#2 ファースト・コーナー

ノイジー・エナジー #2 ファースト・コーナー


★本作品はフィクションです。実在の人物、団体、出来事、法律などには一切関係ありません。法令を遵守し交通ルールを守りましょう。


#勉強会


 今日は文化祭が終わり片付けも済んで最初の登校日。県立神奈川北部工業高校は文化祭が終わった達成感と、やり切った燃え尽き感と、イベント終了による目標喪失感の混ざりあった、なんとも言えない穏やかな雰囲気が流れていた。授業はいつも通りだけれども、積極的に挙手する生徒は疎らで、そういう生徒は文化祭中も塾に通っていたような人達じゃないかとアタシは思ったりするけど、そんなこともどうでもいいような、そんな気分がアタシを包んでいた。


 アタシは晴海ちえり。機械科一年の工業女子高生です。バイクに乗るのが好きでこの高校の自動車部二輪班、通称二輪男子部に入りました。しばらく頑張ってみたけれど、毎日整備ばっかりだったし、レースに出る目標も見失いそうだったので退部してしまいました。文化祭のジムカーナは面白かったけどね。そう、アタシはバイクに乗って走りたかったんです。代わりに自動二輪研究会、通称二輪女子会に入りました。毎日整備三昧の男子部に比べてバイトする時間はあるし、乗る事の楽しみを研究する会だから、こっちにしました。女子会とはいえ、イケメン男子の部長さんと顧問もいるしね。アタシって軟弱かなあ?まあ、これから頑張ればいいよね。


 そういえば、部員不足に喘いでいた二輪女子会の存続ですが、今年も延命が決まりました。元々の会員のミクリン(御厨悟部長機械科3年)、ミカリン(吉野美佳副部長電気科2年)に加えて、アタシ(晴海ちえり機械科1年)、夏子(佐藤夏子化学科1年)が入会。それに幽霊部員としてアタシのクラスメートの鈴木さん(メークが上手!)、同じく関山くん(クラス委員)が名前を貸してくれました。文化祭後に急いで名簿を作成して、ミクリンとミカリンがダッシュで生徒会室にねじ込んでギリギリセーフ!無事に今年の活動と来年の文化祭展示ができそうです。


「よかった、よかった。」

 そんな感じでアタシは放課後の教室で、イケメンのミクリン先輩と机を挟んで向かい合って座っている。開け放った窓からは野球部の打撃練習の金属バットの音、テニス部のラケットがボールを弾く音、陸上部がハードルを跳ぶ音が聞こえる。そして柔らかい春の風が舞い上がって、校庭の乾いた土の匂いを運んで来る。


 ふと目を上げると、ミクリン先輩の顔が至近距離でロックオンできた。風に揺れる長めの前髪を先輩がかきあげると、窓から入る少し傾き加減の陽光が栗色の髪にきらめく。同じ色の長いまつげにも光がこぼれる。ああ眼福じゃ…。


「なに?」

 アタシの視線に気づいたミクリン先輩がニコヤカに話しかけてくれる。アタシは少し頬を染めて視線を外した。

「…いえ、なんでも…ないです。」

 でも次の瞬間。アタシは現実世界に引き戻されるのだった。


「できた?」

 アタシの幸せな時間はここまで。手元に目を落とすと、まだ開いた折り目も新しい『機械工作』の教科書が、紙の復元力でパタリと閉じた。その下に広げたノートもほとんどページが進んでいない。


 そう、今日はアタシのための勉強会なのだ。入学してからバイトとバイクと部活に明け暮れた日々は、学生の本分である学業の時間を奪い去った。失われた時間を取り戻すため、先輩逹の力を借りて赤点を回避し、バイトとバイク禁止令を回避するべく、目前に迫った中間試験まで頑張っているのです。


「え?…え~っと。」

 パラパラと、閉じてしまった教科書のページをめくる。しまった、しまった!どこだっけ?さっきわかんなかった所。パラパラとめくっていくと…アレ?行き過ぎた。ペラペラと戻っていくと、あった!


「…あの!ここ!ココが良くわかんないんですけど…。」

 どれどれ?と、ミクリン先輩が身を乗り出してくる。あー、ここはね…と、教えてくれるんですけど…。す、すみません。すみません!そういうつもりで質問したワケじゃないですから!近い!近いですよ!男子に至近距離まで接近を許したことがないので!…しかもイケメンさんに!…ダメ…。ダメですよ!


「…と、いう訳だけど…話聞いてる?」

 ごめんなさい。貴方に見とれて聞いてませんでしたとは言えない。

「…あの、あの…えっと…。」

 アタシは熱暴走したパソコンのようで、爆発直前の思考回路からしどろもどろにワケの分からない言葉を吐き出していた。


 …パチッ。…ジッ。

 なんだか変な音と共に、焦げ臭い匂いがしている。樹脂が焼けるような、金属が溶けるような、変な匂い。アタシの頭のヒューズが切れてしまったのだろうか?少しばかり煙りも漂い始めた。アタシ壊れちゃったのかな?


 突然、ミクリン先輩が顔を上げると、アタシの頭越しに声を上げた。

「あのな?勉強会なんだからハンダ付けはやめてくれないか?臭いし、煙いし、気になるし。ミカリン?」

 そう、アタシの後ろにはミカリン先輩がいた。


「なんでココでやるの?今日は機械科の専門科目だから、ミカリンはいなくても大丈夫なんだけど。」




少しイライラした口調のミクリン先輩に対して、顔も上げず、手も止めることなく、静かに、ぶっきらぼうに答えた。

「イイじゃないですか。そっちは勝手に勉強してて下さい。専門科目は同じ機械科のミクリン先輩の方が教えられるでしょ。私も専門の課題があるんですから、こっちも勝手にやらせてもらいます。」


 ミカリン先輩はアタシの真後ろに陣取って、机の上に課題の基板とICやらLEDやらコンデンサやらの電子部品を盛大に散らかしている。しかし頭は集中して基板に向かい、電子部品のハンダ付け作業を行っている。

「それに、若い男女をふたりきりにしておいて、何か間違いがあったらこまりますから。」

「おーい、可愛い後輩にそんなことしねえよ。」

 うわ!そんなこと?そんなことって?…アタシは少し想像してしまいました。


「え?可愛いからしちゃうんじゃないんですかぁ?」

 可愛いと?なにしてくれちゃうんですか?

「バッカじゃねぇの?」

 あ、ミクリン先輩怒ってるの?照れてるの?


「もういいから集中させてください。私も忙しいんです。」

 ミカリン先輩は右手にはハンダごて、左手にはハンダの一巻と吸い取り機を持って、机に固定した基板と格闘している。しかし突如、忙しく動いていた手が止まって、基板とのにらめっこが始まった。


「…っかしいな。…図面と違くない?」

などとブツブツ云いながら、ガチャガチャと両手の道具を置くと、基板の設計図と思われる図面を手に取って見始めた。しばらくすると鞄からテスターを取り出して、2本の端子を基板のあちらこちらに触れては四角い本体のメーターを確認している。


「…あれ?…やっぱ切れてる。こっちも…ダメか…。はー。」

 ミカリン先輩はため息を吐きながら、机に突っ伏した。

「まったく、職員がいい加減だから業者に舐められるんだよ。基板の検品くらい自分でしてよ。」

 と、またもやブツブツ云いながら、スマホをいじり出した。どうやらメッセージを送信しているようだ。アタシはそんな様子をジッと見てしまった。


「何をよそ見してるのかな?手が止まってるぞ。ちゃんと勉強しろ~。」

 ミカリン先輩はこちらも見ずに、そんなことを言う。アタシは慌てて教科書に目をもどした。メッセージの送信が終わると、ミカリン先輩は相変わらず基板と図面を見比べている。


 プルプルプル…。しばらくしてミカリン先輩のスマホに着信があった。数回コール音が続いた後、ミカリン先輩がスマホを取った。

「はぁ~い!ミカリンでーす。お電話ありがとうございますぅ。お待たせしてごめんなさぁい。…は~い、先程メッセージ入れさせて頂きましたぁ。」

 なんだ?このテンションは?キャバクラの営業トークか?気にするなと言われても、凄い気になって仕方ない。


「…ハイ。…ハイ。そぉなんですよぉ。基板がおかしいみたいでぇ…。えっと2層目のプリントが足りないみたいでぇ…。え?ジャンパ線で対策するんですか?え?返品交換出来ない?!…ハアア?!…おっとごめんなさい。失礼しましたぁ。」

 最後の『ハアア?!』はかなり怒って、椅子を蹴って立ち上がっていた。ビックリしたミクリン先輩も、ミカリン先輩をドウドウとなだめようとする。ミカリン先輩は明らかに怒り心頭だったけど、アタシ達には『分かった、分かった。』って手をヒラヒラさせて答えた。


「…分かりましたぁ。手順書にはその様に追記しておきます。…ハイ、ええ。…お礼…ですか。考えておきます…。ハイ、わざわざお電話ありがとうございました。…ハイ、失礼します。」

 ミカリン先輩は電話を切るとストンと腰をおろした。アタシ達はなんだかオロオロして最早勉強どころではない。


「まったく、あのクソ親父!」

 ミカリン先輩はまだ怒りが収まらない様子だ。組んだ脚を小刻みに揺らしている。いわゆる貧乏ゆすりってヤツだ。ミクリン先輩は見かねて声がかけた。

「お世話になってる先生なんだろう?そんな言い方はよせよ。」

 ミカリン先輩はじろりとミクリン先輩を見ると、はぁとため息をついた。

「そうですよ!だから色々とやりたくないこととかも引き受けなきゃならないんですよ。…あぁ…処世術まで学ばせて貰えるなんて、ホント、いい学校ですよ。」


 ミカリン先輩はぐったりと再び机に突っ伏した。あーあとか、まったくもうとか、相変わらずブツブツ言っている。大変なんだなあ。アタシには真似の出来ない事だ。先輩みたいに過度に期待されるのも考えものだ。


 ギッと椅子をきしらせてミクリン先輩が立ちあがった。そして、ミカリン先輩の机の前に椅子を持ってくると、椅子の背を前にして椅子をまたいだ。椅子の背に腕を組み、そこに顔を乗せるとミカリンの顔をのぞき込む。その優しい表情にアタシの胸はチクリとした。

「なぁ、大丈夫か?」

 ミカリン先輩は反対側を向いてしまった。ちょっと耳が赤い。

「何ですか。だいじょうぶですから、…覗かないでください。」


 ミクリン先輩はちょっとの間、黙っていたけど、分かった、と言うと立ちあがって、椅子をアタシの前に戻した。

「ちょっと待ってて。」

 と言うと、教室から急いで出ていった。


 ミカリン先輩と残されたアタシは、ひどく気詰りな感じだった。仕方なくアタシは教科書のページをめくって勉強を始めた。アタシの後ろではミカリン先輩が机に突っ伏したまま黙っている。

 急に窓から吹いてきた強い風にアタシの教科書はページがバサバサとめくられてしまった。

「キャッ。」

 押さえようとしたアタシの手をすり抜けて、風にあおられた教科書は飛んで床に落ちてしまった。まったくしょうがないなと、アタシは椅子から立ちあがって、飛んでしまった教科書を拾い上げる。


「ドジね。」

 機嫌は直ったのだろうか?ミカリン先輩が机に突っ伏したまま、立ちあがったアタシの方に笑いかけた。

「あーあ、私も馬鹿だったらよかった!」

 え?何ですって?聞き捨てならないんですけど。

「そしたら、こうやって勉強教えて貰えたのに…。」

 アタシは何も言えなかった。ミカリン先輩はそんなアタシを見て微笑む。


「晴海は、末っ子じゃない?」

「え?あ、ハイ。二人姉妹の下ですけど。」

 何ですか?何か関係あるんですか?

「甘え上手。」

 ぐうの音も出ない。

「ホント、最強だよ。」

 くっそー…なんとか反撃したい。


「そんなに気になるなら、ミクリン先輩にしっかり伝えればいいんですよ!」

 そしてミカリン先輩をキッと睨みつけた。

「アタシがミクリン先輩と付き合っても文句を言わないでくださいね!」

 アレ?自分の口から出た言葉に驚いた。アタシったらナニを言ってるんだ?


「ホホウ?」

 ミカリン先輩が引きつった笑顔を見せた。

「イんじゃない。頑張れぇ。」

 うわ、凄い棒読みだよ。でもでも、アタシが言いたいのはそんなことじゃなくて…。

「アタシのことは置いといてください。でも先輩はホントに今の関係でいいんですか?」

「…いいんだよ。私は…今さら無いよ…。」

 ミカリン先輩は寂しそうにつぶやいた。


「お待たせ!ごめんな。お土産だ。」

 教室に駆け込んで来たミクリン先輩はポイポイと小振りのペットボトルを放ってよこした。ちょっと甘めのロイヤルミルクティだ。アタシにはちょっと甘過ぎる。けど、一緒にボトルを受けたミカリン先輩が固まっている。どうしたのかな?

「…ミクリン?わざわざこれを買いに?」

「え?だってなんかミカリン落ちてたから。要らなかった?」

「ううん。嬉しい。ありがとうございます。」

 ?妙に素直だな。そういえば前にもこれを飲んでなかったっけ。

「ミカリン先輩、このミルクティ好きですよね?」

 アタシはなんとなく気になって聞いてみた。

「好き。」

 ミカリン先輩はポツリと言ってキャップを開けると一口飲んだ。さも美味しそうに、愛しげに。

「さぁ、晴海さん!どこまで進んだかな?」

 ミクリン先輩はまたアタシの前に座って、照れ隠しのように教科書を広げた。ミルクティの話題には触れず、敢えて無視して勉強を始めようとするのが、ふたりの先輩の秘密を隠すようで、ちょっとさみしかった。


 翌日は、今日は散々邪魔をしたミカリン先輩が英語を教えてくれた。アタシの不得意科目だから、ボロボロになるまでムチ打たれ、しばらくは立ち直れなかった。アタシは別に海外とか考えてないから、英語なんていいんですけど。

 MotoGPだと表彰台に立つライダーは英語でインタビューがあるらしいぞってミクリン先輩が言うけど、そんな機会はないと思うし苦手なもんは苦手なんですぅ!

 そんな感じで、アタシは中間試験の直前まで、誰かしらから勉強を教えて貰っていたのだった。


#奥多摩ツーリング


 御厨、吉野の両先輩と、夏子や鈴木さんまで、毎日毎日居残り勉強会を開催して頂いた結果!高校初の中間試験は、赤点無し!半分は平均点前後!好きな数学に至っては結構いい点が取れました!

 母さんはまあまあねと云いながらも少し安心したご様子。よかった!ホントによかった…。コレでしばらくはバイクとバイトのことはうるさく言われないはずだ。たぶん…。

 けど…。吉野先輩が気になるなあ。あの後も、何度も先輩達のお世話になったけど、なんか無理しているようで…。あ、あんまりアレな話はここまでにして、楽しい話をしましょうか。


 じゃじゃん!『祝!ちえり赤点回避記念ツーリング』開催です!

 

 行き先はあれこれ議論を戦わせた結果、くねくね道のメッカ!奥多摩周遊道路走破に決定致しました!日程は六月初旬の週末。梅雨のやってくる前に実施します。


 エントリーメンバーの一番手はミクリンこと年御厨悟。機械科の三年生。ゼファー400での参戦です。二番手はミカリンこと吉野美佳。電気科の二年生。べスパ150でかわいく、華麗に登場。三番手はアタシ晴海ちえり!機械科の一年生にして、二輪女子会のホープ?NSR250で白煙をあげて登場です!そして、しんがりは白衣の爆発ビューティ佐藤夏子!化学科の一年生。まだ無免許のため、タンデムでの参加になります。欠場は幽霊部員の関山君と鈴木さんです。そもそも幽霊だし、無免許だし、タンデムもしたことないので今回は不参加になりました。


 と、いう訳で待ち合わせは府中街道にあるファーストフード店。

「ちえり!こっちだよ。」

 ファーストフード店の入り口を入ると、夏子が手を振っていた。アタシが駐輪場にNSRを停めた時、既にゼファーとべスパが並んでいたから、みんな揃っているのは分かっていた。夏子の座っている席には御厨先輩と吉野先輩もいて、朝ごはんだろうか、御厨先輩はマフィンを食べていた。アタシは夏子に手を振り返して、先輩にコクリと会釈するとコーヒーを買ってから席についた。


「すみません。アタシのために集まって頂いて。」

 なんて、一応のご挨拶。

「イヤイヤ、これも部活の一環だから。いいんだよ別に。」

 と、部長はおっしゃるが…。

「そうね。まぁ。十分くらいの遅刻に目くじら立てるのもねえ?」

 とは、吉野先輩。わざとらしく腕を振り出して、スマートウォッチに眼をやる様は、目くじら立ててるよねぇ?!


「お前ら、最近仲悪くないか?」

 そうですね。なんででしょうね?

「まあまあ、折角のツーリングなんですから、楽しく行きましょう。」

 夏子が助け舟を出してくれた。

「そうそう、仲良く行こうぜ。」

 部長がそう言うなら仕方ないですね。

 と、御厨先輩がアタシと夏子をジロジロと見始めた。何か?


「君ら、ちょっと軽装じゃないか?」

 確かにここのところ、バイクにはいい季節だし、ツーリングが決まったのも割りと急だったので、アタシと夏子はG店で買った普段使いのアウターで間に合わせていた。バイク用なら当然入っている肩や肘、脊椎プロテクターなどは入っていない。ボトムスも普通のジーンズだ。膝パッドなどは入っていない。


「タンデムの佐藤はまぁいいとしても、NSRの晴海はあまり感心しないな。走るんだろう?」

「はぁ、もう少しバイト代を稼いだら揃えようと思ってます。」

「怪我してからじゃ遅いんだからな。今日は控えろよ?」

 まぁ公道じゃ路面も悪いし、全開走行をするつもりもないけど…。そういう問題じゃないか。

「はい、分かりました。」


 御厨先輩は大丈夫かな?と言うようにアタシをジト目で見ていたが、これ以上心配しても仕方ないと思ったのか、吉野先輩に話を振った。

「じゃあ早速ミカリン、アレ出してくれるかな?」

 吉野先輩は分かったと言うと、ショルダーバッグからインカムを取り出した。一応四人分ある。

「チャンネルはもう設定してあるから、このボタンを押すだけで通話可能よ。それから…。」


 通信機とかのデジモノは吉野先輩の得意分野だ。一通り説明してくれて、スピーカーとマイクなどの取り付けも手伝ってくれた。こういうところは面倒見がいいんだよね。

「それから、私はカメラを付けているから、写りたかったら私の前を走ってね。週明けに学校でお披露目しましょう。」

 おお、それは凄い!吉野先輩のバイト代はこういうモノに注ぎ込まれているのか!


「それじゃ、出発しよう。」

 準備が整ったので、御厨先輩が立ち上がった。

「…あの。」

 夏子が手を上げた。

「私はどなたに乗せて頂けばよろしいんでしょうか?ココまでは吉野先輩に乗せてきて頂きましたけど…。」


 アタシの後ろにはまだ乗せてあげられない。タンデムは免許取得後、一年以上経過することが必要だ。

「まぁ、俺の後ろでいいんじゃない?」

 御厨先輩が即答する。

「あ、それじゃお願いします。」

 夏子も特に気にすることもなく即答した。


 はて?アタシは何だかモヤモヤしてきた。ふと、吉野先輩を見ると吉野先輩もモヤモヤしているのか、ちょっと口元が引きつっている。御厨先輩のゼファーはグラブバーを付けていない。必然的に夏子は御厨先輩に捕まって…もっと言えば抱きついて乗ることになるのだ!夏子は自分より五歳は上でないと、オトコと認識しないから全く気にしていないみたいだけど…。


「わ、私が乗せて行きましょうか?」

 吉野先輩が何とかしようとするが…。

「大丈夫ですよ。吉野先輩のべスパより、御厨先輩のゼファーの方がパワーがあるから、その方がいいですよ!」

 いや夏子…、そういう問題じゃないから。そこへ、御厨先輩も同意した。

「そうだな。でも、奥多摩周遊道路に入ったら、ミカリンに交代していいか?俺も少し走りたいんだ。」

 御厨先輩は吉野先輩の意図を何一つ分かっていなかった。まあ、御厨先輩も夏子も全くそんな意識はないから、やきもきするだけ無駄なんだ。アタシと吉野先輩はモヤモヤしながらも、御厨先輩と夏子のタンデムを追認した。


『それじゃ、出発しよう。』

 御厨先輩が、インカムで呼びかける。

 貸してもらったインカムは結構性能が良くて、概ね視界内にいれば通信が可能だそうだ。おかげで出発するや否や、おしゃべりが始まった。

『おお、道が広くなって二車線になったね。あ、ココ右に曲がるとお世話になっている教授の大学があるよ。』

 と吉野先輩。

『中央道のインターもあるよな。』

 しばらくすると急に視界が開けて緩やかな登りのカーブになった。

『なんかゴルフ場ですか?』

『そうみたいですね。』

『これを登り切ると多摩ニュータウンが見えるよ。』

『ホントだ。あれは電車の線路ですか?』


『そうだよ。賑わっている辺りが聖蹟桜ヶ丘だな。』

 聖蹟桜ヶ丘を過ぎ、野猿街道を渡ると車線が減少し、ローカルな川崎街道に変身した。

『この辺は電車の路線に沿ってるんですね。』

『うん。もうスグ高幡だよ。ほら、モノレールが見えてきた。』

『なんか車両に動物の絵が描いてあるよ。ヤダ可愛いかも。』

『すぐそこに動物園があるからね。』


 やがて、お寺?の門前の信号に引っ掛かった。キョロキョロと辺りを見渡すと五重塔もあって中はかなり広そうだ。

『これは由緒ある仏閣ですか?』

『かなり有名だよ。ココの交通安全祈願のシールを貼ってる車は結構いるよ。あ、この坂登ったら右ね。橋を渡ります。』


 右折して道なりに進むと甲州街道に出た。左折して八王子方面に向かう。八王子までは平らで真っ直ぐな道が続く。

『あ、高架橋が出てきましたけど…。』

『国道16号だ。あそこを右。』

 16号に入るととたんに車の流れが速くなった。


『ミカリン大丈夫か?』

『うう…トラックが多くて怖い…。』

『もう少しの辛抱だ。左入の交差点を過ぎれば少しはマシになる。』

『ねぇ、そろそろ休もうよ。怖いし疲れた。』

 吉野先輩が弱音を吐いた。

『そうだな…。コンビニと道の駅とどっちがいい?』


『え…カフェがいい。』

 吉野先輩がワガママを言う。

『贅沢言うな!あ、でも道の駅にあったかも…。』

『じゃ、そこで。』

 アタシ達は道の駅に立ち寄った。


 道の駅はちょうど営業を開始したみたいだ。私たちに続いて駐車場に続々と車が入って来る。吉野先輩は早速カフェラテを片手に座って一息入れている。御厨先輩も同じテーブルについてコーヒーを飲み始めた。アタシと夏子はあちこち見て回った。

「なんか野菜が一杯だね。あ、ちえり!パンやおにぎりもあるよ。なんか食べたくなってきちゃった。」

「夏子、本能に任せて食べると太るよ。」


 そんな軽口を叩きつつも、アタシは夏子に聞きたいことがあった。

「ねぇ、さっきしばらくインカム切ってなかった?」

 夏子は少しイタズラっぽく笑った。

「ちょっと御厨先輩と専用チャンネルで話してたんだよ。先輩がちえりのことをどう思ってるか…とか?」

 なに~!

「ちょ…。何話してんの!やめて!い…いや、別にいいけど。そんなんじゃないし。…で、なんて?」

 夏子はじっとアタシの目を見た。あまりいい話じゃないのかな?やがて、またニヤニヤし始めた。

「さて、どうしよっかな?」


 むう…。焦らすつもりだな。それともタダでは教えないつもりか?

「…夏子?パン食べる?」

 夏子はちょっと考えたが。

「やっぱいいや!太るしね。」

 そりゃないよ~!

「楽しそうだな。なに話してんの?そろそろ行こうか。」

 御厨先輩がやってきた。コーヒーは飲み終わったようだ。仕方ない。後でなんとか聞き出そう。タンデムも交代して夏子は吉野先輩の後ろだ。アタシ達は道の駅を後にした。

 

 新滝山街道は真っ直ぐな道だ。多少のアップダウンはあるが、バイクを傾けるところはない。

『単調ですねぇ。』

『近付いてくる山々を見ましょう。』

『トンネルですよ。』

『あ、なんか遊園地あるよ。』

『おっきなプールが有名だねぇ。もう少ししたら来たいな。』

『おい、そっちじゃないから、真っ直ぐあきる野インターくぐるから。で、坂登ったら都道7号左折ね。』


『あ~、また真っ直ぐですねぇ。』

『大丈夫。武蔵五日市に突き当たって左に行ったら、じきにくねくねしてくるから。』

『ミカリン給油したいです。』

『この先にあるよ。ついでにコンビニも。』

 アタシ達はガソリンを補給。コンビニはさっき道の駅に寄ったのでスルーした。ここから山道だ。奥多摩周遊道路の入り口までは再び御厨先輩がタンデムすることになった。

「夏子、ねぇちょっと。変な話しないでよ?」

「ふふふ、何のことでしょう?」

 アタシは気が気じゃなかった。

 

 この辺から道は秋川沿いの緩やかなワインディングロードになる。

『やっと山の中らしくなってきたね。』

『気持ちいいねぇ。』

『佐藤さん、ちゃんと前見てないと酔うよ。』

『あ、大丈夫ですよ。慣れてますから。あれ?突き当たりですよ。』

『左に曲がりま~す。』


 橘橋で左折して南秋川沿いに進む。気が付くと夏子と御厨先輩が内緒話をしている。アタシは吉野先輩に話しかけた。

『吉野先輩、あのふたり何話してるんでしょうね?』

『知らんわ!』

『アタシだけに話しておくこと、なんかないですか?』

『皆無!』

 つれない先輩だ。


『お~い!その先右折して~。』

 夏子と御厨先輩の内緒話が終わったみたいだ。

 上川乗の交差点。ココを道なりに進むと山梨方面に出る。奥多摩方面はここを右に入る。しばらく行くとようやく奥多摩周遊道路の入り口だ。ここからは本格的なくねくね道。少し登るとパーキングがありバイクがたくさん止まっている。行き交うバイクも多く、たくさんのライダーでにぎわっている。アタシ達もパーキングに入って一息入れることにした。夏子もここからは吉野先輩のべスパに乗り換えだ。


 ひと休みしたアタシ達は、待ち合わせ場所を奥多摩湖のふれあい館駐車場にして、アタシと御厨先輩はワインディングを楽しむことにした。遅いタンデムはゆっくり景色を堪能してください。

「じゃあお先に失礼!」

 アタシと御厨先輩は走り始めた。

 最初はタイヤを温めるためにアクセルオンとブレーキングでタイヤを揉んでから徐々にペースを上げていく。


 とはいえここは公道なので直線だからと言ってアクセルを開けっぱなしにしたりはしない。次のカーブが楽しめる程度のスピードに乗せて行くのだ。

 クッとアクセルオフ。侵入するコーナーに合わせて重心移動を開始。ジュワッとブレーキング。パンッ!とシフトダウン。スッとブレーキをリリースしながら、コーナーの出口を窺うようにバイクを寝かしこむ。クイッとアクセルを開けてリア荷重。ザア~ッ!フロントとリアの接地感を見極めながらクリッピングポイントを通過。パァーンッ!大きくアクセルを開けコーナーを脱出する。やってることはいつも通りだけど、やっぱりくねくね道は楽しい。


『うひょー!気持ちいい!』

『だろ?気に入ったか?』

『もう、最高です!』


 奥多摩は思っていたより、路面が整備してあって気持ちいい。センターにポールが立ってたり、スピードを出せないようにしてるところもあるけれど、いい感じの道だ。バイクでヒラリヒラリと走っていくのにちょうどいいカーブが連続している。こちらからは登りだし、全開で走るわけではないので、フルブレーキングが必要なシーンはあまり無い。概ねアクセルのオンオフと、じわりと利かすブレーキングで対応出来る。重ね重ねだけど、今日はツーリングなんで全開では走りません。


 南からアクセスすると奥多摩周遊道路は月夜見山を登っていく。最初は登りもきつく、Rの小さなコーナーが続くので、走り屋さんはガンガン攻める道だ。月夜見パーキング前は見せ場。この先は尾根伝いに下り勾配の緩やかな中速コーナーが続く。性格の異なる道は南北どちらから走るかでも違った顔を見せる。これはアタシの個人的な感想なので、小娘のたわ言くらいに思っておいて下さい。


 道案内のため前を行くミクリンのライディングは特段速いわけではないけれど、安定感があって後ろをついていくのに困らない。コーナーへの侵入では、じわっと利かすようなブレーキングで、唐突なフルブレーキはしない。バイクの倒しこみも自然で気負ったところがない。ヘアピンでもバイクの挙動は安定していて滑りそうな気配もない。コーナーの出口ではそれなりにアクセルを開けるけど直線でも無茶なスピードは出さない。じっくりとコーナリングを楽しんでいる感じだ。とはいえ、じゃあ完全に制限速度を守っているかというと、そこは察してください。


 そんな感じでくねくね道を楽しんでいたが、ずいぶん走ってきたところで目の前にお巡りさんが現れた。道路わきの空き地に警察のバンが止まっている。え?検問?レーダーあった?いや、気が付かなかったけど。え?何キロオーバー?って戦々恐々としたアタシと御厨先輩だったが…。

「はーい。止まってくださーい。」

 なんだろ?スピード違反で切符を切ろうという雰囲気ではない。むしろフレンドリーな感じ?にこやかにお巡りさんが近づいてきた。アタシ達はシールドを上げて、『お役目ご苦労様です』的に頭を下げて挨拶をした。

「ご協力感謝します。只今安全運転のキャンペーンをしておりまして、ライダーの皆さんにシールを配ってます。ぜひ好きなところに貼っていただいて、安全運転を励行してください。」


 お巡りさんはそう言って名刺大のシールをくれた。アタシ達はホッと胸をなでおろした。全開走行ではないもののそれなりにスピードを出していたので、かなり後ろめたい。渡されたシールにはお巡りさんのキャラクターと警察署の文字が印刷されていた。警察ですけどちょっとかわいくしてみました的な感じを醸し出していた。

 う~む。着眼点はいいと思うのだが、もうちょっとセンスのいいものならよかったのに。きっと予算も限られているのだろう、アタシはNSRにそのシールを貼るのはちょっとためらわれた。とはいえ、貴重な血税から良かれと思って作ってくれたものを、むげに断るのも大人げない。(まだ大人じゃないけど。)

「どうも、ありがとうございます。」

 控えめだ!控えめすぎるお礼だ。けどアタシにはそれ以上何も言えない。


 ふとまわり見ると、もういい年のお巡りさんが懐かしそうにアタシのバイクを眺めている。

「懐かしいバイクですね。今買うとプレミアがついて結構お高いんじゃないですか?」

 え?そうなんだ。売るとか考えたことなかったから、調べたこともない。

「昔のバイクはイモビライザーとか付いてないから、盗難とかも気を付けてくださいね。」

 ラジャーです。ガレージの奥に鎖で縛りつけておきます!

「それでは、気を付けて!安全運転でお願いします。」

 と、さわやかに敬礼されてしまった。アタシ達はちょっとひきつった笑いを返して、再びバイクを走らせるのだった。


 アタシ達はより控えめになってはいたが、くねくね道を楽しんでいた。一度Uターンして引き返し、のんびり走っている吉野先輩と夏子とすれ違った。最初のパーキングで再度引き返して、しばらく走っていたところ、登りのコーナーの手前でミクリンが急に減速して警告してきた。

『晴海、減速しろ。』

 うん?さっきはレーダーは無かったけど、御厨先輩は何か見つけたのかな?

『何かありました?』

 と、思ったら…。


 カーンッ!

 甲高いエンジン音とともにバイクがコーナーを回ってきた!あれは!?CBR250RR?しかも2台でバトルしてる?下り坂のコーナーを文字通り全開走行で、ライダーは膝のバンクセンサーをザリザリと削りながら旋回している。

 カーンッ!フォン!

 2台のCBR250RRはあっという間にアタシたちの前を通り過ぎて行った。しかし、CBR250RRは最新型が1台と、もう1台はアタシのNSR250と同世代の旧車だった。あっぶないな。けどなかなかやるな。と関心していると…。


 ボフォーンッ!ファーンッ!感心してる場合じゃなかった!さらにその後ろから、大型SSがやはりこちらも2台がコーナーに突っ込んでいく。

 ウ~!フォォーンッ!しかもその後ろからは回転灯を点滅させ、サイレンを鳴らしながら猛追する白バイの姿が!

 「止まりなさい!左に寄せて止まりなさい!」


 すれ違った後でバックミラーを見ると大型SSの1台がコーナーで盛大にコケたようだ。バイクとライダーが転がっている。追跡していた白バイはもう見えない。もう一台のSSを追ったのだろう。アタシの前からはもう一台の白バイが応援に駆けつけている。先に逃げて行ったCBRはともかく、大型SSは逃げられそうもないな。せっかくの安全運転キャンペーンも台無しだ。

『ちょっと自重しようか?』

『ですね…。』

 小心者のアタシとミクリンはさらに控えめにツーリングモードで奥多摩湖を目指していた。やはり公道では他人様に迷惑をかけてはいけないなという自壊とともに。


 奥多摩湖に出て橋を渡り、湖の周りを回った。いくつかトンネルをくぐって小河内ダムのパーキングに出た。パーキングに入ると、バイクも随分止まっている。その中に吉野先輩のべスパを見つけた。


 プルル、プルル。スマホが鳴り出した。夏子だ。

「遅い!待ちくたびれてお腹空いた。」

「ごめんごめん。どこ?」

「上見て、上。」

 建物の上の階の窓で夏子が手を振っている。

「分かった。行くよ。」


 アタシと御厨先輩は建物の中に入っていった。上の方にレストランがあって、夏子と吉野先輩が席についていた。

「私達、建物の展示を一通り見てきたけど、ミクリンと晴海は随分とお楽しみだったみたいね?」

 アタシ達が席に付くと、吉野先輩がチクリと言う。

「おお、久しぶりの奥多摩はやっぱいいなぁ。テンション上がるわ。」

 そう、そっちのお楽しみだから、別にやましい事はないから。

「ちえりも後でちょっと見てきたら?展示も面白いよ。」

 夏子は面白いかもしれないけど、アタシはそういうお固い展示は遠慮しておきます。眠くなりそう…。


「お待たせしました。ダムカレーのお客様。」

 え?ダムカレー?夏子の目の前にはカレーライスが。ライスがダムにカレーが湖水に見立ててあり、ポテトが展望塔、ベジタブルがドラム缶橋を模している。

「あ、アタシも同じのがいい!」

「残念、限定で売り切れました。」

 ガッカリだ。泣ける。

「そうだ。吉野先輩って新旧二台のCBRとすれ違いました?」

「CB?あ~る?何それ?」


 吉野先輩はレーサーレプリカにあまり興味ない。が、夏子が気付いていたようだ。

「いたよ。すっごい飛ばしてた。吉野先輩カメラ回してました?」

「大丈夫だよ。なんで?」

「週明けに見せてください。」

「オッケー!」

 吉野先輩のカメラは残念ながら液晶のないタイプでこの場で確認はできなかったのだ。


 アタシはCBRのライダーのヘルメットが気になっていた。すれ違う瞬間にチラリとしか見えなかったが、『OK』という文字が目に焼き付いていた。なんでOKなんだろう?別にどうでもいいことだけど、ちえりの頭からはOKの文字がなかなか消えなかった。


#CBRライダー


 コンビニの駐車場に新旧二台のCBRが並んで停まっていた。その脇には駐車場のネットフェンスにもたれてくつろぐ、ふたりのライダーの姿があった。ヘルメットを脱いだ素顔は若く、まだハイティーンになったばかりの初々しさがある女の子だった。


「大型SSも大したことないね。」

「乗り手がタコだったからね。」

「反対車線にNSRがいたね。」

「一度やってみたいな。」

「でも今日はもう帰ろうか?」

「白バイいるし、桶川は遠いしね。」

「また、こよ?」

「だね。」


 彼女たちが被ったヘルメットには「OK-GirlsRacing16」という文字のステッカーがお揃いで貼ってあった。


#梅雨の事情


 アタシは配達伝票をプリントアウトすると、印字された配達先の住所を確認した。壁一面に貼られた配達区域の大きな地図で配達ルートを調べながら、ピザが焼けるのを待っていた。


 ふと振り返ると、会計カウンターの向こうの大きな窓ガラスに、時折ツーッと水滴が流れる。窓の外の景色は日没前なのに何となく暗い。目の前の駐車場は車が通る度にヘッドライトの光を店内に反射させる。換気扇からは雨樋をチョロチョロと絶え間なく流れる水音が聞こえる。


 アタシの被っているヘルメットからもポタポタと水が滴り落ちている。レインコートを着ているとはいえ、滴り落ちた水滴が首筋に入って来るのは気持ち悪い。ここ数日、毎日濡れて乾く間もないレインコートは変な匂いがする。長靴の中もなんだか冷たい。


 こんな日に配達のシフトなんて最悪だ。って言うか、この前のツーリング以降、神奈川県は梅雨入りしてしまったらしい。そう言えばそんな季節もありましたね。何も考えずに今月は配達のシフトを増やしたアタシがバカだったみたい。


「お待たせ!1205番のミックスピザLサイズ一枚、デラックスLサイズ一枚、ベジタブルLサイズ一枚、出来上がりました!」


 相変わらず手際の良い吉野先輩が常人の三倍と噂のスピードでピザを作っている。最近はピザの彗星とか呼ばれているらしい。おっといけない。1205番はアタシの伝票だ。三段重ねのピザ入りの箱を受け取ると、伝票と照合して配達用バッグに詰め込む。


「晴海、行きまーす!」

 アタシは気合いを入れてドアを開けると、水の音に充ちた世界に飛び出した。弱い雨に打たれながら、雫の流れる配達用三輪スクーターのトランクにピザを入れ、しっとりとしたシートに跨るとセルボタンを押す。


 キュキュキュキュ…プルルンッ!トットットットッ…。


 さっき切ったばかりのエンジンは、抵抗するそぶりも無く動き出し、すぐにリズミカルな軽い排気音を奏で始めた。アタシはスクーターを駐輪場から出して、配達先に向かって走り出した。

 幸いにもフロントスクリーンと屋根の付いたスクーターは、走り出してしまえば強い風さえ無ければ快適だ。前から向かって来る雨粒は、フロントスクリーンとワイパーでカットされてしまう。スクリーンから続く屋根は上から落ちてくる水滴を受け止めてくれる。


 交差点に差し掛かった。信号が黄色から赤に変わる。ここを左折するアタシはウインカーを出して停止した。弱い雨がスクリーンの無い側面から降り込んでくる。そう、側面が開け放たれたこのスクーターは横からの雨への対抗手段が無いのだ。なので配達メンバーはレインコートを着用している。


 信号が青に変わる。アタシはゆっくりと慎重に交差点を左折した。交差点には雨に濡れた停止線、横断歩道、マンホールなど、滑りやすいモノが溢れている。センターラインや速度表示のペイントなどで何度か危ない目にあって、流石にアタシも学習したんだ。基本的に痛い目に遭わないと学習しないタイプなんです。はい。


 住宅地の中に入って行くと、細い裏通りに面した配達先の住所に着いた。戸建てで広い庭がある。門のところにインターホンがあった。残念なことに屋根は無い。アタシはピザをトランクから出すとインターホンを押した。しばらく待っていたが、反応が無い。もう一度インターホンを押そうと腕を伸ばしたら、アタシのヘルメットを伝って雨水が首筋に入ってきた。ひゃ~っ!勘弁してぇ!


 三度目の呼び出しで、やっと玄関のドアが開いた。こっちに来いと手招きをしている。アタシは門を開けて庭を突っ切って玄関まで、雨の中を小走りしていった。玄関では渋い顔をしたオバサンがアタシを睨んでいた。

「遅かったわね。ちょっと遅れたんじゃないの?」

 アンタが出てくるのが遅かったんじゃないの?と、思いつつもピザを渡し、伝票を出して笑顔を貼りつかせて言う。

「お時間通りの到着になりますが、次回ご利用いただけますクーポンをお付けいたしますので、ご容赦下さい。代金ですが×千×百円になります。」

 オバサンは仕方ないねぇ、とか言いながらクーポンを確認してお財布から一万円を取り出した。大丈夫!お釣りも準備万端!対応可能です。アタシがおつりをキッチリ渡すとオバサンは少し残念そうな顔をした。へへんだ!

「お熱いのでお気を付けてお召し上がりください。ありがとうございました!」

 このやり取りをしている間、アタシは屋根の無い玄関先で雨に打たれ続けていたのであった。


 しとしとと降る雨の中を濡れネズミでお店に戻ると、休憩時間に控え室で吉野先輩と一緒になった。配達でぐっしょりになったレインコートから脱出し、濡れたところをタオルで拭いた。冷房が効いた控え室はちょっと、いや、かなり冷える。


「いやぁ、晴海が張り切って配達してくれるからありがたいわ。」

 いつものロイヤルミルクティを飲みながら、吉野先輩が言う。

「今月は私の配達シフトは晴海が全部引き受けてくれたからね。」

 そう!バイト頑張ってお金貯めてサーキットにカムバックするんだ。スーツ買って、ライセンス取って、チーム作って…壮大な計画だ。

 うぅ、でもこんなに雨が降るなんて知ってたら引き受けなかったよ。


「なんで雨の日は配達が多いんですかね?」

「え?当たり前じゃん!雨の中買い物に出かけるのが億劫になった奥様が、今日は特別ね、とか家族に言いながら注文してくるんだよ。」

 あぁ、アタシも雨の中買い物なんて行きたくないもんなぁ。

 ホレ、と言って、吉野先輩はアタシの好きな微糖缶コーヒーを放って寄越した。お、珍しい。少しは罪悪感か感謝かを感じているのかもしれない。

「で?どうなの?佐藤さん情報は?」

 あぁ、そっちの情報料か。


 そう、奥多摩ツーリングのタンデムで急接近したように見える御厨先輩と夏子は、なんだか怪しいのだ。内緒話をしているし、メッセージもやり取りしているようだ。内容はアタシにも秘密にしていて教えてくれない。

「今度ちょっと夏子の家にお邪魔して聞いてきます。」

 吉野先輩は時計を見ると立ち上がった。

「よろしくねぇ。…さて、私は休憩終わり。晴海も頑張ってね。」

 外を見るともう日は沈んで暗くなっている。あと二時間くらいで上がれる。もうひと頑張りしますか。アタシは濡れたレインコートを思い出して気が滅入ったけど、えいって気合いを入れて立ち上がった。


 その日最終配達は最悪だった。日が沈んで暗くなったところに、いわゆるゲリラ豪雨で、折角のスクーターの屋根もほとんど役に立たなかった。ライトを点けても辺りは暗くてなにも見えない。配達先のお家のオジサンは可哀想にね、大変だね、とか言ってくれたけど、アタマからバケツの水をかぶってしまったようにずぶ濡れだ。レインコートの襟元からもひっきりなしに水が入ってくる。長靴の中もびちゃびちゃだ。しかも裏通りの信号に赤信号で引っかかってしまった。横殴りに噴水のように水の塊が叩きつけられる。ああ、もう最悪。


 激しい雨の中、アタシよりも不幸な連中はいないかと、辺りを見回してみると…。いた!いたよ!トラックにバイクを積んでるバイク屋さんだ。交差点から入った細い道の奥にトラックが止まっている。そしてレインコートを着た人がふたりいて、その荷台にバイクを積み込んでいる。トラックの荷台には『バイクの買取・バイクの玉子様』とペイントしてあった。語呂合わせの電話番号も書いてあった。こんな日にバイクの引き取りなんて、ツイて無いな。

「可哀想に。」

 他人がアタシより不幸な様子に少し満足してニヤリとしたが、危うく青信号を見逃すところだった。

 プルルッ!

 慌ててアクセルを開けると走り出す。荷台の人がこっちを見たような気がした。振り返ると、レインコートのフードがはだけて金色の髪の毛が見えた。ヤンキーの人かな?お店に近づくにつれて、なんだか雨も弱くなってきた。アタシも少しは運が向いて来たかな?


#夏子の部屋


 相変わらずの梅雨空だけど、夏子は教習所に通い始めた。雨の中で教習なんて考えられない。

「え?ちえりも雨のサーキットで走ったことあるじゃん。」

 そう、レース中に雨になったことはある。でもやっぱ走らなくて済むならば雨の中で走りたくはない。濡れるし、滑るし、視界悪いしね。

「で?バイク何にするの?」

 この間の鬼のような雨の配達を思い出しかけたので無理矢理話題を変えた。


 今日、アタシはたまたまバイトが無いので、学校帰りに夏子の家にお邪魔している。夏子と御厨先輩の関係も追求したいけど、どっちかというと夏子のバイク選びに付き合ったり、夏に向けたアパレル選びを一緒にしたかった。夏子のパソコンで通販サイトも見られるけど、雑誌も見たいので本屋に寄って女の子向けバイク雑誌を買ってきた。ついでにと夏子が化学関連の雑誌を買ったのには驚いた。


「今月は『燃焼と爆発』特集なんだよ!天崎先生が教えてくれたの。」

 嬉しそうに言う夏子の笑顔は恋する乙女のソレなのだけど、恋の対象が爆発なのか先生なのかはアタシにもよくわからない。

 そうしてアタシは夏子のベッドにもたれて雑誌を眺め、夏子はベッドに転がりながら、タブレットPCでバイク選びのサイトを見ていた。


「う~ん…。中古のカワサキってのは決まってるんだけどね。」

 夏子のお父さんは熱烈なカワサキ党で、今はDAEGに乗ってるらしい。夏子のバイクもカワサキならお金を出してくれるらしいが、他のメーカーは駄目だそうだ。偏屈だよね。

「Ninja、Balius、Estrella、などなど…。どれも好きなんだけどなぁ。」

 走りがメインならNinjaを推すんだけど、夏子はきっとツーリングの方が好きなんじゃないかな?トコトコ行くなら味のあるバイクもイイよね。

「ねぇ、Estrellaにしたら?渋くてかっこいいよ?」

 夏子は悩ましげにブツブツと呟く。

「そうなんだよねぇ。だけど長距離とか高速とか考えるとカウルがあった方が楽なんだよねぇ…。」


 こうして好きなバイクを選んでいる時間はとても楽しい!このバイクかっこいいとか、でもこっちのバイクはエンジンが好みとか、そこに燃費がとか、お値段がとか経済的事情が絡んで、なかなか決まらない。

「ねぇ夏子、今度バイク屋さんにも行ってみようよ。実物見るとまた考え変わるよ?」

 そうなのだ、特に中古車の場合、カタログを見てコレと決めて行っても、好きな色が無かったり、状態が良くなかったりは当たり前だ。逆に候補にも入れていなかったバイクが物凄く魅力的に見えたりもする。

「…うん。今度お父さんに連れて行ってもらうんだけど、ちえりも来る?」

 う~む…。夏子のお父さんてカワサキ一筋だから、NSRなんてやめてKRにしろとか言い出しそうなんだよねぇ。そんな金はないっちゅうねん!

「…いや、アタシはイイよ。じゃあさ、次はアパレル!今年の夏は何を着ようか?」


 ひとしきりバイクやウェアの話をした後、アタシは御厨先輩のことに話題を振った。

「え?御厨先輩?」

 夏子はびっくりしたようだ。

「そうだよ。夏子何か隠してない?内緒話ってなんだったの?」

 夏子は笑って誤魔化そうとするが、眉の辺りが困っている。

「い、いや別に、何も無いよ?…そ、それよりさ。ちえりは御厨先輩のこと…その、どう思ってるの?」

 う、夏子の逆襲だ。

「あ、アタシは、いい人だと思うよ?最初は怪しい人から助けてもらったし…。」


 文化祭の後夜祭では、寒そうなアタシと吉野先輩に上着を貸してくれたし、試験前は勉強を教えてくれたし、背も高いし、イケメンだし、近くに来るとドキドキするし、好きになってもおかしくないよね?

「…ちえり?…ちえり?ぼーっとして、どうしたの?顔が赤いよ?熱ない?」

 いや、まさか御厨先輩の想像をしたくらいでこんなになるとは!ヤバい!ホントに好きなのかな?


「ねぇ、今日は帰った方が良くない?雨の中で配達してたんでしょ?」

 うん、まぁそのせいだな。

「もうすぐ、期末試験だし、体調管理も大事だよ。」

 え?もう?急に目の前が暗くなった気がした。

「また、勉強会しないとね?」

「そうだよ、アタシまた御厨先輩に教えてもらおう!」

「…ちえり、あのさ…。」

 夏子が少し真面目な顔をした。

「御厨先輩はやめた方がいい。ちえりは諦めた方がいいと思う。」

 アタシは固まったまま、夏子の目を見ていた。


#完敗


 梅雨の晴れ間というのはホントに貴重なモノで、しかもバイトの入っていない休日であれば尚更だ。アタシは朝からNSRで出かけることにした。試験勉強は明日から頑張るぞ!

 夏子がワケわからんことを言った後、アタシはなんだかアタマに来てしまって、速攻で家に帰ってしまった。

 なんか理由があると思うんだけど、あの時は聞きたくなかったんだ。その後、夏子とはまだ話していない。顔も見たくないわけじゃないけど、まだ顔を合わせていない。そんなモヤモヤを払い除けたくて、今日はソロツーリングなんです。


 今日は246から129と国道伝いに来て、湘南の海沿いを走っている。今日の目的地は箱根の大観山。御厨先輩によると、その昔栄えていたツバキラインというくねくね道があるらしい。湯河原から大観山に登って行く道だというので、アタシはまずは湯河原を目指す。

 折角だから西湘バイパスを通って西湘パーキングにも寄ってみた。結構バイクが止まっている。目の前の海岸からは日の出も見えそうだ。そのうちみんなで来れたらいいな。

 パーキングを出て小田原を過ぎるとスグに有料道路出口だ。アタシは小銭を出すのに手間取って、後ろのクルマにクラクションを鳴らされてしまった。可愛いJKライダー相手に大人気ないよね。


 ココから海岸線なんだけど、御厨先輩の話では根府川駅の手前で信号を右に入るといい感じの旧道があるらしい。住宅も結構あるからあまり飛ばすような道じゃあないけど、ウォーミングアップにはいいって言ってた。

 アタシは早速旧道に入って行った。確かに道は狭いところもあるし住宅地も通るけど、どんどん登って行くと景色が良くなってきた。おお、山の上から見下ろす海が綺麗ですね。レストランとかもあるよ。

 くねくね道も悪くないね。ブラインドコーナーがあったり、横断歩道があったり、ちょっと気を付ける必要があるけど、そんなに飛ばしさえしなければ楽しい道です。


 やがて道は下り坂になり真鶴駅の裏を抜けて湯河原の海岸線に出た。ちょうどガソリンスタンドがあったので給油して、いつも通りファーストフードで休憩です。

 朝メニューのマフィンをかじりながらスマホで道を確認する。海岸線からスグそこを右に入って、道なりに上がればよさげ。最後の右折さえ間違わなければ、大丈夫そうだ。マフィンを食べ切って海岸線の国道を見ていると、バイクが結構多い。やっぱりたまの晴れの日だと乗りたくなるよね?アタシはとっくに飲み干したアイスコーヒーの蓋を開けると、氷をいくつか口の中に流し込み、カリカリとかみ砕いた。口がしゃっきりして、のんびりくつろぎモードからライダーモードに切り替える。アタシはアウターのジッパーを上げると店を出た。


 湯河原駅に向かう道を登るとすぐに駅前に出た。お土産屋さんや商店が並んでいる。多分歩いて回ると色々発見があるだろうが、今日は寄り道しないで真っ直ぐだ。道沿いにはコンビニや銀行らしくない銀行も出てくるが、登るにつれて温泉宿が増えてくる。小さな宿、大きなホテル、古いモノ、新しいモノ様々だ。たいそう栄えているのは、きっといい湯どころなんだろう。


 道は川沿いになり、両側は山と森に挟まれ渓谷の趣きが出てきた。そろそろ右折かな?再び温泉宿が川沿いに現れると、案内板が見えた。この先右が大観山だ。ってココでいいのかな?一瞬迷ったが右折出来るのはココしかない。前にも後にもバイクやクルマがいないからちょっと不安です。まぁ、違ったら引き返せばいいよね?アタシは道を右に入って森の中に続く道を登って行った。


 道はセンターラインのある普通の道。でも少し登るとくねくね道が始まった。ブラインドコーナーには一応ミラーがあるので、対向車の存在は早めに気が付くことが出来るだろう。コーナーは比較的Rが小さくて、スピードの割りに楽しめそうだ。場所によっては梅雨の影響で水が流れているところもある。少しタイヤを揉んでグリップを確かめながら走っていると、早速ヘアピンカーブ登場だ。

 左へ軽い登りのヘアピンカーブ。視界は良好、先の見通しも利いていて、対向車や駐車車両は見当たらない。


 キュウッ!

 少しセンターラインに寄ってアプローチ。それほどスピードは出していない。体をイン側に寄せ、軽くブレーキを引く。フロントフォークがスッと縮まって、コーナリングに備える。

 ススッとブレーキを緩めながら腰を落としてバイクを倒し込む。かなり小さなRのためヒザを落として路面に擦り付けたくなる。しかしアタシのボトムスはバンクセンサーはおろか、膝パッドさえ入っていないジーパンだ!がまんしてヒザを引っ込めたが、そのせいで少しバイクが狙ったラインからハズレてしまった。う~ん。消化不良…。気持ち良くない。次はバンクセンサー付きパンツを購入するべきかもしれない。


 自分の装備不足に不満を抱きながらも、くねくね道は続いていく。山道は木が道にかかっているところも多く、路肩に枯葉や土が浮いているところもある。

 極めつけは道路脇まで木々の張り出した左コーナーでイン側を掠めた時のことだ。

 テテテテテッ!

 コーナリングするNSRのステップのスグ横を並んで走っているモノがいる!?黒い毛玉に見えたソレは道端の木に飛び移って駆け上がってゆく。リスだ!可愛い!こんなことも山道ならではのことだ。やっぱりくねくね道は楽しいや。


 その後、何ヶ所もある小さなS字や、森の中の路面の悪い複合コーナーや、Rが大きめのヘアピンを過ぎると、木が途切れ視界が開けてきた。確かこの崖に張り付いた真っ直ぐな坂道を登り切ると、駐車場に面した左ヘアピンカーブがあるはず。谷側は絶壁で落ちたら生命はなさそうだ。そこに…。

 フォンッ!

 走り屋さんのお出ましです。下りのヘアピンを猛スピードで下ってくる。いや、ココは怖いって!見てるこっちが心配になってしまう。アタシはやっぱり膝すりパンツより、サーキット用のレーシングスーツにしようかな?


 ひとしきりくねくね道を堪能すると、右手に広い駐車場と大観山のドライブインが現れた。真っ直ぐ行けば芦ノ湖、右に入って下ればターンパイクだ。駐車場に入るとバイクが一杯だった。梅雨の晴れ間はバイカーの心をくすぐるらしい。海賊船の行き交う芦ノ湖に目を向け、辺りを見回すと駒ヶ岳などの箱根の外輪山と、その先に綺麗な富士山が望める。海に目を向けると初島とその向こうに大島が見える。

 今日は箱根名物の霧もなく、素晴らしいパノラマが堪能出来た。ドライブインの中ではカレーや麺類などが食べられるけど、今日は走りがメインなので缶コーヒーでガマンするんだ。後で可愛いNSRにガソリンをたらふく飲ませてやらなければならないのだ。節約節約!

 

 バイカーは圧倒的にオジサンが多い。駐車場の片隅に設置された喫煙所や、携帯灰皿を使って美味しそうに排気煙を上げている人も多い。父さんも昔吸っていたけど、ラーメン屋開業を期にやめてしまった。マナーのある喫煙はいいけど、くわえタバコでバイクを走らせるのはやめて下さい。灰や吸い殻が後ろのバイクに飛んで来るのは大迷惑です!


 ドライブインの周りをブラブラしながら景色やバイクを眺めていたら、どこかで見かけたバイクを見つけた。新旧二台のCBRだ!この間奥多摩で飛ばしていた人達じゃないかな?ナンバープレートを見ると、大宮ナンバーと春日部ナンバーだった。埼玉から来てるのか!結構遠いよね?大宮ナンバーの新型CBRはマットなグレーでステルスっぽい。マフラーを始めとして、色々と手が入っている。旧車の春日部ナンバーのCBRの方は元はホワイトのカウルやタンクにこれでもかというほどシールやステッカーが貼ってある。その中にあの日奥多摩で配っていた警察署のシールを見つけた。

 俄然興味が湧いてきた。アタシは離れた場所に止めてある自分のNSRに向かい、CBRのライダーを待った。


 来た。CBRのライダーは若い女の子だった。アタシと同じくらいかも。一人は白に蛍光イエローのラインの入ったレーシングスーツ、もう一人も赤い革のジャケットと黒いバンクセンサー付きの革パンツで、どちらもフルフェイスのヘルメットを持っている。アタシみたくジーパンにジェットヘルなんて軟弱な軽装じゃない。レーシングスーツの子は肩くらいまでの黒髪をゴムでまとめて尻尾にしている。ジャケットの子は明るい茶髪のショートカットで前髪に少し赤いメッシュが入っている。


 二人は二言三言、言葉を交わすとジャンケンをした。先行、後追いを決めているのだろう。これから走るのだろうか。

 願ってもないチャンス。アタシもスグに出られるように、NSRのエンジンをかけて長い髪をゴムでまとめるとヘルメットをかぶった。準備万端整えると、二人もヘルメットをかぶって動き始めた。新しいCBRがジャケットの彼女で、シールいっぱいの旧車がレーシングスーツの彼女だ。アタシは彼女達が駐車場を出て湯河原方面に向かうのを確認すると、NSRで後を追った。レーシングスーツを着た彼女が駐車場を出る時にアタシの方を振り向いた気がした。ソレならソレで話が早いじゃあないですか!


 アタシはタイヤを暖めながら走って行った。駐車場からの比較的緩やかなカーブをペースを上げながら走って行く。深めの右カーブを抜け、再び緩やかなカーブの連続する下り坂を駆け下りると…。


 いた!一つ先のカーブを抜けるCBRのテールを捉えた。

 パァーンッ!パァーッ!カウルに伏せ、アクセルを開けて増速!急接近する。恐らく待ち構えていたのだろう、二台のCBRに間も無く追いついた。アタシがペースを合わせ追走してチカチカとパッシングすると、後ろを走っている旧車の彼女が振り向いた。

 シールドはブルーミラーで表情は見えなかったけど、クスリと笑った様な気がした。彼女はハザードを点灯し、リアを振って誘いを掛けてくる。女の子のクセにはしたない。お仕置きしてあげましょうか?でもやるなら後追いがいいな。先に行ってくれない?アタシは再びパッシングをチカっとくれてやった。


 先行していた新型CBRのライダーが旧車のライダーに一瞬振り向くと片手を横に突き出して親指を立てた。

 やってやるぜ、ってこと?先行する彼女はハンドルを握り直すとアクセルを開けた。

 ブフォーンッ!チューンしたマフラーのせいか排気量にしては野太いエキゾーストを響かせてグレーのCBRが加速する。

 ヒュオーンッ!旧車のCBRもモーターの様なサウンドを奏でながら後を追った。

 カシッ!パァーンッ!アタシもギアを落としてフル加速!NSRは白煙を上げて追撃を開始した。


 高速カーブを加速し短いストレートを抜けると左カーブが迫ってくる。

 ククッ!っと、ブレーキでコーナーへの進入速度を調整して体重移動開始。

 カンッ!ギアを落としてブレーキをリリースし、腰を落として車体をバンクさせる。


 コーナー出口は路面が荒れていて、すぐに迫るRの小さな次の右コーナーへのアプローチは、おっかなびっくりのブレーキングになった。

「ヤバい!マジで怖い!」

 前のCBRはヒュンッ!と、音がしそうな勢いで切り返していく。アタシもなんとか切り返したが、右のコーナーはいきなりの深いヘアピン!下り坂のコーナリングで、アクセルを開けるタイミングは前を走るCBRにならって追走する。


「うーん…。苦戦…。」

 右へ左への緩やかなコーナーは下り坂を全開で加速してなんとか食いつく。もしかするとアタシを待ってるの?と、思う間も無く再び深い右のヘアピン!前の二台に続きフルブレーキングからの倒し込み。

 ザリザリザリ…。

 コーナーは真ん中辺りでRがキツくなる。CBRの二人は更にバンクして膝パッドを路面に擦り付けた。アタシも腰を落としてNSRを更に深くバンクさせるけど、擦れないヒザにやっぱり不満で不安だよ!


 下り坂は更にキツくなり、アクセルを開ける手も躊躇いがちになる。S字コーナーが増え始め、左右に切り返す回数も増えたため、腰を落ち着けていられない。右カーブを抜けると、落差のある左ヘアピンが現れる。コーナーの内側となる下り車線は螺旋状に落ち込んでいる。

「キャーキャー!やめて!来ないで!」

 と、言っても前の二台はガンガン突っ込んでゆく。


 ギュギュギュッ!ヴォンッ!フォーン!フルブレーキ!ブリッピング&ギアダウン!

 ギュンッ!っと旋回する。

 しっかりとリア荷重して、恐ろしい下り坂を何とかやり過ごす。コーナー出口で先行のCBRにはたいそうな差をつけられてしまった。なんとか追い付きたい。道端には木々が増え、視界が悪くなっていく。続いていく果てしないS字区間で、NSRを右に左に振り回しながら、アタシは焦燥感に襲われていた。


「離されてる…。」

 アタシは前の二台に差をつけられ始めた。特にヘアピンなどの深いコーナーではスルスルと先行されてしまう。バイクの重量はコチラの方が軽いはずだから、アタシが重いのか。(考えたくはない。)それとも、やっぱりアタシがヘタなのかだ!

 緩やかなカーブの下り坂。

 パァ~ンッ!パァ~ッ!アタシは危険を承知でアクセル全開で突っ走る。

 山道を登ってくるバスとすれ違った。バスの後ろには数台のクルマが数珠繋ぎに連なっていた。クルマがバスを追い越していたらアタシの生命は無かったな。背筋をイヤな汗が流れるのを感じていた。

 やがて先行する二台に追いついた。明らかにアタシを待ってる。


 急に木々が途切れ、道の向こうに空が見えた。CBRはヒュンと右に曲がって消えた。アタシも後に続いていく。ガードレールの向こうは断崖絶壁!コケれば天空を舞うことになる!死んでもコケるワケにはいかない!

 ン?なんかオカシイな?足の踏ん張りが利かなくなってきた?たった数分の走行でこんなに消耗するなんて!体力無さ過ぎだ!カラダがナマってる。情けない。

 下り坂のうねるようなS字の連続で軽いはずのNSRがやけに重い。深い左の中速コーナーでは踏ん張る膝がカクカクと笑い始めた。


 左へ下るカーブを抜けると、坂道の底に180度の右ヘアピンコーナーが見えた。

 ギュワワッ!下り坂を駆け下りてフルブレーキング!前のめりに逆立ちしそうな勢いで減速する。

 パンッ!パゥン!ボルルルッ…。

 カンッカンッとギアを落とすやバイクをぺたりと寝かしてフルバンク!

 途端に外足の左膝がガクッと砕けた!バランスを保とうと咄嗟に右膝が開く!

 ザリッ。

「痛っ!」

 開いた右膝が路面を擦った。痛いのはガマンして体勢を立て直す。多分ジーパンが破れて、可愛い膝小僧に擦り傷が付いてしまったのだろう。ココまでか…。転倒は免れたものの、アタシの無けなしのプライドはズタボロだ。擦り傷どころではない。

「アタシ負けましたあ。」

 アタシはアクセルを緩めると、とっくに次のカーブの先に消えたCBRに敗北宣言した。


 アタシは膝小僧の様子を確認しながらフラフラと走っていた。いくつかカーブを曲がると、道の真ん中に立木があって、登り車線と下り車線が左右に分かれている。カーブなのだがUターン出来るようになっていて、二台のCBRが正に今Uターンしているところだった。

 二人はアタシに気が付くと、もう一度行こうと言うように手を振ってくれた。しかし、心身ともにキズついたアタシはブンブンとクビを振ってお断りしてしまった。でも申し訳なくて、またねと手を振ってお別れしたのだった。


 アタシは湯河原の海岸でしんみりとハーモニカを吹いている。海岸とは言っても海水浴場ではない、海沿いの店舗の裏のテトラポットがゴロゴロと転がっている辺りだ。アタシのハーモニカを聞いているのはアタマの上を飛んでいるトンビや海鳥くらいのものだろう。

 最初はふざけてレクイエムを吹いたりして自虐的な冗談のつもりだったが、心がズキズキと傷んでシャレにならなくなってしまった。趣きを変えて、無理矢理明るいJ-POPを吹いてみたのだが、空々しい感じが否めない。そこでなにも考えず適当に吹き始めたら、自然とスタンダードジャズやブルースになっていた。

 ゆっくりとしたテンポで奏でるメロディは心の傷に優しく沁みてくる。もうお昼過ぎでお日様は高く登り、強い陽射しが近付く夏を思わせる。そこまで来てる暑い季節がアタシの心にも火を灯してくれるだろうか。


 膝小僧はやっぱり擦り傷になっていて、ジーパンも破れていた。この近くのドラッグストアで絆創膏を買えたので応急処置も済んだ。膝小僧は深い傷じゃなくて良かったけど、体力不足には深くキズついた。武道や運動部をやっていたから、体力には自信があったんだけど、持久力の枯渇には正直呆れてしまった。部活引退から一年近く身体的鍛錬を怠けてしまった報いだ。早速、一から鍛え直さなければならなくちゃね。

 アタシは最後にハーモニカでファンファーレを吹き鳴らして、座り込んでいた石段から立ち上がった。

 帰ろう!帰ったら夏子とも、もう一度話をしようかな?


#CBRライダー


 ちえりのいた場所から歩いてスグのファーストフード店の駐輪場に新旧二台のCBRが止まっていた。店内では二人の少女がポテトと炭酸飲料を前に今日の獲物について話していた。

「NSR、まあまあだったよね?」

「あんな舐めた装備にしてはね。」

「女の子だったよね?」

「メットから長いしっぽが出てたね。」


「もっと早くに諦めるかと思ったけどね。」

「折り返しまで付いてきたもんね。」

「サキ、結構本気で逃げてたよね?」

「アタイが本気で逃げたら、ミズキも付いてこれないでしょ?」

「…そんなことはないわ。」

 突然発生したジャカジャカという音はミズキと呼ばれた女の子の手から聞こえてきた。

「ちょ!やめろ!…わかった!悪かった!アタイのドリンクを振るな!炭酸が抜ける!」


#海辺のドッグラン


 少年は誰かが吹いているハーモニカの音色に気づいたようだった。

「懐かしいな。昔ハーモニカを吹く奴がいたな。」

 ここは海岸沿いの店舗の裏手にあるドッグラン。

 足元には柴犬が寄り添って、やはり耳を立ててハーモニカの音色に耳を傾けているようだった。

 やがて派手なファンファーレを最後に演奏が終わったようだ。


「どうした?さくら?」

 ク~ン、ク~ン。

 さくらと呼ばれた柴犬は落ち着かなげに足を動かして、少年を見上げる。

「…そうだな。そろそろ行くか!」

 少年は転がっていたヘルメットを拾うと歩き出した。


 柴犬はクンクンと磯の匂いでも嗅ぐように鼻を鳴らしたが、探しものが見つからなかったのか、少年の後を追って走り去った。


#疑惑のタンデム


 アタシは何を見たのだろう。

 夏子を驚かせようと内緒で教習所の近くで夏子の教習が終わるのを待っていたアタシは信じられない、信じたくない光景を見てしまった。


 教習所の前で愛車のゼファーを止めて佇む御厨先輩に、ちょうど教習が終わったのだろう夏子がにこやかに声をかけていた。明らかに夏子を待っていた御厨先輩は、夏子をタンデムに乗せて走り去ったのだ。


『御厨先輩はやめた方がいい。ちえりは諦めた方がいいと思う。』


 夏子の言葉が再びアタシの心をざわつかせていた。


#期末試験


 期末試験が近くなると、梅雨の終わりも近付いて来る。梅雨入りの頃は雨に濡れると寒かったのが、最近は気温が上がって蒸すようになってきた。まだ雲が多いし雨も降って来るけど、衣替えの半袖が肌寒いなんてことはもうない。今は湿気で汗だくになるのが凄いイヤだ。

「あ~、ぺたぺた何とかしてぇ!」

 手から腕がしっとりしてノートや教科書が張り付く。ついでにノートの文字が手や腕に写って跡がつくのがもっとイヤだ。


 ついに今日から期末試験の勉強を始めました。でも、中間試験の時の優しい御厨先輩はいません。先輩は三年生で内申点を確保するために勉強が忙しいそうです。やっぱり三年生になると真面目に頑張るものなのかな?

「…らしくないわ。ミクリンたら。」

 アタシに勉強を教えてくれている吉野先輩が言う。

「しかも、佐藤さんまでいないなんて、どういうことかな?」

 いや、アタシを睨まれても困る。アタシだってあの二人がどういうことになっているのか聞きたいのだ。

「…さぁ?」

 夏子は教習所に通っている。なる早で免許を取るために期末試験直前まで教習所に通うつもりらしい。そのため、アタシの勉強を教えてくれるのは吉野先輩しかいないのだった。


「そう言えば、足とか大丈夫なの?」

 吉野先輩はニヤニヤしている。アタシがバイクで転びかけて膝小僧を擦りむいたことはご存じの通りだ。でもね、あろう事か筋肉痛になるなんて!おかげでへんな歩き方になって笑われるし、階段で脚が上がらなくて転びそうになるし、散々な目に遭ってしまった。

「…まぁ、ハイ…。」

 そんなワケでアタシは大人しく勉強に励むことにしたのだった。


 たたたたたっ…たたたたらたたたっ。

 吉野先輩のタイピングの音が静かに響く。先輩は試験勉強はとっくに終わって、研究室のレポートを書いているらしい。

「…先輩、ここはこれで合ってますかね?」

 アタシが分からないところを質問すると、目だけチロリと動かしているが、タイピングする手は止まらない。

「うん、いいよ。でも、その問題はもっといい解き方があって…」

 口で話しながら、手は別の文を綴っている。この人の頭はどうなっているんだろう。


 下校時刻の音楽放送が校舎に流れ始めた。日が長くなったのでまだまだ明るいが、もう帰らなければならない。

「先輩ありがとうございました。」

 アタシは素直に頭を下げた。

「今日のところは絶対出題されるから、帰ったらよくおさらいしておくといいよ。」

 こういうところはいい人なんだけどな。御厨先輩が絡むとなんであんなにおかしくなってしまうんだろう?

「明日は鈴木さんが専門教科を教えてくれることになってますから、先輩はレポート書いていて下さい。」

「あ、そう?でもレポートも、もう終わるしな…。」


 あんな片手間でもう出来上がっちゃうんですか?先輩は少し思案するようだったが、何か思いついたようだ。

「ふふん、じゃあちょっとアプリでも作ろうかな?」

 電脳系でこの人に出来ないことは多分無いんじゃないかな?

「…どんなの作るんですか?」

 若干イヤな予感がしたが、勇気を出して聞いてみた。吉野先輩はイタズラっぽく微笑む。

「ミクリン追跡アプリ!」


 期末試験が始まった。アタシはやっぱり勉強時間が足りなくて、試験中でも一夜漬けの日々が続いていた。

「ちえりちゃん?お腹空いたでしょ?」

 アタシが珍しく遅くまで机に向かっていると、杏姉が夜食を持ってきてくれた。

「うわぁ!助かるよ!ちょうどなんか食べたいと思ってたんだー。」

 杏姉の持ってきたお盆には、冷やし中華とアタシの大好物のピータン豆腐が乗っていた。

 おお…。マジ、天使が現れたよ。

「ありがと!そろそろ冷たいものが嬉しい季節だよね。いっただっきまぁす!」

 アタシは早速冷やし中華をつるつると食し始めた。ピータン豆腐も美味しい!ピータンは匂いがイヤだって人もいるけど、アタシはパクチーより全然イイと思う。パクチーを食べると、アゲハ蝶の幼虫(あの緑のモスラの幼虫みたいの。)が怒って出した黄色い角(?)を思い出すのだ。


 杏姉はアタシが黙々と食べている様子を面白そうに見ている。

「ん?、何か付いてる?」

「ん~ん、ちえりちゃん頑張ってるなって思って。」

 そんなに言われるほど、アタシは頑張ってない。杏姉の方がよほど頑張って母さんと一緒にお店を支えている。息つく暇も無く働いて、彼氏を作るヒマも無い。ん?昔はいたような気もする。杏姉可愛いからね。


「ちえりちゃんは彼氏とかいないの?」

 ぐっ!アタシの考えを見透かすような鋭い問いに、アタシは中華麺を喉に詰まらせそうになった。

「いないの?気になる先輩とか?…ちえりちゃん?大丈夫?」

 結局、麺を喉に詰まらすことになってしまった。杏姉がくれた水で、詰まった麺を無理矢理飲み込んで、なんとか事無きを得た!冷やし中華で窒息死という、アホな死に様を晒さずに済んで本当によかった。


「いいな、私にもいい人何処にいないかな。ねぇ、かっこいい先生とか、先輩とかいたら、ラーメン食べに連れて来てよ。サービスするからさ!」

 ミクリンは連れて来ないようにしようと思った。先生達はオッサンばっかりだからなぁ。あ、天崎先生は悪くないかな?でも、夏子の想い人だからな…。アレ?

「お、ちえりちゃん、完食したね!」

「…うん?あぁ!ありがと、杏姉!」

 夏子って天崎先生のことはもういいのかな?

 いや、今は目前の期末試験だ。ゲスい詮索は終わった後にしよう。


#朝稽古

 

 アタシは久しぶりに合気道の道場に来ていた。前日に師範の先生に道場のカギを受け取り、朝早く来て床の雑巾がけをした。梅雨の明けた夏の朝は気持ちがいい。開け放った窓からは清々しい空気が流れ込んでくる。


 期末試験が終わった昨日、二輪女子会で集まって、夏休みの計画を話し合った。ツーリングに行こうという話になって、次回集まるまでに行きたい場所を考えておくこと、スケジュールを確保しておくことが宿題になった。次回の会合は夏子が免許を取ったらすぐということで、来週くらいになりそうだ。夏子はどうもバイクを決めたらしいが、誰にも教えてくれない。当日のお楽しみだそうです。

 御厨先輩はなんだかニヤニヤしていて挙動不審だった。あまり考えたくないけどまさか夏子のことを考えてるんじゃないよね?


 そんな邪念を今は払って、洗いたての道着と袴に着替え、掃除したての道場できちんと正座して居る。背筋を伸ばして無心で座っていると、感覚が研ぎ澄まされて辺りの気配を感じることが出来る。


「失礼します。」

 伏せていた目を声の方に向けると、今日の稽古に付き合ってくれる、夏子の弟の春男くんが道場に入ってきた。彼は中学生から合気道を始めたので、この道場でも後輩なのだ。

 今日は道場の前で待ち合わせて掃除を手伝ってもらってしまった。二人で掃除をした後、掃除道具の片付けをしに行ってくれたのだ。


 春男くんがアタシを見て立ち止まった。顔がちょっと紅潮しているようだ。走って来ちゃったかな?ゆっくりでもよかったのに。

「それじゃぁ、始めようか。」

 アタシは立ち上がった。


 合気道の稽古は型稽古である。技を掛ける『取り』と、受け身を取る『受け』の役割を受け持って、二人が息をあわせて動くのだ。

 実戦向きではないという指摘もあるが、人の身体がどのように動くのか、どうすると最低限のチカラで倒すことが出来るのか、ということが型稽古をすることで、頭で理解し、身体で覚えることが出来るのだ。


「…綺麗ですね。」

 ひとしきり取りと受けを交代しながら型稽古を続けた後、汗を拭き髪を結び直して、窓からの風で涼みながら道場に佇むアタシを眺めて、春男くんがポツリと言った。

 アタシはよく聞こえなかった。

「ん?なに?」

 春男くんはしまったという顔をして、首に掛けていたタオルで顔をふきはじめた。

「…いや、その、か、型が綺麗だなってことです。晴海さんはスタ…いや姿勢もいいし、かっこいいです。」


 ふむふむ、可愛い後輩に褒められるとは嬉しい限りだね。

「ありがと。夏子は今日は教習所?」

 春男くんは夏子のことを聞かれると、少しムッとして言った。

「姉貴の好みをとやかく言いたくはないんですけど、この間来た男は気に入らないですね。」

 なんですって?夏子が男を家に連れて行った?春男くんの勘違いで先生の家庭訪問とかじゃないかな?

「…先生とか…じゃあないの?」

 春男くんは首を横に振る。アタシはイヤな予感がしてへんな汗が出てきた。

「あんなボカロキャラみたいな名字の男は嫌いです。姉貴は騙されてるんです。リビングで話しているのをたまたま聞いちゃったんですけど、ウチの父は『いいやつじゃないか。大事にしろよ。』なんて言うんですよ?…あれ?先輩?大丈夫ですか?」


#夏子の免許


 それからのアタシの日々は酷いものだった。日課にした朝稽古は身が入らず、後から来た師範の先生にダメ出しされるし、バイトでは吉野先輩の厳しい指導が雨あられだ。夏子は相変わらずアタシを避けていたし、御厨先輩なんて連絡するのも怖い。世間の梅雨は明けたみたいだけど、アタシの心は涙でずぶ濡れです。


 でも今日は夏子の免許とバイクのお披露目だ。昨日の夜連絡が来た。夏子は盛んに謝っていた。今日全部話すから、絶対来てねと言われては、それが夏子と御厨先輩の結婚の話だとしても、アタシは話を聞かなきゃいけないじゃない?まさか!もしかして!出来婚?だったら秘密にしなきゃいけなかったのも頷ける。夏子!アンタって娘は…。


 って、そんな大事な話をバイク用品店の駐車場で待ち合わせてするはずはないよね。国道沿いのバイク用品店はまだ朝早いのに、結構賑わっている。座れる椅子もいくつかあって、座っていた夏子がアタシに手を振っている。アタシは駐車場に夏子のバイクを探すが、どれがそうなのか分からなかった。あ、御厨先輩のゼファーがある。とか、思いながら夏子の隣りに座った。


「あれ?御厨先輩は?もう来てるんじゃないの?」

 アタシは少しビクビクしながら、辺りを見回した。

「もうすぐ来ると思うよ。吉野先輩も一緒に来るって。」

 え?そうなの?

「あれ?でもさ、あのゼファー…。」

「あ、来たよ!」


 夏子が指差す方を見ると、御厨先輩がひと回り大きなネイキッドに乗って、駐車場に入って来た。タンデムには吉野先輩を乗せている。

「え…と?」

 アタシは夏子に促されて御厨先輩のバイクのところに行った。アタシはバイクを見てびっくりした。

「これはペケジェーアール1300じゃあないですか。いつ大型免許なんか…!えぇぇ!」

「へへ、いいだろ。昨日納車だったんだよ。」


 御厨先輩が得意そうに言うには、やっぱり大型空冷四気筒は最高で、カワサキも捨て難いけどペケジェーもいいよ、だって。アタシだったら、CBがいいけど。って?アタシの頭の中でパズルが組み上がり始めた。

「夏子?夏子のバイクって?」


 夏子が嬉しそうに見せてくれたのはゼファーだった。

「そう!御厨先輩のだよ。この間名義変更の手続きしたんだ。」

「じゃあ夏子の家に御厨先輩が行ったのって…?」

「父さんが名義人になるから書類を書いてもらって、バイクも見てもらったの。って、なんで先輩がウチに来たこと知ってるの?…ははん、春坊だな。」

 ていうことは、夏子のお父さんの言葉はバイクの話だったんだ!『いいバイクじゃないか。大事にしろよ。』ってことね。


「なんでアタシに話してくれなかったの?ひどいよ夏子!」

 夏子はすまなそうにごめんねと言うと、御厨先輩をじとっと睨んだ。

「ひどいのはあの人だよ。私に口止めしたんだ。ちえりや吉野先輩に絶対話すな、って。」

 御厨先輩はバイクを停めて吉野先輩を降ろしていたが、吉野先輩はご機嫌ナナメで御厨先輩にブー垂れていた。ペケジェーは中古のようだけど綺麗にしてあるしタイヤは新品だ。

「なんで私に一言も無いの?こんなでっかいのじゃ、ベスパでついていけないじゃない!」

「だから言えなかったんじゃないか。一緒に走る時はゼファーの時も合わせてやっただろ?」


 夏子が教習所に通い始めたら、御厨先輩も大型免許取得のため極秘で教習所に通っていたところにばったり会ってしまったらしい。ゼファーを手放すと聞いた夏子が、カワサキだしいいバイクだからと父親に相談したら二つ返事でOKが出たそうだ。この間見た二人のタンデムは、たまたま現車を見せに夏子の家に行った時のことみたい。

「あれ?御厨先輩の誕生日って?」

 話を聞いていた吉野先輩が六月だよって教えてくれた。しまった。何かあげればよかったかな。

「吉野先輩はなんかプレゼントしたんですか?」

 何気なく聞いてしまった。

「…アレ、キーホルダー。」

 御厨先輩のバイクのキーに可愛いマスコットが付いていた。


「それじゃぁ、みんな揃ったところで、ツーリングの行き先でも決めますか?」

 一応、部長の御厨先輩が音頭を取ろうとするが、誰も言うことを聞かない。

「部長!そんなことより、バイク用品夏物セールですよ。アタシはこの日のために血のにじむようなバイトをして来たんです。」

 そうだそうだと、吉野先輩も共同戦線を張った。

「私も部長のせいでちえりと話しができなかったんですからね。」

 夏子も加わると御厨先輩もタジタジで引き下がるしか無かった。

「分かった。じゃあオレは新しいタイヤの皮むきしにその辺を流してくるから、適当にやっててくれ。」

 御厨先輩はすごすごとペケジェイの方に戻っていった。

「よし、邪魔者はいなくなった。行こう!アタシ達の戦場へ!」


 バイク用品で盛り上がる女子高生も珍しいかもしれない。そうして意気揚々と店の中に入ろうとしていたアタシ達の背後でけたたましい騒音が沸き返った。

 オンッ!ボォ~ンッ!キュキュキュキュッ…ガッシャンッ!

 振り返ると御厨先輩のペケジェーが駐車場の出口でひっくり返っていた。恐らく新品のタイヤが滑ってコケてしまったのだろう。アタシ達を変にヤキモキさせた報いじゃないだろうか。可哀想に。御厨先輩自身は大したことも無さそうで、ガバッと跳ね起きると傷ついた新しい愛車を引き起こしにかかっていた。


「まったくしょうがないな。」

 吉野先輩もため息をつきながら、御厨先輩のところに歩いて行った。ちょうどいい。夏子に聞きたいことが残っている。

「そういえばさ、アタシは諦めた方がいいっていうのはなんだったの?」

「あー、それはね。後で話すよ。でも手短に言うとミクリンとミカリンの二人は両片想いってこと。」

 ビビィーッ!プァーンッ!御厨先輩の転倒で国道を走るクルマやトラックが盛んにクラクションを鳴らしている。

「まったくしょうがないな。」

 アタシは夏子の言葉を聞かなかった火のように背を向けると、先輩達を手伝いに走っていった。


#バーゲンセール


 バーゲン♪バーゲン♪夏物最大半額セールゥ~♪


 女子のサイフを狙ったイベントの季節がやって来ました!まぁ、バイク用品店はむさい男物ばっかりだけど、最近はレディースコーナーも出来て、品揃えもだいぶマシになってるよね。


 今日は、中古とはいえ真新しいバイクをコカシてしまった可哀想な先輩のことは気にしないで、バイク用品店で買物です。

 膝すりツーリングパンツは欲しいけど、やっぱり公道で飛ばすのは怖いし、レーシングスーツを買うまで我慢することにしました。夏用ジャケット、夏用グローブ、でも転んだ時も考えて、プロテクターインナーと膝プロテクターは買っておくことに。二輪男子部のジムカーナバトルでもらった割引券が活躍したおかげで随分と節約できたよ。嬉しいな。


 レーシングスーツを買う時には、今の装備品では力不足なので、フルフェイスのヘルメット、プロテクタの付いたレーシングブーツ、革製のレーシンググローブもセットで必要なのだ。この夏はバイトでお金をためて、一刻も早くスーツと一緒に買いたいな。


 バイク用品店で夏物のウェアを揃えた後で、ツーリングの相談。御厨先輩がコケたバイクの修理で財布が寂しくなっている。最初は泊まりも考えていたけど、残念(本っ当に!)ながら、日帰りになってしまった。御厨先輩と熱い一夜が過ごせるかもしれなかったのに。惜しいことをした。


 日帰りでも折角だから海にしよう。どうせなら綺麗なところがいい。結果、伊豆白浜に決定。じゃじゃん!天崎先生の実家が伊豆だというウワサなので、聞いてみたら近々休みを取って里帰りするらしい。アタシ達もそれに合わせて日程も決まった。夏子は何か妄想したのか、ニヤニヤし始め、ジュルルとヨダレまで垂らしている。こらこら、いい加減にしなさい!


 というワケで水着も買いに行きましたぁ。バイクを修理している御厨先輩は置き去りにして、吉野先輩のベスパを取りに行ってね。夏子のバイク習熟も兼ねて、近場のショッピングモールに出かけました。色々試着して楽しく悩んだ結果…!まぁ、どんな水着かは海へ着いてからのお楽しみ!


#夏・ツーリング・海へ


 お盆過ぎはクラゲが出るから、その前に海へ!天崎先生の里帰りとタイミングが合って本当に良かった。

 今回は海がメインでツーリングは手段。伊豆の白浜が目的地。水着や遊び道具はバックパックに詰め込んで出掛けます。


 待ち合わせはいつも通り朝早くファーストフードの駐車場。今回は天崎先生が高速道路じゃないと一緒に行かないと駄々をコネたので、東名のインターにほど近い立地のところ。

 やって来た天崎先生はハヤブサに乗っていた。

「やっぱり自分の名前と被ると嬉しいだろう。名前を書く必要もないし…。アハハ…。」

 だって…。あれ?天崎先生ってこんなキャラだったかな?バイクに乗ると性格変わるってベタな設定なのか?メガネも外して、バイクに乗る時はコンタクトなんだって。別人か?


 早速、高速に乗り、まずは厚木まで。料金所の一般出入口で通行券を取り現金を払うアタシと御厨先輩以外は、ETCという文明の利器を装備している。社会人の先生はともかく、吉野先輩と夏子はどういうことなんだ!

「親が勝手に付けちゃったの。その方が安いんだよ?」

「そうそう、お得な感じ。」

 甘い!甘いよ、アンタ達の親は!


 厚木からは小田原厚木道路で小田原方面へ。平塚インターまでは平らな道で周りも平らな土地が広がっている。平塚インターを過ぎると、アップダウンの連続する山の中に入るが、カーブが急になることは無くスピードを落とすことはない。


 平塚料金所を過ぎてしばらくいくと、もともと吉野先輩のベスパに合わせてそれなりにのんびり走っていたのだが、先頭を走っていたハヤブサの天崎先生がチラチラとミラーを気にし始めた。そのうちに徐々に減速してきっちり制限速度で走り始めた。

 アタシ達の後ろにはいつの間にか国産車のセダンがピタリと追走しているが、その後ろが徐々に詰まり始めている。やがて痺れを切らした高級外車が追い越し車線から唸りを上げて抜いて行った。その途端、後ろにいたセダンが追い越し車線に出るとものすごい勢いで外車を追走し始めた。いつの間に出したのか、屋根の上からは赤い回転灯がピカピカと光っている。

 ウウ~、ウウ~~ッ!

 なんとセダンは覆面パトカーだった。天崎先生なんで分かったの?

 しばらく行くと路側帯に止められた外車にお巡りさんが切符を切っていた。危ない危ない。天崎先生ありがとうございました。


 道は小田原西で箱根方面に向かい、箱根口のインターを過ぎて箱根新道へ。この先は急坂、七曲りの山道です。坂の途中でエンジンがオーバーヒートして、白い煙を上げて止まっているトラックがいる。かと思うと、冬場にはチェーン脱着場所になる広場に白バイがスタンバっていて、目の前の登坂車線でスピード違反するバイクやクルマを取り締まっている。お役目ご苦労様です。


 七曲りはまあまあ楽しめるけど、ベスパの吉野先輩はちょっとお疲れです。

『登り坂しんどいよう。疲れたよう。』

 例によってインカムではブツブツ言う吉野先輩のボヤキが聞こえてきた。

『ミカリン、少し先の十国峠で休憩だ。もうちょっと頑張れ。』

 御厨先輩がなだめすかして何とか箱根峠まで登って来たものの…。

『…ねえ、交差点の向こうが見えないんですけど。』

 箱根峠名物の濃霧が発生。箱根新道の途中から霧が出始めて、イヤな予感はしたんだ。


 視界の悪い箱根峠を左に入って伊豆スカイライン方面へ。ここから熱海峠までは以外といいくねくね道で、普段は景色も悪くないのだが…。しばらく霧は濃くなるばかり。対向車もライトを点灯して走ってくるが、くねくねしている分近くに来るまで分からない。十国峠に着いた時は正直ホッとした。


 まだ朝早いため残念ながらケーブルカーも売店もやっていない。広い駐車場はガラガラだ。天気が良ければ景色もいいんだけどと、天崎先生も残念そうだ。夏子は天崎先生がいれば十分楽しいですとか言い出したが、先生は苦笑していた。

 アタシはバックパックからペットボトルを取り出して喉を潤した。朝だし山の上だからまだ涼しいけど、夏場のバイクは水分補給が重要です。

「少し晴れてきたね。」

 幸いなことに霧が薄くなって、時折日光が差すようになってきた。ミカリンも元気を回復したようです。

 さあ、出発だ。


 熱海峠の料金所はETCはご利用いただけません。ニコニコ現金前払いです。天崎先生は財布を出すのもしまうのにもなんだか手間取っていた。しばらくするとアタシの番だ。


「行き先は?」

 料金所のおじさんが何処まで行くのか尋ねる。

「終点までお願いします。」

「天城高原ね。料金は…」

 料金を払うと通行券をくれる。

「出口で必要だから無くさないでくださいね。」


 アタシは通行券をポーチにしまうと、後ろの連中を待ってバイクを左に寄せた。ようやくみんなが揃うと伊豆スカイラインのスタートだ。


 道を進んでゆくと霧が晴れてきた。尾根伝いの道は適度なワインディングロードにアップダウンがあって、ライディングも楽しいのだが、何より景色がいい!左手には海の向こうに大島が見えるし、右手には西伊豆の山が連なるのが綺麗。

『天気が良ければ後ろに富士山が見えるんだけどね。』

 天崎先生がインカムで教えてくれる。今日はまだ雲がかかっているかも。

 途中でハングライダーが飛び立つ場所があって、朝の風に乗って飛び立つ人達が空を漂っていた。気持ちよさそう。優雅だね!


 尾根伝いの道はやがて山を下り、谷にそった山あいの道に変わってゆく。田畑がひろがり、茶屋があったりして景色も変わるが楽しいワインディングはしばらく続く。

 冷川のインターを過ぎ、最後のくねくね道。とうとう終点の天城高原料金所だ。アタシと吉野先輩は先に料金所を通過して待っていたが、またもや天崎先生がもたついてる。どういうワケか通行券が見つからないらしい。


「まったく、困ったオッサンだ。」

 吉野先輩がばっさり言った。

「晴海!先に行こう。アッチはでっかいバイクだし。スグに追いつくでしょ?」

 え?大丈夫かな?アタシ、道知らないよ?吉野先輩がインカムで先に行くと言ったけど、天崎先生はワタワタしていて、あぁとかそうとか生返事。ミクリンと夏子は聞いているのか、いないのか?


「行こ!」

 プルルルンッ!吉野先輩は先に行ってしまった。アタシも慌ててついて行く。


 早速の分かれ道が目の前に。後ろを振り返ると料金所が見える。まだもたついてる。左に行くと伊豆高原、右に行くと天城高原。さてどっち?

「え?ちょっと!」

 吉野先輩は迷わず右に行く。アタシもついついついて行く。

『ホントにこっちで良かったんですか~?』

『大丈夫だって!私を信じなさい!』

 え~。怪しい。


 やがて道は登って細くなっていく。周囲の森も深くなっていくようで、吉野先輩も自信がなくなってきたのか、スピードが落ち始めた。そこへ…。

『あ!危ない!』

 吉野先輩が急ブレーキを掛けた!そこへ飛び出してきたのは?

『…鹿?』

 一匹の子鹿が道路を渡ろうと出てきたのだ!危うく鹿にぶつかるところで、ドキドキしているアタシ達を不思議そうに眺めながら、子鹿は悠々と道路を横断して行く。


「危なかったぁ。…あ、見て、晴海!あんな所にもいる。」

 吉野先輩の指差した森の中から、数頭の鹿の群れがやって来て、道路を渡ってゆく。子鹿に合流すると反対側の森の奥に消えた。

「ねえ、可愛いかったね!思ったより大きかったけど。」

 二人して、ああカメラで撮っておけばよかったとか盛り上がっていると、吉野先輩のスマホに着信音。

「ああ、ミクリン?…うん?右は間違い?…え?…あ、ハイ…ゴメン。戻ります。」

 なんだ…やってしまったか、ミカリン。

「…晴海。戻るぞ。」

 え?それだけ?アタシはちょっとフクれたけど、鹿も見れたし、まぁいっか?


 アタシ達は戻って来ると、三人と分かれ道のところで合流した。インカムではミカリンと天崎先生がなんだか言い合っていたが、ようやく双方とも気が済んだのか、お互いに謝って和解したようだ。

 目的地の白浜はまだ先だ。お椀を伏せた様な大室山を左手に見ながら、国道135号に向かう。天崎先生が、大室山のすり鉢の中でアーチェリーをしたことがあるらしい。今は、やっているのかな?


 突き当たりの国道135沿いに公園があった。例によって吉野先輩が寄ってみたくてグズり出すが、まだ開店前ということで近くのコンビニで休憩。

「この辺て不思議な博物館が多くない?」

 …ですね。なんでか、伊豆高原近辺は国道沿いにもあるし、案内看板もその手のモノが目に付く。別荘地もあるみたいだし、ヒマな人が見に来るのかな?


 もう一時間も走れば目的地に到着する。頑張って行こう。

 伊豆と言えばやはり温泉ですね。135沿いには日帰り温泉も温泉宿もたくさん出てくる。そのうち温泉に浸かってのんびりしたいね。


 海辺を走ったり、岬を回ったり、アップダウン、ちょっとくねくね道もある。気が付くと断崖絶壁の上を走っていたり、海水浴場のすぐ脇を走っていたり、変化に富んで楽しい。

 ふと山の上を見ると発電用の風車がいくつか立っている。海辺の切り立った山の上にそんなモノがあるなんて、なんだか秘密基地があるっぽい。小さい頃に魔女アニメと共に放送していた特撮ヒーローみたいだ。ちょっとワクワクする。


#砂浜


『見えたぞ。白浜だ。』

 天崎先生がインカムで教えてくれた。いつの間にか駆け上っていた断崖絶壁の道の上から、確かに白い砂浜海岸が見えた。

『いいね、いいね。テンション上がる!』

 坂道を下り、くねくね道を進むと砂浜の広がる海岸線を走っていた。リゾートホテルもあって、いい感じです。


 駐車場にバイクを止めて、事前に調べておいた更衣室でお着替えです。残念ですが、着替えのシーンは割愛させていただきます。

 お待たせしました。海辺の戦闘服、水着紹介です。


 エントリーナンバー1、女格闘家ちえり!レモンイエローのショーパンと、ピンクのサクランボ柄バンドゥビキニ(透明肩紐付き)で、スリムで躍動感溢れるイメージが倍増しです。

 アイテムとしてピンクの水中メガネとシュノーケルを追加して、男の子より水遊びが好きなイタズラっ子そのものです。


 エントリーナンバー2、爆発のオンナ夏子!制服の上からは想像のつかないメリハリのあるボディを黒のスカートと一体のAラインワンピースで包み、落ち着いた大人フェミニンな装いです。サングラスとつば広のストローハットが、いいオンナを演出しています。

 しかし何故か手には砂遊び用シャベルとバケツのセット(恐らく百均の)を持っているのですが…。この辺のギャップがマニアックな男心をくすぐるのでしょうか。


 エントリーナンバー3、電脳ガール、ミカリン!ボリュームのある胸をオレンジ柄のホルターネックビキニに収め、透け感のあるグリーンの短いパレオで、エロカワな雰囲気を匂わせています。

 黄色い大きな浮き輪がアクセント。泳げないというウワサもある彼女ですが、健闘を期待しましょう。


 エントリーナンバー4、わりと真面目なイケメンライダーミクリン!水色のボクサーパンツで至って普通です。筋肉質ではありませんが、引き締まったボディと長身がモテ男のオーラを漂わせています。

 思ったより色白の肌は日焼けに弱いのか、白のラッシュガードを羽織り、白いキャップをかぶっています。


 エントリーナンバー5、クールな顧問天崎先生!落ち着いたグリーンの半ズボンタイプに、生成りの地にヤシ柄のアロハシャツ、麦わら帽子と濃いサングラス、夏休み期間で伸ばし始めたヒゲが、いつもとは違うワイルドな雰囲気を醸し出しています。

 今日は引率の先生というよりは、若いオンナ達をはべらすヤンチャなお兄さんな感じです。ミクリンは舎弟かパシリ?みたいな、怪しい御一行様です。


「みんな!日焼け止めは塗ったか?」

「おー!」

 いつの間にやら天崎先生が音頭を取って、とにかく最初は泳ごうということになった。貴重品はロッカーに預けてしまったので、みんなで海に駆け出した。

 アタシ達は足がつくくらいのところで泳ぎ始めた。吉野先輩は大きな浮き輪を付けてプカプカ浮いてる。御厨先輩とアタシは浮き輪につかまりながら泳いでいる。夏子も先生と一緒で楽しそう。


 外海に面しているからか、たまに高い波がくる。特に沖合を船舶が通ってしばらくするとザッパンザッパンと大きな波が打ち寄せる。折しもタンカーの通過に伴う大波がうねうねと押し寄せてきた。

 海面がぐう~っと上り、さぁ~っと下がる。立っているアタシ達は、海面が上がるとジャンプしないと、アタマまで水に浸かる。御厨先輩はジャンプするタイミングを外し、どっぷり水に沈んでしまった。

「きゃあきゃあ!ミクリン!」

 浮き輪の吉野先輩はプカプカ浮いていたが、上がって下がる度に岸の方に運ばれていく。やがて、波打ち際に近くなり、どっぽ~ん!吉野先輩を運んでいた波が崩れ、浮き輪ごとひっくり返った。

「プパーッ!」

 一度は沈んだものの、波打ち際だ。足をついて立ち上がった。御厨先輩も何とか泳いで帰ってきた。夏子と先生はまだ波を楽しんでいる。


「はあ、やられた。疲れたぁ。」

「大丈夫ですか?」

 アタシと吉野先輩はパラソルに戻ってきた。吉野先輩はバックパックからタオルを取り出すと、ちょっと休むと言って座り込んだ。

「大丈夫だよ。晴海は泳いでおいで。」

「じゃあ、行ってきます。」


 アタシが水中メガネとシュノーケルを持って海へ向かうと、御厨先輩が波打ち際に座っていた。

「お?いいもの持ってるな。」

「貸しませんよ。女の子用ですから。」

「それは残念。…待った、一緒にいくよ。」

 そのまま夏子達の方に行こうとしたアタシを、御厨先輩は立ち上がって追いかけてきた。波打ち際から波の砕ける向こうに出ると、さっきまでのうねりがウソのように、ゆったりとした海になっていた。


 アタシはメガネとシュノーケルをつけると、海面に浮きながら海の中を覗きこんだ。砂が白いからか、透明度が高いのか、海の中が明るくみえる。夏の強い日差しを受けて小さな魚の群れがキラキラと光っている。海面から差し込む陽の光はカーテンのように波のヒダが揺れて綺麗。アタシはしばらく水中の景色に見とれて浮いていた。

 お?近くに立っている男性の脚が見える。この水色の水着は御厨先輩だ。

「プハーッ。」


 立ち上がって顔を上げると、御厨先輩が興味津々で立っている。

「どんな感じ?」

「使います?」

 アタシは水中メガネを外して御厨先輩に差し出した。シュノーケルは…ちょっとねえ?

「いいの?サンキュ!」

 御厨先輩は早速メガネをつけ、ザブンと海に潜った。水中を泳ぐ先輩は楽しそう。何度か息継ぎをして泳いだ後、十分堪能したのか、ありがとうと水中メガネを返してくれた。どういたしまして。


 しばらく水中メガネで遊んでいたら、お腹が空いてきた。

「先輩、そろそろお昼にしませんか?」

「そうだな。ちょっと戻ってみるか。」

 パラソルに戻ると夏子と先生もいて、コンビニのおにぎりやサンドイッチを食べている。先生はビール飲んでる?と、思ったらノンアルだって。

「あ、おかえり晴海。コンビニに買出し行ってきたけど。何か食べる?」

 吉野先輩、気が利く!

「ありがとうございます!嬉しい!いただきます!」

 早速、おにぎりにかぶりついた。


「ねえ、先生と何話してたの?」

 アタシは夏子にコソッと聞いてみた。

「別に、なんてことはないよ。フツーの話?」

「えー。聞きたい!」

 夏子はちょっと頬を染めている。

「え~?…マグネシウムの燃焼する光の輝きとか、粉塵爆発における爆発下限濃度と爆発条件とか?すごく楽しいよ!」

 むう、そうですね。化学オタクに聞いたアタシがバカだった。


#ビーチの勝負


 おなかが一杯になると、アタシと夏子はさっきから近くにあるビーチバレーのコートが気になって仕方がない。

「アレ使っていいのかな?」

「ボールはどうするの?」

「ビーチボール持ってきたよ。」

「行ってみようか。」


 ちょうど誰も使っていないので、アタシと夏子は二人でビーチボールで遊び始めた。

「おい、オレ達も入れてくれ。」

 先輩二人と先生も興味をそそられたのか、コートにやってきた。

「じゃあ、試合します?」

「お?いいねえ。晴海、ちょっと背が高いからっていい気になるなよ。二輪女子会の牛若丸と呼ばれた私に勝てるかな?」

 一番背が低い吉野先輩の鼻息が荒い。ぐーぱーでチームを決めて、早速ゲーム開始だ。


 最初はミカリン&ミクリンVSちえり&夏子!

 吉野先輩のサービスから始まった。

「やあやあ、音にも聞け!我こそは…。」

「口上が長い!」

「ちぇっ。そ~れっ!」

 吉野先輩のヘナチョコサーブを夏子がレシーブ。熟練したボール捌きで絶妙な高さに上げると、アタシはジャンプ一番、右腕をムチのようにしならせ、思いっきりアタック!

 バフッ!


 アタシの打ったボールは御厨先輩に命中!ビーチボールだから、怪我することはないと思うが、顔面で受けるとけっこう痛い。

「ちえり、ナイスアタック!」

 そう、アタシと夏子は中学時代にバレー部だったのだ。アタシがアタッカーで夏子がセッター。絶妙なコンビネーションである。

「ひえ~、痛そ…。」

 吉野先輩はアタシのアタックから逃げ回り、果敢にもレシーブを試みる御厨先輩の腕は真っ赤になって、試合はアタシ達バリボーペアの完勝。


「強いな。しかし、男子ペアに勝てるかな?」

 審判をしていた天崎先生の闘志に火が付いたみたいだ。

 試合が始まると、男子ペアはアタシのアタックから逃げることなく、健気にボールを拾っていたが、攻守にバランスの取れたバリボーペアには敵わなかった。


「お前ら、分かれろ!つまらん!」

 御厨先輩の一言でバリボーペアは解散、ミックスペアの結成となった。ペアはやはりぐーぱーで、ミクリン&夏子VS先生&アタシ。夏子とアタシはパートナーが逆だったらよかったのにと微妙に残念だが、戦力的には拮抗するのかな。


 さて、試合は果たして一進一退の息詰まる攻防となった。アタシのアタックを夏子が止めると御厨先輩がヘナチョコアタック!天崎先生のレシーブが乱れてもアタシがとにかく相手に返す。


 男子のミスを女子がカバーするという、情けないというか、アタシ達が凛々しいというしかない。微妙な熱戦にギャラリーも賑わってきた。

「姉ちゃんかっこいいぞ!」

「イケメンくんしっかりして!」

 観客の声援に、アタシ達の戦いはヒートアップ!全員本気モードで持てるチカラをボールにぶつけた!試合は平行線のまま終盤へ。


 平行カウントで迎えた夏子のサービス。天崎先生が頑張っていい感じでレシーブし、ネット前に上がると待ってましたとばかりにアタシはアタック!

 バシッ!

 ボールは夏子がタッチしたものの、無情にもコートの外へ。

「よっしゃー!」

 乙女の恥じらいはどこへやら。アタシは吠えていた!燃えていた!


 アタシのサービス。このポイントを取ればアタシ&先生ペアの勝ちだ。夏子には悪いけど勝たせてもらうよ。

 ボムッ!

 アタシのサービスは狙い通り御厨先輩の方へ。

 バンッ!

 しかし御厨先輩はさすがに慣れてきた。アタシのサービスを絶妙な高さに上げる。


 やばい!夏子が来る!

 夏子が飛び上がり、強烈なアタックを天崎先生目掛けて放つ!

 パフッ。

 かと思いきや、夏子の目に恐怖に歪んだ先生の顔が映りでもしたのか、アタックではなくフェイントで、ボールは空いているコートに吸い込まれ…。


 ズザァッ!

 天崎先生が横っ飛び!スライディングレシーブでボールを上げた。


「ナイス、先生!」

 アタシはボールに向けて走る!

「もらったぁ!」

 ギリギリの高さに上がったボールにアタシは食らいつく!飛ぶ!

「うぉぉぉっ!」

 唸りを上げて繰り出す腕が渾身の力を込めた一撃を放つ!

 バァァァーン!


「いやぁ、凄い試合だったな。」

「まさに手に汗握るいい試合でしたね。」

「最後が凄かったよね!」

「まさかの幕切れだよね?」

「結局どっちの勝ちなの?」

「落ちたのが自分のコートだから引き分けだろう。」

「試合続行出来ないしね。」

「まさか割れちゃうなんてね?」

「凄かったよね!『うおー』って!」

「怪力だよね。怪力女!」


 勝手に言ってくれ!無責任なギャラリーの言葉はアタシの心をズタズタに引き裂いていた。

 最後のプレイ、振り下ろした腕は、強烈なチカラをボールに伝えた。

 ボールは耐え切れず破裂。破片はアタシチームのコートに落ちた。

「まぁ、百均のボールだしさ、あんだけ遊んであげたらボール冥利に尽きるよ。」

 夏子は慰めてくれてるのか、単にボールにお悔やみを言っているのか、よく分からない。

「怪力だって…。」

「ぷぷぷ…。」

 天崎先生と御厨先輩は酷い。アタシが傷付いているというのに、アタシを笑いものにしている。


「アレ?吉野先輩は?」

 そう言えば、審判をやっていたはずだが、最後の試合はなぜかギャラリーの人が審判をしていた。パラソルに戻ってきたが、吉野先輩の姿は無い。浮き輪はあるから、海に入ってはいないだろう。

「ん~?私の砂遊びセットが無いなあ。」

 夏子が持ってきたシャベルと小さなバケツが無い。吉野先輩が持って行ったのかな?


「オレ、ちょっと探してくる。」

 御厨先輩が海の方へ駆け出した。アタシも行こうとすると、夏子が手を取って引き止めた。

「ちえり、そっとしておきなよ、二人のことは。」

 夏子の話によると春休み前に御厨先輩は吉野先輩に告白したらしいが、吉野先輩は断ってしまったそうなのだ。奥多摩ツーリングでの内緒話で聞いたことのひとつだそうだ。


 アタシは夏子の手を振り払っていた。

「イヤよ!アタシも好きなんだもん!」

 え?そうなのか。思いがけない自分の言葉にアタシの方が驚いた。アタシ、御厨先輩が好きなんだ?

「ゴメン、夏子。」

 心配そうな顔になった夏子に謝ると、アタシは御厨先輩の後を追いかけ、走り始めた。

「行ってくるね。」


 波打ち際に吉野先輩が砂の城を作っていた。周りを城壁で囲って、波で城が崩れないように守っている。御厨先輩は横にしゃがんで吉野先輩になにか話しかけていた。御厨先輩はアタシに気づくと、こっちの方を指差して、吉野先輩に誰かが来た事を知らせた。吉野先輩はこちらを振り返ると、ニッコリして手を振った。アタシはゆっくりと二人に近づいて行った。


「お邪魔しちゃいましたかねぇ。」

「そんなことないよ。ゴメンね、晴海。心配させたよね。…ちょっとスネちゃった。」

 吉野先輩がバツが悪そうに言った。珍しく素直だ。御厨先輩は沖合いの船でも見るようだが、きっと耳はダンボになっているに違いない。アタシは御厨先輩とは反対側にしゃがんだ。

「アタシも試合に夢中になって先輩の様子に気がつかなかったんです。ごめんなさい。」


 寄せる波は少しづつ城壁を壊して、やがて城にまで到達した。アタシも吉野先輩もその様子をじっと見守っていた。

「さてと。」

 御厨先輩が立ち上がった。

「そろそろ帰ろうか。疲れ切る前に出発しないと、帰り道もあるんだからな。」

 そう言うと御厨先輩はパラソルに戻るべく歩き始めた。


 吉野先輩も立ち上がると、身体についた砂を払った。

「よし行こう、晴海。」

 吉野先輩はアタシに手を差し伸べる。

 アタシはその手を取らなかった。一人で立ち上がり、吉野先輩の目をじっと見た。

「勝負です、先輩。」

 吉野先輩はハッと息を呑んだ。何の勝負か分かったようだ。

「先輩、御厨先輩から逃げないでくださいね。アタシも追いかけますから。」

 吉野先輩はアタシを見返すと、ニヤリと笑った。

「逃げないよ。今度はね。」


#帰路


 まだまだお日様は高いけど、帰り着くまでがツーリングです。無事におうちに着くために、早めに遊びは切り上げます。次はぜひお泊まり会にしよう。なんだか遊び足りないや。

 というわけで、アタシ達はおやつの時間前にシャワーを使って、帰路に着きました。実家に帰る天崎先生はここでお別れです。夏子は泣きそうでした。


 帰り道は来た道を引き返すことにしたけど、国道135号は北へ進むごとに混んできた。行きに寄れなかった公園のショップでお土産を買って、ようやく伊豆スカイラインに乗ると、だいぶスイスイと行けて、途中からは富士山が見えた。行きは濃霧で見えなかったけど、帰り道は綺麗な富士山が見れるなんてラッキーです。熱海峠から箱根峠までが少し混んでいたのだけれども、そこはバイクなので、スルスルとすり抜けてしまいました。


 箱根新道は下り坂をほとんどアクセルを開けることなく、エンジンブレーキをフル活用して下っていった。吉野先輩のベスパはスクーターなのでエンジンブレーキが弱くて、例によってきゃあきゃあ文句を言いながら、坂を駆け下りていた。


 小田原厚木道路も順調に流れていた。大磯のパーキングで一休みして厚木を目指したが、東名高速が大和近辺で事故のため復旧まで通行止めで、横浜町田インターまでは大渋滞で相当混んでいるらしい。アタシ達は東名は使わずに厚木からは246で帰ることにした。


 国道246号は東名渋滞の影響で混んでいたが、ここもやはりスルスルと進む。しかし、さすがに疲れたためか信号待ちで発進する時に、あろう事かエンストしてしまった。NSRはキックスタートなのでキックペダルで始動しなければならないが、久しぶりのエンストに慌ててワタワタしてしまった。

 ビィー!ビビィー!

 後ろにいるクルマがクラクションを鳴らして早く行けと急かす。しょうがないな。とにかくハザードを付けてバイクを左に寄せた。クルマがビュンビュン通るので、キックペダルを出すのがちょっと怖い。


『ちえり、どうしたの?』

 インカムから夏子の心配そうな声がした。

『夏子、ゴメン。エンストしたから、先に行って。すぐ追いつくから。』

『了解。のんびり走ってるよ。先輩達にも言っとく。』


 モタモタしているうちに信号が変わってしまった。クルマが止まったので、とりあえずペダルを出してエンジンをかける。

 ストトト…ビィーン!ビィーン!

 さすがにさっきまで動いていたエンジンは、キック一発で始動した。

 よかった。早く追いつかないとね。アタシはホッとして、スルスルとバイクをクルマの間に進めて行った。


 信号が変わりクルマが動き出す。走行車線のアタシは左折するクルマのために、動き出しが遅かった。すると…。

 先に流れ始めた追い越し車線から、スクーターが追い越して行った。白いローダウンの中型スクーターで、ドレスアップしたのだろう、LEDのイルミネーションを点けて路面を青い光で彩っている。車載のスピーカーからは低音の効いたヒップホップが流れている。今どき、それはそんなに目を引くようなモノではない。普段ならアタシも、ちょっとウルサイなと、眉をひそめるくらいで気にも留めないのだけど、その時はちょっと違ったんだ。


 スクーターのタンデムシートには犬が乗っていた。しかも背もたれがあったり、犬用にお座りしても落ちないようになっているワケでもない。フラットなタンデムシートに犬が四本足で立っていたのだ。凄いな…。


 ビィーン!ビィィィー!。

 なんだか犬が気になるアタシはスピードを上げて後を追った。真後ろを追走していると、犬がどうしてタンデムに乗っていられるのか、分かってきた。


 犬は横向きにタンデムシートに立っているが、運転している飼い主の背中にカラダを預けてぺったりとくっついているのだ。バイクが傾くと飼い主に合わせて一緒に傾く。ブレーキを掛けても飼い主の背中に寄りかかるだけだ。加速する時も恐らく飼い主の背中に強くもたれて離れないようにしているのだろう。飼い主も犬が耐えられないような無茶な加速や運転を控えているようだ。

 犬はそれなりに楽しんでいるのか、尻尾を上げてクルリと巻いている。怖がっている時、犬は尻尾を下げて後ろ足の間に挟むようにするものだ。


 そのうちに行く手の信号が赤になり、アタシはスクーターの後ろで止まった。犬は止まったからといって降りてしまったりはしない。

「おい、すげえな。犬がバイク乗ってるよ!」

 走行車線に止まったアタシの横で、追い越し車線にいる二人乗りのライダーが話している。周りを見ると、クルマの中からスマホで撮っている人もいる。アタシもこんなの初めて見た。お利口さんだな。成犬みたいだけど、サクラもこれくらいになったかな?


 その時、犬が首を巡らせて後ろを見た。白と薄茶色の何となく見覚えのあるような色合いの毛並み。クリっと丸い愛嬌のある目がコチラを見ている。あれ?まさか…。

「サクラ?!」

 アタシはシールドをはね上げて、大きな声で呼んでいた!一瞬びっくりした犬は、明らかにアタシの声に反応した!

「ワン!」

 一声吠えると、バイクを飛び降りてアタシの方に駆けてきた。

「おい、サクラ!」

 飼い主が慌てて呼ぶとその場にピタリと止まって振り返った。やっぱりサクラだったんだ。アタシは泣きそうになった。いや、視界はすでに滲んでいるから、もう泣いてるんだ。


 ビィー!ビビビビィー!

 後ろのクルマが盛大にクラクションを鳴らし始めた。信号が青になったんだ。

「え、待って、ちょっと待ってよ。」

 ボッボッボルルル…。

 アタシがどうしていいか分からずにいると、スクーターが左の歩道に上がって行った。犬も付いて行く。

 ビィーン!ビビビ…。

 動揺していたアタシも、とにかくスクーターに付いて歩道に上がって行った。


 ボッボッボッボッ…カチッ!

 スクーターのライダーがスタンドを出してエンジンを切った。アタシもNSRを降りてエンジンを切った。

 お日様は傾き、夕暮れのオレンジ色が空を染め始めている。

 夕陽に照らし出されたスクーターのライダーはヘルメットを取ってアタシを見た。犬は大人しく、スクーターの前でお座りしている。アタシもヘルメットを取ってライダーを見た。


 ライダーが口を開いた。

「久しぶりだな。…晴海さんだよな?」

 小学生の声しか知らないから、ちょっと低い、初めて聞いた声だった。

「久しぶり、翔…えと…鷹宮くんだっけ?」

 ヘルメットを取った顔は、そう言えば面影がある。背の高さはアタシと同じくらいか?

「翔吾でいいよ。それに今は鷹宮じゃなくて、辰巳っていうんだ。」

 そうなんだ。悪いこと聞いちゃったかな。


「サクラ、久しぶりだろう。撫でてやってくれ。」

「いいの?!ふふっ。」

 アタシは嬉しくて、思わず笑ってしまった。しゃがんで片膝をつき、手を差し伸べる。

「サクラ、カモン!」

「ワン!」

 サクラは立ち上がり、一声吠える。そして「いいの?」と確認するように翔吾を見た。


「GO!」

 短い一言がためらいを断ち切ると、サクラはアタシの腕に飛び込んだ。

「サクラ!サクラ!」

 アタシの顔は涙と、舐めるサクラのヨダレであっという間にベトベトになった。抱きしめると、もう昔のように仔犬のモフモフ感はないが、短い毛並みがサラサラで心地よい。アタシは目の前にいる翔吾のことも忘れて、懐かしい再会の喜びを噛みしめていた。


 第一コーナーに飛び込むと、スタート直後の混乱は一段落して当面の位置取りが見えてくる。思わぬ伏兵が目の前に現れることもしばしばある。しかし、レースはまだ始まったばかりなのだ。


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