜持もある。こんな危険な魔物を野放しにはしておけない。実力差は歴然だ。きっとカメリアはここで死ぬだろう。それでも、後にこの魔物と対峙するであろう者たちの勝機へと繋げられるよう、せめて腕の一本でも奪って刺し違えてみせる。
自らの死さえも省みぬ、鬼人の如き鋭い眼光でカメリアは立ち上がる。
攻撃する隙などいくらでもあっただろうに。少女の姿をした魔物は笑みを浮かべたまま、律儀にもカメリアの再起を待っていた。魔物は状況を楽しんでいる。
「……一つ聞かせろ。どうして立ち塞がった僕ではなく、後方の馬車を狙った?」
魔物に対する問い掛けに意味があるとは思えなかったが、想像以上に魔物は理知的であった。あまりにも身勝手だが、それ故に説得力のある残酷な返答を、可憐な少女の声で告げる。
「あなたは他の方よりも強そうでしたから、こうした方が怒りを力に変えて、もっと私を楽しませてくれるのではと思いまして」
満面の笑みを浮かべる魔物に、カメリアは即座に斬りかかった。
鋭利な触手をカメリアの後方の馬車へと伸ばしたこと自体が魔物にとっての隙だ。カメリアを切り刻もうと後方から猛スピードで死の触手が迫るが、カメリアの速力ならば触手に追いつかれるよりも先に、ギリギリ本体へと接触することが出来る。別の攻撃手段を要している可能性も十分考えられる。本来正面切っての突撃など愚行だが、僅かな可能性に賭け、全力で一撃を加えること以外にカメリアに選択肢はない。
正面から妨害を受けることはなく、カメリアは魔物の至近距離まで迫る。少女の姿をした、その華奢な首を一撃で刎ね飛ばしてやろうと、ブロードソードで全力で薙いだ。
軌道は完璧。鋭利な刃が華奢な首と接触するが、
「悪夢もいいところだ……」
少女の首と接触した瞬間、甲高い接触音が鳴り響き。ブロードソードは呆気なく弾き返されてしまった。接触面は微かに刃こぼれを起こしている。
「細い首に対する容赦ない一太刀。狙いは見事でしたが、残念ながら私の首の硬度は、武器である触手と同等ですよ」
「化け物め――」
悪態を吐きつくす権利さえもはく奪され、追いついた鋭利な触手の群が、背後からカメリアの体を刺し貫いた。
――ごめんよソール……仇を……討てな……
最期の瞬間にカメリアに浮かんだ情景は、愛する妹の顔であった。
カメリアの体を貫通した無数の触手はバラバラの方向へと抜けていき、カメリアの体を無残にも内部から切り刻んでいった。
「人間というのは脆過ぎていけませんわ。どこかに私を満足させてくださる殿方はいないものでしょうか?」
カメリアの体中から飛び散った血液が、少女の姿をした魔物ドレスをさらに赤く染め上げていく。不満気に溜息を吐きながら、魔物は手の甲に付着したカメリアの血液の飛沫を妖艶に舌で舐め上げた。
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