第39話 難しい決断

「逃げ足だけは早いですね」


 粉々になった廊下の窓から、ソレイユは目を細めて外の様子を伺う。美少年の姿をした悪趣味なぞくことアクリダは、形勢不利を悟ると強気な態度が一転、屈辱を表情に滲ませながら惨めに敗走していった。

 不意打ちが利かず、一撃必殺の秘毒を塗ったチャクラムが肩を掠めたはずなのに、どういうわけか毒も利かず。思い通りにいかぬ状況に焦ったアクリダの姿は終始、駄々をこねる子供のようであった。生死による決着はつかなかったとはいえ、この勝負は完全にアクリダの敗北だ。

 追撃するか否か、ソレイユはしばし思案する。今更追いつけるとも思えないし、状況を完全に把握出来ていない中で屋敷を離れるのが得策とも思えない。戦闘能力に優れる臣下たちやシエルはまず問題無いだろうが、屋敷内にはペルルやリュリュのような非戦闘員も大勢いる。やはり追撃はせず、屋敷内で他の者と合流するべきだろうという結論に至った。


「ニュクス、この状況下であなたはどのように動かれるのですか?」


 窓の外に広がる夜の闇へとソレイユは問い掛ける。

 会食が終わって以降、ニュクスの姿は見ていない。屋敷内にいるのか、あるいは外出中なのか。今回の敵はアマルティア教団の中でも特にニュクスと関係の深い暗殺部隊の人間達だ。この状況下で彼がどのような行動を取るのか、それはソレイユにも分からない。契約もあるので、仮に彼が他のアサシンと結託けったくして襲い掛かってきたとしても恨むつもりはないが、どのような形であれ、願わくばまだ彼とはお別れしたくないというのがソレイユの本音だ。




「……何なんだ! 何なんだよあの女! 何で不意打ちも毒物も利かないんだよ!」


 ビーンシュトックていから敗走したアクリダは、住宅街の外れにある、廃屋の立ち並ぶエリアへと逃げ込んでいた。胸部にはソレイユに斬り付けられた傷が斜めに走っており、全力で逃走した影響で先程よりも出血が多くなってきている。すぐさま命に関わる程の負傷ではないが、いつも一方的に標的を殺めてきたアクリダにとって、一方的な負傷は何よりも屈辱であった。


「あの女、いつか絶対に殺してやる……」


 少し体を休めようとアクリダは廃屋の外壁に背中を預け、ここぞとばかりに呪いを吐く。今回は不意打ちと毒が効かなかったことで少し動揺してしまったが、殺す手段など幾らでもある。人質を取ってもいいだろうし、適当な理由をつけて人員を集め、数の暴力で殺したっていい。

 自らに敗北の屈辱を与えた女の惨たらしい死に様を想像し、アクリダは少しでも留飲りゅういんを下げようとしていたが、


「お前如きじゃ、あのお嬢さんは殺せないよ」


 鋭い殺気を受けたアクリダの表情は一気に凍り付く。すでに失言はなされた後だ。


「……ニュクス」

「久しぶりだな、アクリダ」


 廃屋の影の闇から、眼光鋭い灰髪のアサシンが姿を現す。

 その両腕には、すでに得物である二刀のククリナイフが握られている。


「独り言が大きすぎるんだよ。ソレイユ・ルミエールを襲ったな?」

「……い、いや、僕は」


 恐縮するあまり、雑な言い訳すら浮かんで来ない。

 秘毒の利かない女がそう何人もいるはずがないし、アクリダの傷跡もタルワールの形状と一致する。アクリダがどのような言葉を吐こうとも、彼の犯した過ちをニュクスはすでに確信している。


「俺が獲物を横取りされることを嫌うのはお前も知っているだろう?」

「……はっ、横取りを嫌うくらいなら、さっさと殺しちゃえばよかったんだよ。それなら僕だってこんな思いをすることは」

「逆ギレして責任転嫁か。見た目だけじゃなく内面まで幼いらしい。お前本当は、俺よりも年上のはずだよな?」

「……僕を馬鹿にしてるの? 殺すよ」

「やれるのものならやってみろよ。お前、俺のことが昔から嫌いだったろ?」

「望み通り殺してやるよ! 僕の方が強いんだ!」


 アクリダはすぐさま上体を起こし、忍ばせていたチャクラムを二枚投擲した。ソレイユ戦のまま刃には秘毒が塗ってある。いかに最強のアサシンといえども人である以上毒物で殺せるはず――


「えっ?」


 ニュクスは回避を選択せず、あえて力量差を見せつけるかのように、一枚のチャクラムを右のククリナイフの柄頭で叩き落とし、もう一枚は左のククリナイフの切っ先を中心の穴に引っかけて軌道を逸らすという器用な真似を見せた。

 その後もアクリダは手持ちのチャクラムを手あたり次第投擲していくが、ニュクスはその場を一歩たりとも動くことなく、全てのチャクラムを落してしまった。

 

 ――とんでもない化け物に喧嘩を売ってしまった。


 後悔先に立たず、アクリダの自信とプライドは完全に砕け散っていた。

 しかし、現実を受け止め絶望感に浸る権利すらもニュクスは与えてはくれない。

 アクリダの意識の隙間を縫い、持ち前の俊足で瞬間移動の如く背後を取る。

 

「同胞を殺すのか? 僕達は同じ暗殺部隊の仲間――」

「見苦しい。それがお前を許す理由になるとでも?」


 背後にニュクスの気配を感じ取ったアクリダの苦し紛れの懇願は、ニュクスの前では無意味だった。ニュクスは一切の躊躇なく、アクリダの心臓をククリナイフで貫いた。


「俺の獲物に手を出す奴は、誰であろうと許さない」


 ククリナイフを引き抜くと同時に、ニュクスは物言わぬ屍と化したアクリダの背中をぞんざいに蹴り飛ばした。

 仮にも同じ部隊に所属する人間を殺害したわけだが、後悔の念はまったく浮かんでこない。相手が憎たらしいアクリダだったからというのもあるが、それ以上に、ソレイユの命を狙われたことに対する怒りの念の方が遥かに強かったためだろう。

 

「お嬢さんを殺すのは俺だ」


 ロディアやアントレーネに協力する形で、今夜ソレイユとの関係に終止符を打つのか。あくまでも自身の手で全てを終わらせるため、契約の名の下にソレイユの剣として同胞に切っ先を向けるのか。


 難しい決断が求められようとしていた。

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