不思議な弟 1990’s

第6話 何でもないように見える春の朝

「も~! 何で起こしてくれないのよ、陽介!」

 氷室冴はひとつ年下の弟に八つ当たりしながら、玄関から駆け出した。一応、高2女子ではあるが、生憎と、そのシンボルたるセーラーカラーの制服と、ちょっと短く見えるスカート姿で登校したことはない。

 色気のない、高校名の入った真っ赤なジャージ姿でランニングシューズを爪先をトントンやりながら睨みつける先には、可愛げのない小生意気な弟がいる。

「起こしたよ! 何さ、いびきで返事してさ!」

 冴の目の前で長い髪が揺れたかと思うと、小柄な紺ブレザーの背中が、声だけ残して更に小さくなっていく。

 ついさっきまで台所で、もしゃもしゃとトーストをかじっていたはずなのだが……。

 因みに冴はというと、母親に超高速でおにぎり2つ作ってもらうと、玄関先でぐいぐい呑み込んだばかりだ。

「いつの間に追い抜いた! ずるいぞ!」

 新中1の弟に先を越されたのが何とも不愉快で、冴は必死で追いすがる。これでも陸上部のスプリンター、新キャプテンだ。昨日の部活で、顧問の葉月みゆき先生から指名を受けたばかりだが、やる気は満々だった。こんなガキんちょにコケにされては、キャプテンの面子も姉の威厳も台無しだ。負けるわけにはいかない。

「うおおおおおおお!」

 と、心の中で叫んで突っ走ったものの、焦る気持ちの割にはスピードが出ない。努力空しく、氷室陽介13歳は彼女からぐんぐん遠ざかっていく。

 今年度初の敗北であった。

 朝の住宅街もそろそろ目を覚まして、職場へ向かうスーツ姿のサラリーマンや学ラン高校生にセーラー服の女子高生が会釈したり挨拶を交わしたりする。

 学生の登校先は公立に私学、様々である。氷室家はというと、学園内に中学校と高校を抱える私学に姉弟2人を通わせている。

 中学生になったばかりの弟、陽介はこの先どうだか知らないが、姉の冴はそこそこ人望に恵まれている。

「さえちゃん、おはよ~」

 近所に住む同級生の声とバックパックを背に、冴は学校めざして疾走する。

「おはよ!」

 挨拶に答える声だけがその場に取り残されたかと思うほどの勢いだった。ショートカットの少女はもう、そこにはない。ただ、セーラーカラー付きブレザーを着た友人がその場に呆然と取り残されているばかりである。

 もっとも、冴はというと知らん顔をしたわけではない。やむを得ない事情を抱えていることは、周りの女子生徒も承知の上だから問題はない。

 冴は一応、賢い、よい子(のつもり)だ。喧嘩もしなければ意地悪もしない、みんなと仲良く進んでできる子(のつもり)である。朝一番の週番業務、「朝の挨拶運動」をサボるわけにはいかないのだ。

 それなのに! それなのに! なぜ? 

 なぜ、普通なら余裕で登校している時間に全力疾走しなければいけないのか?

 ……陽介! 学校で会ったら絶対シメル! きゅっと!

 冴は固く心に誓った。

 だいたい、夕べの一件がいけないのである。あんなときに、玲瓏叔父さんが帰ってこなければ!


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