第3話 男の娘しか愛せない男
あれは小学生三年生の頃の出来事だった。
俺は尿意で目を覚ました。この頃はおばけを信じる年ごろで、深夜にトイレへ向かうにも勇気が必要だった年頃だった。だけど我慢なんて出来るわけもなく、冷たい廊下をひたひたと歩きトイレに向かった。
用を済ませ自分の部屋に戻る際、両親の部屋前を通ると中から声がした。聞いたことのない妙な声で、それが母親の声だと気づくのに少し時間がかかった。悲鳴のような、悶えるような声、俺はきっとおばけが母親に取り憑いたのだと思った。
母を助けなければ、その一心で勇気を振り絞り中を覗き込むとそこにおばけは居なかった。その代わりにいたのは裸の父と母がベッドの上で絡み合っている姿だった。
それは情交の最中だったけれど、その時の俺にはその行為の意味がなんであるかわからず、ただ、普段とは違う両親の姿は酷く気持ちが悪く異様なものに見えてしまった。
母はいつも優しく、笑った笑顔が俺は好きなのに……。
父は威厳があって、頼もしく俺の憧れだったのに……。
そんな俺のイメージは、その見ている光景と食い違い、ベッドの軋む音を聞くたびに頭がくらつき、目がぼやけ、涙が止まらなかった。
急いで自分のベッドに戻り亀のように丸まって、必死に見た光景を振り払おうとしたが、脳に焼きついた光景は今でも夢に見るほどだ。
中学生になっても、あの行為の意味を理解することは出来なかったが、周りの同級生はみんな同じように、セックスに憧れや欲情を抱いていたようだ。
誰が好きだとか、どんな事をしたいだとかそんな話ばかりで、どうして、そこまで熱心になれるのか、何に対して価値を見出しているのか不思議で仕方がなかった。俺には彼らが宗教にハマった狂信者にしか見えなかった。
だけど、皆が皆共感している。不思議に思っているのは俺しかいなかった。
そうして自分を否定しながら、周りに合わせていく生き方を選んだ。女性に対して憧れを抱けないのはこんな拗らせ方をしてしまったからだろう。
こんなもんだから、自慰行為も上手くできた試しはない。もしかしたら男色家なのかと疑ったのだけれど、男でも結果は同じで、むしろ吐き気すら覚えた。
そうして恋愛感情を誰にも抱くことが出来ずに成長をしてしまった。
そんな俺を見かねたのか、深雪は四宮恵里という女性を紹介してくれた。
彼女は男の憧れの象徴のような人で、この人と付き合っていけば、もしかしたら俺もみんなのように憧れを抱けるのかもしれない。理解することが大人なのだと思っていた。
必死にアプローチをしてなんとか付き合うことになったけれど、結局、俺には何もすることは出来ず、これが原因で彼女に見抜かれたのかはわからないが、結果として別れることになった。
自分のトラウマを人に話をしたのは初めてで、話し終えるとどっと疲れが出た。
「つまらない話でしょう?」
「ああ、欠伸をしすぎて顎が外れてしまいそうだ」
酷いな、自分で言っといてなんだけど深刻に悩んでいるんだけどな。
「鹿河、私から良いアドバイスをしてやろう」
「アドバイスですか?」
真剣な瞳で六道は言う。
「男も女も愛せない、理由は単純だ。鹿河、お前は男の娘しか愛せないのだ」
―――――――は?
「ええと……すいません。よく聞こえませんでした。もう一度お願いします」
「お前は男の娘しか愛せない、どうしようもない変態だ」
「いやいや! 僕の話を聞いてました? ホモじゃないって言ったじゃないですか!」
だが六道は呆れたように大きなため息を吐く。
「お前こそ私の話を聞いていたのか? いいか、男の娘は男じゃない、この世で一番純粋で清らかな人間だ。あんな下賤な汚物と一緒にするな」
駄目だ、この人との会話には通訳が必要だ。
「安心しろ、お前は嫌でも意識せざる得なくなる」
「そんなバカな……」
「お前はこれから毎日クラスの男の娘達に迫られ、傍を離れることはないだろう。それは女では到底味わえない気持ちを持つことになる。きっとそれがお前の知らない好きという感情を得るきっかけにもなるのかもな」
俺は確かに恋愛に関しては拗らせてはいるが、いくら見た目が美少女でも、あいつらは元ゴリラなんだ。凍り付いた心が揺らぐはずない……たぶん。
「さ、話は終わりだ、さっさと帰れ。タイミング的にも丁度よさそうだしな」
そう言うと六道はさっさと教室から立ち去ってしまい俺は一人教室に残されてしまう。
俺も帰ろう。変な話を聞かされて頭が熱い。
帰り道、六道の言った言葉が頭から離れず悶々としたまま寮に戻ることになった。
☆
俺たちが住む白帆学園第二寮は五階建てマンションであり、大浴場やジムなんかも完備している。一室に二人で暮らす形になるので、相部屋の住人とは上手くやっていかないといけない。
幸い俺の部屋の住人は昔なじみの深雪なのでトラブルなんて一切ございません。
エレベータで三階まで上がり、307号室の前までやってくる。ここが俺と深雪の住む部屋になるわけだ。
恐らく深雪は先に帰っているだろうから鍵は開いているだろう。
扉を開け入室すると案の定住人がいるわけだが……
「あっ――――」
目に飛び込んできたのは着替え中の深雪な訳で、つまるところ乱れたワイシャツ姿が素敵な訳で……
「た、ただいま……」
「か、彼方!? あ、へあ……ああ、ああああ」
「いやー、お前の言っていた通り六道の性格さいあ……」
「きゃあああああああああ!」
え!? 何事!? 目の前に枕やら小物やらが飛んでくるのですが!?
「ちょ、落ち着け深雪!? 俺だよ、不審者じゃないよ!!」
「知ってるよ! わかってるよ! いいから早く出てってよ!」
「すいません! ごめんなさい! 今出ます、すぐ出ます!」
俺は慌てて部屋を飛び出す。何ですか一体これは何事ですか?
落ち着け心臓、飛び出してくるな。俺は決して深雪の白い肌に心を躍らせたわけじゃない。突然の出来事に脳の処理が追いつかず心臓が跳ねているだけなんだ。
決して六道の言葉に踊らされているわけじゃない。落ち着け、落ち着け……
息を整えると内側から声がする。深雪の声だ。
「ごめんね、彼方……」
「いや、俺のほうこそごめん。ノックくらいするべきだった」
「いいんだよ。これからもノックなんかしないで入ってきてほしい。それが普通だから。でもね、今だけは駄目なんだ。だからね、今だけは入るときにノックしてほしいな……」
深雪は不思議なことを言う。今だけ駄目な理由はなんだろう。
「わかった。入るときはノックするよ」
深雪の意図はわからないが、要望に応えることにしよう。
俺はノックをする。
「まだ駄目……」
ドア越しに深雪の声が微かに聞こえる。
少し間をおいてもう一度ノックをする。
「あと少しだけ待ってね……」
ドアの内側、すぐ近くから声がした。今度はしっかりと聞こえる。
ゆっくりと待つ。この一瞬の時間がもどかしく、お預けをされているような不思議な感覚が俺の胸の中にある固い何かを突いてやまない。
ノックをする。
「もう、いいよ……」
お許しが出たようだ。扉を開けるだけなのに緊張する。
「どう……かな……?」
変だ、深雪は着替えていたはずなのに制服に着替えなおしている。
変なのは深雪が着ている制服が男の娘用の……昨日配られた、着るはずのないもので、もっと変なのは整えたはずの俺の胸が再び膨らんで、出口を求めていることだ。
「お前、それ……」
「えへへ、みんなが楽しそうだったからね。僕も女装してみました」
スカートから伸びる足は細く、女の子と見間違うほどに華奢だ。
沈む夕日を背に照らされている深雪は美しかった。
六道が言った言葉が頭に浮かぶ。意識しているのだろうか。俺は良くないものに魅せられているのだろうか。こんな気持ち、俺は知らない。
「その……似合ってるかな?」
「うん」
「女の子みたいに、かわいい……かな?」
なんでこんな気持ちになるんだろう。胸の奥に棘のようなものが引っかかっている。
そうして俺たちは日が沈むまで惚けて、こそばゆい時間を過ごした。
☆
「それで、どうして急に女装したんだよ」
「だから、みんな楽しそうだったからだよ」
そんな安っぽい理由で彼の決意が揺らぐとはとても思えない。
「六道に何か言われたのか?」
「まあ、いろいろ言われたし、煽られた」
俺たちは狭い部屋で肩を並べて座っている。深雪はまだ制服姿でスカートの端から膝小僧を覗かせていて、それが目の端に映って落ち着かない。
「あんまり気にするなよ、あいつの言う事なんか」
「うん、そうだね。でもね、あの人と話して少し楽になったのは本当なんだよ」
「まあ、俺も……」
あの変態教師にしてやられたと思うと情けなくなる。
「明日からそれで行くのか?」
「……うん、駄目かな?」
それを俺に聞きますか。女装を催促したら俺が変態みたいになっちゃうじゃん。
「おまえの分まで俺が男らしく生きるよ」
「そっか、ありがと……」
これで男はいよいよ俺一人。明日からは男の娘に囲まれた学校生活が始まるのである。
深雪まで男の娘になるのは少し寂しいかな。
でも、深雪の顔はいつもより晴れやかな表情をしているので、これでいいのだ。
「彼方は女装しないの?」
「しないよ、俺にはそんな衝動ないし。それに想像してみろ、恐ろしいほどきもいぞ」
「うん、縁を切るレベルだね。想像させたことを謝ってほしいな」
「さすがに言い過ぎでしょ!? 俺だって涙はでるんだよ!?」
「彼方は、こんな僕でもいつも通りでいてくれる?」
俺の涙なんて何のその、深雪は不思議な質問をしてくる。
「もちろん。中身は変わってないんだから、いつも通りでいられるよ」
「もし……変わったらどうする? 変わったらそれは僕かな?」
「受け入れるよ、きっと……たぶん深雪だから」
「……ありがとう」
ぽつりと、深雪はそう言う。
そうして沈黙。お互い声が出せなくなる。いつもと違う俺たちは調子が狂ってしまう。
すると、深雪が俺の肩に寄りかかってくる。
最初は寝てしまったのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
俺は何も言わず、それを受け入れる。
甘ったるい匂いが鼻を通して脳を犯してくる。
自分の中の神経が狂ってしまったかのように、体の全身が痺れてしまう。
不覚にも嬉しいと思ってしまった。
逆に、これは背徳的行為だ、反社会的だ! と心の警鐘が俺に注意を促す。
違うよ、これは家族のスキンシップだ。誰がどう見ても仲のいい兄弟でしょ。世の中のレールに沿った正しい行為です。なので、しばらくスキンシップに浸ることにしよう。
深雪の頭は軽かった。肩は女の子のように小さい。
こんなの意識しちゃうに決まってるでしょ! 瞬きすら出来ないからね!
すると、唐突に深雪が、
「ごめん! 少し寝ちゃった!」
そんな嘘をつく。
「お前疲れてるんだよ」
だけど、何とか調子を戻そうと俺はその嘘に合わせる。
なのに、すぐ横に深雪の顔があった。
夕陽に照らされたせいか、顔が真っ赤だ。
深雪の表情も、呼吸も、動作一つ一つが愛おしいと感じる。このままでは深雪の唇に吸い込まれてしまう。でも、これはいけない感情だ。
だって、俺は周りに合わせて生きてきたんだ。男の深雪に惹かれるなんて変だ。
「ごはん! ごはん作らなきゃだね!」
「お、おう! お腹すいたよ!」
そうやっていつもの調子に戻ろうと、ズレた歯車を元に戻そうとするけれど、歯数が変わってしまったのか、どこかぎこちない。
今までの自分の生き方がちっぽけでしょうもないものに思えてきた。
世の中に寄り添う生き方だって別に間違いじゃないと思う。
ただ、そこに自分の意思があるかと聞かれれば、ないと思う。
結局、何が正しいかなんて俺にはわからなかった。
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