第2話 特別補習
ひどい事件だった。
女子力を身に着けた男の娘たちの作ったお弁当は、男時代の名残なのか、恐ろしいまでに醜悪なものだった。口に入れた瞬間、胃の中で羽虫が蠢動しているかのような不快感が襲った。動悸は激しく波打ち眩暈を起こすような状態にまで陥った。
結局、放課後の現在に至るまでずっとトイレに籠りっぱなしで、そうしている間に授業は終わってしまったようで、深雪が心配して駆けつけて来てくれた。
「大丈夫? 胃薬飲む?」
「ああ、ありがとう……ってなんで助けてくれなかったんだよ!」
「えー、だってまだ死にたくないし」
「さいですか……」
俺たちは教室に戻ると、室内には六道が待ち構えていた。
「ようやく来たか問題児くん」
俺たちは無視してかばんを取りに行く。
「まあ、待ちたまえ。今日は君たちのために特別補習を実施してやろうと、こうして貴重な時間を割いてやっているのだ。そう無碍に扱わんでくれ」
「特別補習だあ?」
また突拍子に意味不明なことを言い放つ変態教師。学生の貴重な放課後の時間をこれ以上浪費したくないのだが。
「そうだ、君たちを女装支援するための補習だ。ついでに言うと女装しなかった原因を探るための大事な研究でもあるわけだ。一石二鳥だな」
「僕たちにはデメリットしかないんですけど……」
「そんなことはないぞ。君たちが女装しない理由はおそらく、精神的な理由からだろう。辛いことを抱えているのなら、私に話してはみないか? 少しは気が楽になるものだよ」
六道の瞳は優しかった。理由は不純なものだが、本当に俺達のことを心配しているのかもしれない。何だかんだこの人は俺たちの先生なんだ。
「さあ、遠慮せずに話してみたまえ。早く君たちの女装が見たいし!」
やっぱり気のせいだったわ。こいつはただの変態だ。
「どうする深雪?」
「相手にする価値ないね。帰ろうか」
お、おう。この人の前だとなんか黒くなるな。
深雪はカバンを回収しさっさと教室を出ようとする。
「怖いのかね? 自分と向き合うのが……」
「意味が分かりません。」
なんだ、この密閉された空間。空気の循環が出来ていないからだろうか、とてもとても空気が悪い。居心地が悪く一人狼狽える事しかできないのは俺です。
「三条、お前は臆病者だよ。理解できなものは否定する、いや理解したくないのかな? どちらにせよ、そんな事では成長は見込めないな……」
大仰な動作で煽る六道に対して深雪は、
「わかりました。補習でも何でも受けてあげますよ。それでいいですか?」
「ふふふ、チョロインめ。意外とかわいいところがあるじゃないか」
え、怖いところしか見当たらなかったのですが。鳥肌が止まりませんのですが……
「彼方、悪いけど僕は補習を受けるから。先に帰ってていいよ」
凍り付いた空気を溶かすように深雪は熱くなっている。
「良くないぞ鹿河、外で待っていろ。すぐ終わる」
「はい……」
俺は何も言えずただ従うことしか出来なかった。みんな怖いよう……。
俺は二人の睨み合う視線の間を避けるようにそそくさと教室を後にした。
廊下に出ると、窓から見える朱色の夕日はが差し込んでいた。人々は買い物をしたり、夕飯の支度をしたり、学生は帰路に向かう頃合いだろう。
俺は穏やかなはずの時刻を不安な気持ちで過ごしていた。
教室の中では特別補習とやらが行われているようだが、やけに静かだ。耳を澄ましてみれば微かに声が聞こえるが、内容までは聞き取ることは出来ない。
しかし、先ほどの深雪は異様なまでに怒っていた。昔俺が寝ている深雪の股間にオレンジジュースをぶちまけて、「おねしょ小僧」って煽った時くらい怒っている。
いつもは天真爛漫で天使の生まれ変わりなのかと疑ってしまうが、機嫌を損ねた深雪は邪神の生まれ変わりなのかと錯覚してしまう。
思えば深雪は昔から頑固なところがあった。弱いところを見せたくないのか、俺の前では気丈に振る舞うのだ。だけど何年も一緒に居れば泣きそうな感情だとか、苦しいそうな表情なんて見ればわかる。
だから、俺は気付かない振りする。あいつの意地を尊重してやりたいし無責任なことも言いたくはないから。それが俺たちの距離感で家族の秘訣だったりする。
そうして一人黄昏ていると、見覚えのある顔に出くわす。
「あれ、鹿河君何してるの?」
「小野寺きゅん。きゅんこそ何をしてるんだい?」
「私は部活だよ、陸上部。もう帰るけどね、制服はロッカーに置いてあるんだ」
なるほど、タンクトップに短パンと実に健康的で不健全な格好だ。伸び伸びとした太ももから脹脛の筋肉はとても美しい。額に飾りたいね。
「俺と深雪は六道先生の特別補習やってんだ。今深雪が先に教室で受けてるから、教室に入るのはやめておいたほうがいいかもな」
ちなみにロッカーは廊下側に置いてあるので、制服を回収するだけなら教室に入る必要はないだろう。
「そうなんだ。着替えどうしようかな。流石にまだ肌寒いし……」
「ここで着替えれば? 男子校だしそんな気にする必要ないんじゃないか?」
「でも、私……男の娘だし……」
「すまない、俺にはまだその概念が理解できないんだ」
たしかに小野寺きゅんは見た目は美少女だ、男には見えない。彼の着替えを想像するとなんだかドキドキしてきた。なんだこの感情は。
「鹿河くんが見たいなら……私は構わないよ……」
「ま、待て。落ち着け! 俺は別にきゅんの裸を見たいとか邪な感情はないんだ!」
なんで取り乱しているんだ俺は……
「えへへ、本気にしないでよ。制服なんて上から着れば良いだけなんだからさ」
「お、おう。そうだよな……」
そうして制服を上から着る形で着替え始める。
でもね、小野寺きゅん。裸にならないからってエロくないとは限らないんだよ。むしろ、短パンの上からスカートを履く仕草はよりエロスに深みが増し目のやり場に困る。
男の娘だから、こうして俺の目の前で着替えることが出来るのだろう。恐らく普通の女の子だったら羽織る形とはいえ、男の目の前で着替えたりなどしないだろう。
なるほど、男の娘なかなかいいじゃない……
「それじゃ、また明日ね。ばいばい!」
「おう。また明日」
小野寺きゅんはスカートをはためかせ元気に帰っていった。
それと同時に背後からドンと大きな音がした。振り返ると深雪が勢い良くドアを閉めた音だと気づいた。一体中で何があったのか、何かに怒っているように見える。深雪が八つ当たりのような行為をするなんて余ほどのことがあったとしか思えない。
「深雪さん……? どうしました?」
「うん……何でもないから気にしないで」
目の中の意思が燃えている。はじめて見る瞳だった。
「ごめんね、僕先に帰えるね」
「それはいいけど、大丈夫かお前?」
「うん……駄目かも、ごめんね」
何に対して謝っているのかわからない。
「それじゃ、彼方も頑張ってね。あいつすごい性格悪いよ」
笑顔で吐き捨て深雪は去っていった。小走りで遠ざかるその背中は何かに焦っているような雰囲気があった。六道のやつ深雪に何をしたんだ。
俺は怯えながらも意を決しドアを開ける。六道は涼しい顔で座して待っていた。
「さっさとそこに座りたまえ。私は早く帰って寝たいのだ」
「そりゃ俺のセリフなんですが……先生、深雪に何言ったんですか?」
「んー? 少し背中を押しただけだぞ」
客観的に見ても、あれは背中を突き飛ばした風にしか見えないのですが。
「問題はお前だ、三条はだいたい検討はついていたが……お前はなんだ?」
「なんだと言われましても、質問の意図がわかりません」
「だから、何で女装をしないのかと聞いている。」
「だから、普通は女装なんかしませんよ!」
もうやだこの人。この世の常識が通用しないと会話もままならないのですか。
そんな当たり前の反論に六道は呆れた顔をして言う。
「いや、普通は女装をするんだよ。私の作った女装キャンディーを食べて女装を
しなかった男はいなかった。お前だけだ、平気な顔をしているのは……お前は異常だ」
異常者に異常者扱いされた。なんたる屈辱だろう。
「今日の授業で言ったと思うが女装ホルモンは女装衝動を促進する効力がある。世の中のオカマちゃんは普通の人より女装ホルモンが多くある事がその証明だろう。」
「ええと、骨格とか変わって美少女になるのはおかしくないですか?」
「いいか、男の娘はかわいい。それで何か問題はあるか?」
うん、かわいいは正義。もうどうでもいいです。
「だいたい女性ホルモンで男性が女性になる事例だってあるのだ。女装ホルモンで美少女になるのは至極当然であろう」
「はあ……それでどうして僕が異常なんですか?」
「飴を食べれば女装ホルモンは分泌され、普通じゃ衝動に抗うことが出来ない量が生成される。だからクラスの奴らは女装をしたんだよ。だが、お前はしなかった。私の言っている意味わかるか?」
わかりません。初めて聞く単語ばかりで、外国に来て銃で撃ち殺された感覚です。
六道はありえないと言うが、実際に俺と深雪は何の影響もなかった。
「じゃあ深雪が女装をしなかった理由は? 検討がついているみたいですけど」
「気合いだ」
気合いって……少年漫画みたいな抗いかただな。俺自身は気合いを入れたつもりはないが、知らぬ間に跳ね返したのだろうか。
「気合いでなんとかなるものなんですね」
「なるか。ある意味あいつが一番化け物じみているな」
「じゃあ俺も気合いで跳ね返したんじゃないですか?」
「いや、ないだろ。お前はそんな根気なさそうだし」
このクソ教師、平気で侮辱してきたぞ。しかし反論できないとは情けない。
「さて、本題だ。血をよこせ」
「簡潔すぎませんか!? 吸血鬼か何かですか!?」
「お前の女装ホルモンの量を調べるから、血を採取させろと言っているんだ」
傍若無人とはこの人のことです。
さっさと終わらせたいので採血の準備を進めてもらった。
注射器から自分の血が抜かれるのを見ると、血の気が引くね。そりゃ引かれてますし。
採取して数分、六道は結果がわかったのか珍しく驚嘆している様子が面白い。
「死滅している」
「死滅ですか? もしかして女装ホルモンがですか?」
「そうだ。こいつは面白い発見だ」
結果を悲しむでもなく、むしろ興奮している。新しいおもちゃを買ってもらった子供のように喜んでいる。その笑顔は邪気に満ちている。
「さて、後は死滅する原因だが……お前女性を好きになったことはあるか?」
「なんですか急に」
「だから、女の趣味だよ。女性への憧れがあれば女装ホルモンは分泌される。それが死滅しているやつの性癖を知れば何かわかるかもしれん」
俺の女性の趣味か……そもそも好きという感情がよくわからない。
「正直になれ、女性に対して憧れがない理由があるはずだ。そしてそれは自分が一番よく理解しているだろ? 別に恥ずかしいことじゃないぞ。誰だって何かを抱えて生きているんだ。もちろん三条だってそうだった」
あまり人に話すようなことじゃない。だけど、六道は人の心を掴むのがうまいのか知らないが、なんとなく話してもいいような気がした。
「彼女にこっぴどく振られました」
「それだけか? 女に振られたぐらいで憧れが無くなる訳がない」
「もちろん、それが理由じゃないと思います。たぶん振られた根本の理由でしょうね」
どう話そう、喉がひどく乾いて声を出すのを躊躇ってしまう。緊張しているのかな、そんなに大した話じゃないのに踏み出せないでいる。
「別に無理に話す必要はないよ」
「いえ、大丈夫です。つまらない話ですよ」
俺は決心をして子供の頃のトラウマを話すことにした。
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