間章
男の娘のキモチ 前編
僕の本当の両親は僕のことを捨てて、どこか遠くへ行ってしまったそうだ。
小学校に入る前に僕の育ての両親、鹿河夫妻に聞かされた事実だった。
昔から僕だけ苗字が三条であり、家族の中で自分だけ違うことに変に思っていたが、小さい頃の僕は些細なことだと気にせずにこれまで過ごしてきた。
「お前がよければ本当の家族にならないか?」
威厳で固くこわばった父の表情は、いつもと違い優しい目で僕に提案をしてくる。
僕はその時不思議な気分で、今まで名乗っていた名前が変わってしまうのかと思うと妙にざわついた思いになる。
本当の家族と言われて、じゃあ今までは偽物の家族を演じていたのだろか。成長した僕ならこんな疑問に突き当たるのだが、当時の僕はそんなことよりも大事な想いがあった。
「家族になっちゃたら彼方と結婚できないよ」
可笑しな話を聞いたかのように両親は二人とも大笑い、彼方は照れた顔で笑っていた。
僕にはどうしてみんなが笑っているのか理解できなかった。今思えば、この頃から彼方のことが好きだったのだと思う。三条深雪という人間はそれを不思議に思わなかった。
当の本人は僕のことを家来か何かと勘違いしているのか、上意下達の関係で、あろうことか僕はこれを両親のような、所謂夫婦の関係のように感じてしまい、あらゆる命令も嬉々として応じてしまう。
こんなものだから、小学校にあがっても僕は彼方にべったりで友達も作らずに二人だけで過ごしていた。
ある日、彼方が風邪を引いてしまい学校を休むことがあった。
僕は彼方の傍から離れたくはなかったので、自分も休みたいと母に懇願するのだが、勿論そんな願いなど聞いてもらえる筈もなく、グズグズになりながらも学校へ一人で向かうことになった。
そうして始まった一日は酷くつまらないもので、友達のいない僕は一人で過ごすこととなり、時間の進みがいつもより遅く感じてしまう。
何をするでもなく陰鬱に流れる時間を待っていると、ひそひそと周りから声が聞こえてくる。嫌な感情だとすぐに理解することができた。
嫌でも耳に入ってきてしまう言葉は僕を揶揄するものばかりで、名前も知らない数名の男子は僕をからかうことに喜びを感じているようだ。
僕はただ、何がそんなに楽しいのだろうと疑問に思うばかりだった。こっちは何をしてもつまらないというのに、少しはその喜びを分けてくれないものかと苛立ちは募るばかりだが、勿論、僕の心情とは関係なく彼らの罵倒は繰り返されるのである。
大体、悪口の内容が気に食わないものばかりで、「おかま野郎」とか「男女」とか語感が違うだけで内容は同じものばかり。ああ、でも「鹿河の嫁」は気に入りました、もうそれは悪口ではなく僕からしたら結納の挨拶のようなものだ。
そうした汚濁にまみれた空間の中を机に突っ伏してなんとかやり過ごした。
ようやく終わりのホームルームの時間になると、僕は今か今かとその時を待っているのだが、先生はなかなか話を終わらせてはくれない。何度も時計の針を確認しても動きはなく、いつもと話している時間は変わらないことに気付くと、知らずのうちに貧乏ゆすりをしてしまう。
鐘の音とともにホームルームは終わると同時にカバンを掴んで駆け足で家へと戻ろうとしても、体力に自信のない僕はすぐにばててしまい逆にいつもより遅いペースになってしまうと、真夏ということもあってシャツは背中にへばりつき、喉はどうしようもないほどに乾いてしまう。炎天下に音を上げた僕は近くの公園で休憩することにした。
公園の水道というものはなんとなく不衛生な印象なので普段は使いたくないが、蛇口をひねって流れ出した水は思いのほか清涼なもので、水を欲する衝動には抗えなかった。結果的に水分を喉に通したときの満足感は水への有難みが増すものだった。
胃の中で水が踊っているのがわかるくらい飲んでしまうと、これまた歩けなくなってしまい止む無くベンチで休むことになり、さっきまでの水への有難みは綺麗さっぱり消え去ってしまった。
しばらく日差しに焼かれていると、公園の入り口に人影が見えるので目を向ければ予期せぬ来訪者に歯噛みをする。
やってきたのは教室で僕の悪口を言っていた三人で、にやけた顔から察するに悪意のある行動を移すとしか思えない。あとをつけてきたのか知らないが陰湿なやつらだ。
僕は無視をして家に急いで帰ろうとするも、お腹の水は未だに揺れていて思うように動けないでいる。
そうして追いつかれてしまうとやはり悪意が飛んでくる。
「おい、ちょっと待てよオカマ野郎」
「……なんですか?」
思わず敵意をむき出しにして対応してしまう。
「今日は鹿河の傍にいなくていいのか?」
「いつも一緒なのになー」
ゲラゲラと下卑た笑いをする馬鹿三人。そんなことを言いにわざわざご足労いただいたのだろうか。本当にくだらない、半日同じ空間の空気を吸っていたと思うと嫌気がさす。
「それじゃ、ぼくはこれで」
「ちょ、待てよ!」
肩をつかまれそのまま押し倒されてしまう。思いのほか勢いよく倒れたので、砂埃が舞い大量に吸ってしまいむせかえる。
彼らは悪びれることもせず腹を抱えて笑っている。こっちはちっとも面白くない。ただでさえ帰る時間が遅れてしまっているものだから、余計に苛立ってしまい舌打ちをする。
「あ? なんだよ、なんか文句あんのか?」
それが彼らの癪に触ったのか、拳が飛んできて口の中を切ってしまう。
殴られ、蹴られ、突き飛ばされ、されるがまま痛めつけられる。僕は反抗せず、黙って行為が終わるのを待つ。そうすれば飽きてすぐ終わると思ったからだ。
案の定彼らは飽きてそのままどこかへ消えてしまった。意気地のない奴らと心の中で毒づく。帰り道に車に轢かれて死んでしまえ。
しばらく倒れて伸びているとなんだか涙が出てきた。悔しくて、情けなくて、馬鹿馬鹿しくて、腹が立つ。なんでこんな思いをしなくちゃいけないんだ。
彼方がいないだけで人生がこんなにつまらないとは思わなかった。
あはは、笑っちゃうね。いつも同じ話題で盛り上がりきれない男子とか、格上に媚びへつらう女子とか、見ていて最高に笑えたよ。今日一日で見えてなかったものが見れて感謝です。やっぱり僕は正しい。彼方が一番、僕には彼方しかいないのです。あんな奴らと付き合うぐらいならこのまま砂になって消え去ったほうがマシだと思う。
痛めた体を無理やり起こし自己完結する。
体を引きずるようにして歩き出す。やはり夏の日差しは僕を焦がすことが好きみたいで、太陽は不気味な表情で僕を焼き尽くすのだった。
家に帰ると母が僕の姿を見て慌てふためく。
「みゆちゃん。どうしたの!? その格好」
「……転びまくった」
言い訳にしては少々難がある。打撲の跡とか明らかに転んだ痕ではないのだが、母は納得がいっていない様子ではあるものの、余計な追求はしてこなかった。
僕は早く彼方に会いたかったので母との会話を早々に切り上げ部屋へと向かう。
僕と彼方は同じ部屋なので自分の部屋に入ると中に彼方がいた。ベッドで静かに眠っているので起こさないように寝顔を眺める。
「ただいま……」
小さく呟く。
早く起きないかなと、その瞬間を待ちわびている時間がすごく楽しくて幸せだった。今日の出来事が泡のように消えていくみたいだ。
すると、不思議と涙が出てきた。今日あった辛いこと全部はこの瞬間のためにあるのだと思えてしまい、世の中の薄汚い何かを肯定できてしまった。
だから、今日あったことは秘密にして、自分の中に押し込んで閉まってしまおう。心配されたくないし、困難の先にこそ輝く何かがあるのだと信じている。泣きついて助けてもらいたいけどグッと堪えるのだ。
「深雪? どうして泣いてるんだ?」
「ふえっ! かなた起きてたの!?」
「今起きた。んで、どうして泣いてるんだ? 体もボロボロだし」
「えへへ、今日ね、体育で転びまくったの」
「へー、お前私服で体育するのか。ってか今日体育ないじゃん……何かされたのか?」
早速心配されてしまった。僕は笑顔で否定する。
「違うよー。転んだの、いっぱい」
思えば、これが最初の我慢だった。自分が我慢することで彼方は嫌な思いをしないで済む、僕は幸せでいられる。そんな自己満足を覚えてしまった。
次の日になると彼方の体調は戻っていて、学校にも行けるみたいで僕は安堵する。いじめ云々よりも僕には彼方の傍を離れることのほうが嫌で仕方なかった。
一緒に登校する通学路は昨日とは違ってどれもこれもが綺麗に見え、あまりの楽しさにスキップを知らず知らずのうちにしたみたいで彼方が吹き出していた。
「ははは、何やってんだよおまえ、あははは」
「スキップって楽しい時にするんだよ、知らないの?」
そんなことも知らないようで笑っている。そんなに可笑しかったかな?
至福の時間も束の間、校門の前には例の三人がいた。相変わらず気持ちの悪い顔で笑っているのに名前がわからない。本当に誰なんだろう、そもそも教室にいたかな?
彼方に気取られるわけにもいかないので無視してスキップで校門を通過する。この行動がまた彼らを怒らせたのか知らないが、僕に対する嫌がらせは終わらなかった。
ものが無くなる、壊されるなんて毎日のように繰り返される。
陰湿なのは彼方にバレない程度の小規模な嫌がらせということだ。なんて女々しいやつらなのだろう。キンタマついているのだろうか?
ある日、僕が飼育当番だった日のことである。
学校ではニワトリやウサギを飼っていて、放課後に飼育小屋の掃除をする習慣がある。
当番である僕は使命を全うするため飼育小屋に向かうのだが、何やらいつもと違う様相に違和感を覚えた。
飼育小屋に入ると、ニワトリが集団で何かに群がっていて、興奮したように頭を上下させ踊っていて、その嘴は赤黒く染まっている。
何だろうと近づき確認すると、ウサギは死んでいて、ニワトリはウサギの死骸を狂ったように貪っていた。引き裂かれた腹に嘴を突っ込み喜んでいる。
あまりの惨状に目を背けると、金網づくりの壁越しにあいつらが笑っていた。
それだけで全てを察してしまった。
ウサギを殺したのはあいつらだ。
この現状に見覚えがある。僕は哀れなウサギで、あいつらはニワトリなのだ。周りに合わせることのできない者の末路、それが世の中の縮図なんだと悟る。
僕は一生この小さな小屋から出られないのだと思った。
また、ある日のことである。
放課後ひとりで屋上に来い――――。
授業で使っているノートの一冊に僕の知らない字が書かれていた。
たぶんあの三人の仕業だろう。横目で彼らを見ると僕を見て笑っていた。どうやら彼らはクラスメートだったようだ、僕の記憶違いではなかった。
お昼休みは彼方と机を挟むような状態で向き合い、何をするでもなく過ごす。
「どうしたの? ぼうっとして」
「別に……何でもない」
いつもは僕が彼方にちょっかいを掛けて馬鹿にされるのがいつもの流れなのだが、何もしない僕に疑問を思ったのかそんな事を聞いてくる。
隠し事をしているみたいで嫌だったけど、彼方に余計な心配はさせたくない。
こんな問題は僕一人で解決してやるんだ。相談してしまうといじめに負けたみたいで悔しい。そんな意味の分からないプライドに突き動かされていた。
「ぼく用事があるからさ、彼方は今日先に帰っていいよ」
「何かあるのか?」
「友達と放課後遊ぶんだ」
「え……? お前友達いないだろ」
なんて失礼なのでしょう。友達ならいるよ彼方とか、かなたとか、カナタとかね。ほらね、彼方が三人に分身すれば僕には友達が三人もいる。これは凄い、さすが彼方!
「どこで遊ぶの? 友達の家?」
「学校……」
嘘の中に真実を混ぜるのが良い。どこかでそんな事を聞いたので実践してみるが これがいけなかったのか、彼方が予想外の提案をする。
「わざわざ学校で遊ぶのか……だったら待ってるよ」
嬉しかったけどそれは困る。思わず涙が込みあげてきたけど、ここで泣いたら台無しなのだ。彼方の提案は却下の方向でお願いする。
「遅くなるから、駄目」
「うーん、わかった」
「うん」
助けてほしいという言葉が喉まで出掛かったけど、僕は必死に抑え込んだ。だって彼方の悲しむ顔だけは見たくない。そんな顔を見たら僕まで悲しくなってしまう。誰も得をしないから、こんなひどい感情に早く慣れてしまえばいいだけの話だ。
放課後になり彼方と別れを告げると、一人で屋上に向かった。
屋上には誰もいなく、もしかしたら三人同時にお腹でも壊してしまって、このまま誰も来ないのではないかと期待してしまう。
しばらく一人で待っていると、やはりそんな都合のいい話はなく三人仲良く現れる。
「お、来てんじゃん」
「さっさとやっちゃおうぜ」
僕は根本的な疑問を口にしてみる。
「なんで僕をいじめるの?」
それを聞いた三人は同時に吹き出す。
「おもしろいから」
そんな理由、もはや理由にすらなっていなかった。
顔に衝撃と同時に目の前に火花が散る。
最近殴られたばかりだから古傷が痛むなんてものじゃない。鼻血だってこんなに出ちゃってみっともない。
顔を殴るのはやめて欲しいなあ……どうして人にバレるような箇所を殴るんだろう。あとでいい訳を考えるのが億劫だ。僕は何も悪いことなんかしていないのに、余計な嘘をついて無駄な罪悪感を増やしていくんだ。
「なんで黙ってるんだよ、男なら反抗してみろよ」
エイみたいな顔したやつが僕に言う。三人がかりとは実に男らしいなあ。
僕が黙って殴られていることが気に食わないのかエイはイライラしているようだ。何をしても怒るんじゃないでしょうか? もう僕の存在自体がなくなれば満足するだろうね。
散々殴られた挙句に突き飛ばされ倒れ込む。
ボコボコにされた後の夕日は傷にしみる気がする。
微かな意識の中で誰かが来るのを目の端で捉えた。
「何やってんだ! お前ら!」
聞き覚えのある声は彼方の声だった。
どうしてここにいるんだろう? ちゃんとさよならしたのに。
彼方は三対一の状況なんか気にせずに、リーダー格であろう少年を徹底的に殴りかかっていた。噛みついたり、頭突きをしたりと凄惨な光景だった。僕より怪我の状態が酷いことになっているようで面白かった。
「うあああああああ」
リーダー格君は音を上げて走り去って逃げてしまった。続くように残りの二人も彼に続くように屋上を去っていく。
一瞬の出来事のように終わってしまった。何があったのかわからず惚けていると彼方がこっちに近づいてくる。
「立てるか?」
「立てない、体中いたい」
「俺だって痛いよ、頑張れよ」
「いやだ」
もう恥ずかしくてしょうがないから、いっその事開き直って駄々をこねてしまう。だけど、今度は何もかも上手くいかない自分に腹が立ち涙も出てきた。
「ふえっ……あああ……なんだよ、もう……」
「泣くなよ、ちょっと殴られたくらいで」
「いやだあ……やだよぉ……だってバカみたいだもん」
ひとりで変な維持を張って、嘘も下手で結局バレてしまった。
本当は気付いてほしかったんだ、そして助けてほしかったに過ぎない。だから中途半端な嘘を吐いたりして結果的に不幸のヒロインを演じていた。本当にバカみたい……
彼方は困ったように僕を見つめる。彼方の顔はパンパンに膨れ上がっていて怪談に出てきそうな顔になっていた。僕も同類だけど。
そうして僕達はお岩さんブラザーズを結成し学校を後にするのだが、立てないと駄々をこねる僕を彼方が背負う形で帰路を歩く。
「重くないの?」
「重すぎるから、ランドセルと深雪のセットだぞ」
落ちてしまわないようにギュッと小さな背中に抱き着く。
彼方の背中は暖かく、心地がいいのか眠気が誘い、こくりこくりと舟をこいでしまう。
そんな僕に気付くことなく彼方は話しかけてくる。
「なんであんなことされたんだ?」
「おもしろいからだって」
「よし、明日もっと殴るぞ。手伝え」
「えー、いいよー」
僕が困っていたらすぐ助けてくれるんだ。僕も強くならなきゃいけないのに、弱いままだ。ずっと一緒にいられる訳ないのに、いつか離れて一人で歩いて行かなきゃいけない時が来るのに、ずっとこの場所にいたいと思ってしまう。だから今日だけは甘えることにしよう。今日だけね。
「なんで僕の嘘がわかったの?」
「わかるだろ、お前嘘下手だし。それに楽しくなさそうだった」
「あ……」
いろんな感情がこみ上げてきた。嬉しいとか、悲しいとか、好きとか……ぐちゃぐちゃに胸の中をかき乱してくる。
「病院とか行くか?」
「行かない……っ!」
もう何が何だかわからなかった。
思い切りわっと泣いてしまった。
やっぱり明日も甘えてやろう、明後日も明々後日も、これからもずっと。
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