第8話 交差
潔子に対する噂は数多くあったが、その誰に聞いても潔子がどういう人間か、つまり性格については知らなかった。必ず「だと思う」「のはず」と語尾につくので、潔子を本当に知る人間はこの校内にはいないのかもしれない。
瑛美を除いて。
瑛美は、ほんの一部だが潔子を知っている。
子猫を助ける潔子。助けるために、自分を厭わず傘を与えることのできる潔子。
だとすれば、キヨコは一体何なのだろうか。180度違う容姿を手に入れて、発言も行動も以前とは全く違っている。周囲の人間は近寄ることはしないが、キヨコの様子を観察し噂を広めあう。
アレは本当に、潔子なのだろうか。
屋上へと続く階段を上がりながら視線を上げると、ちょうど視線の高さにキヨコの臀部が目に入る。線がほどよく丸みを帯びて、ちょうどいい長さのスカート丈から伸びる柔らかな脚。
瑛美は、よくわかっている、と思う。
視線を上に向けると艶やかな黒髪が目に入り、見ていられなくなった瑛美は目を伏せ、ひたすら階段を上がることだけを頭に入れた。
キヨコは、何も言わなかった。
声をかけられたとき、断れるはずもなかった。
クラスメートの興味津々な表情。羨ましいと小さく呟いた陽菜の声からは、先ほどのやりとりした言葉の全てが嘘だと言わしめた。その表情も視線も声も、元々は自分に向けられたものだったのに。
えもいえぬ、屈辱。
キヨコが教室に入ったその瞬間から、瑛美の居座るトップはキヨコにシフトした。
キヨコは戦わず伝えず何もせず、その存在だけで、立場を変えた。
キヨコという上位からの誘いを、下位の瑛美が断れるはずもない。
「世界って、変わるのね。」
「は?」
キヨコは屋上に着くなりフェンスまで近寄って、キヨコに背を向けたまま唐突に話し始めた。
「だって、みんな私のことを見てる。ちょっと前まで侮蔑し軽蔑しゴミくずのように見てたみんなの視線が、今は私をまるで神様かなにかのように見てるんだもの。なんて、なんて、」
かわいそうなのかしら、とキヨコは瑛美を振り向きざまに笑った。
瑛美は、自分が笑われたのだと思った。
頬が火照る。今すぐ近寄って首元をひっつかみ、そのままキヨコをひっぱたいてやりたいと思った。一歩、足が前へと出る。
「そう。それ。」
「え?」
「あなただけ。奈良塚さんだけが、以前と全く変わらない。侮蔑し軽蔑しゴミくずのように見ているの。だから私、あなたと話してみたかったのよ」
フェンスに寄りかかって、キヨコは瑛美を指さす。余裕のある涼しげな微笑は、絶対的なトップに君臨していた頃の瑛美の顔と重なった。
「…一体、何をしたのよ」
一息深く呼吸をすると、瑛美は見られている自分の顔と行動に最大限の注意を払い、口元に軽く手を当てた。
「ゴミのようになんて…。私、そんなこと、思ってないのに。ただ、一体どんなことをしてキ・・・比良坂さんが変わったのか気になって。失礼な言い方だけど、前は全然身なりにもコミュニケーションにも気にかけていなかったでしょ?だから、…だから私」
言いかけた言葉は、甲高い笑い声によって遮られた。
キヨコは腹に両腕を回し、身体を捩じって大笑いをしている。
戸惑う瑛美はキヨコに不気味さを感じ、一歩後ずさる。
そしてキヨコは唐突に顔を上げた。
「見ていたくせに。そんなこと、思ってもいないくせに。」
瑛美の身体がこわばる。キヨコは無表情に瑛美を見つめている。
ただその目だけが、哀れみに満ちていた。
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