第4話 出会いの記憶の一片

 それは、遠い過去へと置いてきてしまった出会いの記憶の一片。


「こんにちは」

「君は確か、ヴィクトルさんの」


 木陰で寝そべっていた灰色の髪の少年の顔を、美しい黒髪と赤目が印象的な少女

が、木洩こもれ日と共に笑顔で覗き込んだ。


 灰髪の少年は画商の一人息子であり、11歳となったこの年、父親の仕事へと同行し、初めて大陸南部の商業都市「アルテ」を訪れていた。商談も一段落ついたので今は自由行動中。風景に心惹かれ、街外れの自然公園で穏やかな午後を過ごしていた。

 黒髪の少女はアルテを中心に商売を展開している商家の一人娘だ。少女の父親と少年の父親とは古くからの友人で、仕事上の良きパートナーでもある。此度の絵の商談も少女の父親の仲介の下、住居を兼ねる彼の商店にて行われていた。商談には参加せずとも少女も同じ建物内におり、少年とも一度顔を合わせている。

 商談後、父親たちは別件の打ち合わせを始めてしまった。その場に留まっていても10歳の少女には退屈でしかない。そんな時、商店を出て街の方へと繰り出していく灰髪の少年の後ろ姿を見かけたので、こうして公園まで追いかけてきた次第だ。


「お店にいても退屈だから、あなたを追いかけてきちゃった」

「退屈?」

「パパ達ったら、お仕事が終わったと思ったまた別のお仕事のお話しを始めちゃうんだもの」

「それが父さん達の仕事だから仕方がないよ。そのおかげて俺たちはこうして生活が出来ているわけだし」

「君は真面目なんだね」


 似たような境遇の少年から同意を得たかったのだろう。少女は少しだけむくれ顔だ。

 少年とこうして会話が出来たこと自体はとても嬉しかったらしく、すぐに笑顔へと戻り、少年の隣に腰を下ろした。


「君も将来はお父様の仕事を継ぐの?」

「どうだろう。絵は好きだけど、画商の仕事に就きたいかと言われるとそれはまた別の問題だから」

「どういうこと?」

「俺は絵を収集したり売買したりすることよりも、自分で絵を描いてみたいと思ってるんだ。今も父さんの仕事を手伝って各地を旅する傍ら、独学で絵の勉強をしている」

「凄い。じゃあ、将来は芸術家さんだ」

「芸術家を目指しているのかと言われると、それも何だか違う気がする。画商の息子が言うことではないけど、芸術のことはよく分からないし。俺はただ、絵を描いている時間が好きなだけなんだ。将来、絵を描くことを生業なりわいとしているかは分からないけど、例えどんな道に進むもうとも、趣味的に絵を描くことは続けていると思う。そう確信してるんだ」

「君って、意外と熱い男の子なんだね」

「……ごめん。柄にもなく熱くなった」


 目を丸くする少女の顔を見て少年は我に返った。

 ほぼ初対面みなのに、つい長々と自分語りなんてしてしまった。

 恥ずかしさ半分、申し訳なさ半分で、少年は赤面して俯いたが、少年の発した熱量は、少女にとってはむしろ好感の持てるものであった。


「謝ることじゃない。君はやっぱり凄い人だよ! 君は絵を描くことが心の底から大好きなんだって、すっごく、すっごく伝わってきたもの」


 少女は興奮気味に少年の手を取り、驚いて顔を上げた少年を至近距離から見つめてきた。とても綺麗な瞳だった。


「……誰かに絵の話をするのは、君が初めてなんだ。不思議だよな。今日出会ったばかりなのに」


 宝石のように美しい少女の瞳に目を奪われ、少年は幼いなり異性に対するときめきを感じていた。自覚している範囲では、きっとこれが初恋。

 

「ねえ、今度私の絵を描いてよ」

「君の?」

「駄目かな?」

「駄目じゃないけど、今はまだ自信がないかな。君の絵を描くのなら、もう少し勉強してからにしたい」


 ませた子供と思われるかもしれないが、半端な絵は描きたくないと少年を強く感じていた。納得のいく、自分なりの最高傑作に仕上げたい。


「いいよ。じゃあ私は、君に絵を描いてもらう時までにもっと綺麗になる! 君の熱量に負けないように、モデル側だって妥協出来ないもの」


 弾けんばかりの笑顔で、少女は少年へと優しく右手を差し伸べた。約束の印にその手を握り返してもらうために。


「分かった、約束するよ。自分の絵に自身に持てた時、俺は君を描く」

「嬉しい! 約束だよ――」




「……夢か」


 オッフェンバック卿の屋敷内。客室の窓際にある安楽椅子あんらくいすの上でニュクスの意識は覚醒した。特段疲れていたというわけでもないのに、柄にもなくうたた寝をしてしまい、柄にもなく昔の夢など見てしまっていた。

 半ば忘れかけていた、血生臭い世界など知る由もなかった幼き日の記憶。今まではこんな夢を見ることなど無かった。幸せだった過去へ思いを馳せることは弱さと同義だと、精神が無意識の内に記憶の片隅へと放り込んでいたためだ。今更こんな夢を見てしまったのは、ルミエール領を発つ前に、あの絵を見てしまったせいだろうか。


「ニュクスがうたた寝なんて珍しいですね」

「眼鏡っ娘か」


 寝起きに瞬きを繰り返すニュクスに声をかけたのは、ベッドに腰かけて小説を読んでいたリス・ラルー・デフォルトゥーヌだ。滞在中は同室となったリスが、ニュクスの寝顔を拝むことになったのは当然のことだ。


「これも眼鏡っ娘が?」


 ニュクスが握るのは体へと掛けられた毛布。うたた寝をする前、安楽椅子に腰かけている時点ではこんな物は羽織っていなかったはずだ。眠っていたとはいえ、仮にも暗殺者が他人に毛布をかけられことに気付かなかったのは不覚だ。


「いえ、私が部屋に戻って来た時点ですでに掛けられていました。ニュクス自身に心当たりがないのなら、恐らくソレイユ様ではないでしょうか」


 リスは少し前まで街に繰り出していたし、ファルコは今日はシモンの部屋を引き払いに行くと行っていた。ウーとクラージュも所用で朝から屋敷を出ており、ニュクスに毛布を掛けてあげそうな人物は、消去法でソレイユ以外考えられない。


「そうか、お嬢さんが……」

「嫌な夢でも見ましたか?」

「どうしてだ?」

「目覚めた直後のニュクスは、どこか悲し気な表情に見えたもので」

「悲し気か……」

 

 苦笑を浮かべたニュクスは、改めて目覚めのスイッチを入れるかのように、灰髪を右手でクシャクシャさせた。


「夢の中で、羊と喧嘩したんだよ」


 リスの頭に優しく手を乗せ、ニュクスは冗談めかしてそう言った。



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