第9話 敗北

真っ黒な瞳で真っ直ぐ瑛美を見つめるキヨコから、先に顔を逸らしたのは瑛美の方だった。


「見ていたって…なんのこと?私はなにも…。」

「あの雨の日」


 キヨコは瑛美の言葉を遮って確信しているかのように笑って言葉を紡ぐ。

―あの、雨の日。

 瑛美の脳裏に初めて潔子を見かけたシーンが走馬灯のように浮かび上がる。

 あれを、見られていた?そんなはずはない。あの日、潔子は私に全く気づいていなかった。

 動揺した気持ちはそのまま瑛美の余裕を奪い取る。


「どう、いうこと。あの日、あんたは私を見てなんかなかったじゃない。雨に濡れた猫を助けてさぁ、傘だって差して自分はずぶ濡れでも構いませんって?とんだ偽善者じゃない。ばっかみたい!」

「…………。」

 瑛美の口調は激しくなる。屋上に誰もいないことを確認していたせいもあるかもしれない。動揺していたせいもあるかもしれない。

 瑛美の本当の顔が現れていた。

「っ。あんたなんか、私の足元にも及ばなかった!そこは、私の位置だった!何をしたのよっ。なんでみんな、あんたを美しいと言うの。なんで、なんで…どうしてよっ!」

 肩で息をしながら、瑛美はキヨコに自分の今まで溜めてきた思いをぶつける。大声で罵り、罵倒し、地団太を踏んで、瑛美はボロボロと涙を零す。自分でもめちゃくちゃなことを言っている自覚はある。だけどもう、憎悪が、嫌悪が、ありとあらゆる負の感情が溢れて止まらなかった。

 

 瑛美の肩の激しい上下が落ち着くのを見計らってから、ふ、とキヨコが小さく噴出した。

 瑛美は焦点をキヨコにゆっくりと合わせる。キヨコはフェンスにもたれて腕を組んでいた。

「あなた、昼休憩のときに言ってたじゃない。『私たちの言うことを聞いてくれてたから』なんじゃないかしら。」

「それが…本当の理由だとでも言ってるの?あれはあの場を収めるために言うしかなかった。あの馬鹿二人が勝手に暴走したからそれを」

「人のせいにするつもり?が、言ったことでしょう。私をサゲることであの二人を気持ちよくさせて、さも『私たちの行いは正しかった』と主張した。あなたの意図が手に取るように、私にはわかったわ」

 キヨコはゆったりと笑う。余裕たっぷりに、瑛美を哀れみの眼差しで見つめる。


 瑛美はぐっと言葉に詰まる。このまま何かを言い返しても、もはや言い訳にしかならない。キヨコの言っていることは、まんま瑛美の思惑だったからだ。

 手のひらを握り締めて自分を保つ。長い爪が手のひらに食い込み、その痛みで瑛美は正気を保っていた。少しでもブレると先ほどみたいに声を荒げてしまいそうだった。

 そんな瑛美とは対照的に、キヨコは「あ。」と小さく呟き腕時計を見る。

「―もう10分経ったわ。ごめんなさいね、奈良塚さん。1分過ぎちゃった。…じゃあまた明日、学校でね」

 軽く手のひらを合わせて笑いかければ、すたすたと歩いて瑛美の脇を通り過ぎようとする。瑛美は思わずキヨコの腕を乱暴に掴む。


 視線が近くで交差する。

 キメ細やかな肌に柔らかな頬。まつ毛が長く切れ長の透き通った目。美しい顔立ち。こんなときでもそんなことを考えてしまう自分に瑛美はほとほと嫌気が差した。そんな瑛美を見透かすかのように、キヨコの唇が緩やかに弧を描く。

「あなたに、ヒントをあげましょうか」

「ヒント…?」

「『人は現実のすべてが見えるわけではなく、多くの人は見たいと思う現実しか見ない』…とても有名な人の言葉よ。今のあなたにぴったりの言葉だわ。」


 キヨコの理解不能な言葉に思わず瑛美が力を緩めると、キヨコは腕を軽く振りほどき屋上から出て行った。


 へたりと、瑛美は膝から崩れ落ちる。

 そして唐突に理解する。

 あの日、何かをおっことしたような感覚は、「敗北感」。

 一度目はあの雨の日。二度目はキヨコが登校してきた初日。そして。


―今三度目の敗北を、私は味わっている。


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