第52話 野に放たれし狂気

「……彼女は?」


 本館正面玄関前には、ジャケットを脱いで血塗れのブラウス姿となり、近くの噴水の縁に腰を下ろすソレイユ一人だけであった。ロディアの姿はどこにもない。


「形勢不利を悟って撤退しましたよ。足の速さでは敵わず、追撃は諦めることにしました。最後の最後まで、凄い剣幕けんまくで私をにらみ付けていましたが」

「……そうか」


 この状況でソレイユが嘘をつく必要はない。自身にとっての最悪の事態だけは免れたと知り、ニュクスは安堵の表情でソレイユの左隣に腰を下ろした。


「どうやってロディアを退けた?」

「仕込みや予備も含めて、全ての武器を破壊しました。手練れとはいえ、武器を失っては圧倒的に不利ですからね」

「軽々しくとんでもないことを言ってくれる。戦闘中に意図的に武器破壊なんて」

「大変でしたよ。重傷でないとはいえ、全身傷らだけです。しばらくはシャワーが染みそうですね」

「……俺もだ」


 傷の数はソレイユの方が多いが、傷が深い分、負傷の程度はニュクスの方がやや重い。今回のアントレーネはニュクスへの複雑な感情故に、アサシンとしての強みであるはずの冷静さをいちじるしく欠いていた。アントレーネが私闘ではなく任務として襲ってきていたなら、ニュクスといえどもこの程度の傷では済んでいなかったことだろう。


「王都へ到着する前日、あなたと星空のお話しをしましたね」

「ああ」

「あの時あなたが言っていた、昔一緒に星空を見上げていた方というのは、あのアサシンの女性ですか?」

「……そうだ。正確にはアサシンとなる前の彼女だがな」

「彼女はあなたにとって、とても大切な存在なのですよね」

「俺の生きる意味。生きる希望。命を懸けてでも守り抜きたい存在。どれだけ大切か、語り出したらキリがない」

「あなたがアサシンとなった理由も?」


 非情なアサシンと呼ぶには、ニュクスの根は善人寄りだ。その道を歩むに至った経緯には、置かれた状況など現実的な理由以外にも、何か強い思いのような物が存在していたはずだとソレイユは想像していた。ニュクスがあらゆる表現をもって大切だと評する一人の女性は、その理由に十分だろう。


「あの子を救うためには、力をつけるしかなかった。例え人としての道を踏み外したとしても、あの子を平穏な日常へと戻してあげることさえ出来れば、それで構わないと思っていた……だけど」

「彼女もアサシンとなってしまった?」


 表情を見せぬように、ニュクスは無言で頷いた。


「平穏な日常に戻るには、あの子の闇は深すぎた。世界の残酷な一面は、幼いあの子の華奢な体を無慈悲に貫いた」

「それでも、寄り添い続けることに決めたのですね?」

「……俺はあの子の人生に対して責任がある。行き着く先が地獄だろうと、俺の人生はあの子と共にある」

「あなたは強い人ですね」

「……止めてくれ。とうの俺自身は弱くなったと自覚しているんだ」

「私は、初めて出会った頃のあなたよりも、今のあなたの方が好きですよ」


 励ましのつもりなのだろう。ソレイユは肩を寄せてニュクスの肩を小突いた。肩を使ったのは、負傷している左手を上手く使えなかったためだろう。


「休憩も済みましたし、お屋敷に戻りましょうか。一度皆と合流しなければ」

「そうだな。だが、まだ気は抜くなよ?」

「……内通者がいるとして、私達の近くにいると思いますか?」


 限られた者しか知らぬ会食の機会が狙われたこと。当然、ソレイユとニュクスも内通者の存在を疑っていた。客観的に見たら一番怪しいのは同じ組織に属するニュクスだろうが、図らずも教団の企みを妨害する形となった以上、ソレイユの中ではすでに容疑者候補から外れている。


「内情にうとい俺の意見なんざ参考になるか怪しいが、内通者がいるとしたら、王子の死で何かしらの得をする人物と考えるのが妥当だろうか」


 〇〇〇


「……あの女、あの女、あの女――」


 ビーンシュトック邸から敗走したロディアは、先日の作戦会議にも使用した廃屋へと逃げ込んでいた。ソレイユに対する激しい怒りとニュクスを取り戻せなかった喪失感とが混ざり合い、憤怒ふんどの形相に大粒の涙を浮かべている。


「その声、ロディアか?」

「……何だミガじゃない。生きてたんだ」

「……俺の実力じゃとても敵わないと思い、恥を忍んで撤退した。君が無事で何よりだ」


 黒い短髪と赤いローブ姿が印象的な若い男性アサシン――ミガが、表情に疲労感を滲ませ、古びた木製の椅子へと腰掛けた。

 ミガは此度の暗殺任務に参加したアサシンの中では実力は下の方で、格上の実力者達が次々と返り討ちにあっていく状況に絶句し、息を潜めて逃走の機会を伺っていた小心者だ。結果、一度も戦わぬまま、無傷でビーンシュトック邸から逃げ延びてきた。


「ニュクスが裏切ったのを知っているか?」

「……何?」

「撤退の直前に目撃したんだ。ニュクスがアントレーネを切り捨てるところを」

「そっか、アントレーネ死んじゃったんだ。やっぱりニュクスは強いな」


 ロディアの反応に、アントレーネの死を惜しんでいる様子はまるで感じられない。ロディアの中に存在するのは、変わらぬ強さを証明したニュクスに対する尊敬と愛情の念だけだ。そのことに、ミガはまったく気づいていない。


「とにかく、一度本部に戻ろう。色々と報告しなければ」

「私は戻らないよ。戻ったら懲罰ちょうばつやら次の任務やらでしばらく自由が利かないもの。あの女を殺すための時間が惜しい」

「な、何を言っているんだロディア。いいから一度本部に戻ろう。ニュクスが裏切ったと本部に報告しないと」

「そっちこそ何言っているの? ニュクスは何も悪くないよ。悪いのは全部あの女」

「た、頼むから一緒にニュクスの裏切りを報告してくれよ。そうすれば任務を失敗した俺たちに対する罰も軽くなる」


 小心者のミガは、作戦を失敗しおめおめと敗走したことに対する罰を何よりも恐れていた。作戦失敗の原因は最強のアサシンであるニュクスの裏切り。そういう形へ持っていくことで、自らの責任を少しでも軽くしたいと考えていた。実力者のロディアが一緒に証言してくれれば、発言の説得力も増すというものだ。


 ミガは小心に加えて思考もあまりに浅はかだった。

 言葉を選べば、少なくとも教団へ戻るまでの僅かな間は生き長らえただろうに。


「いい加減うるさい。黙ってよ」

「えっ――」


 丸腰のロディアは瞬時にミガの腰からダガーを盗み取り、これ以上言葉を発せないように容赦なく喉笛のどぶえを裂いた。ド派手に赤色を撒き散らしながら、ミガの体が椅子ごと仰向けに倒れていく。


 これで邪魔者はいなくなった。教団に戻らず、好きなだけソレイユを殺害する機会を伺うことが出来る。ロディアにとっての居場所とはニュクスと共にいられる場所のことを指す。ニュクスが不在の教団になど、微塵も興味はない。


「……君は、私だけのものなんだから」


 ミガの遺体から武器や薬などを拝借して廃屋を出ると、ロディアは夜の闇の中へと消えていった。

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