第5話 弁当を巡る種明かし
屋上で、氷室が辺りをきょろきょろ見回している頃のことである。
陽介は校庭脇の楠にもたれて、薄い雲が流れるのを眺めていた。その目の前にふわりと舞い降りたのは、鮮やかな萌黄色の小袿をまとった少女である。
「弁当ぐらいのことで、手を煩わすでない」
少女は、どこからやってきたのか分からない。天から下ってきたのか、まだ冷たい春の空気の中から溶け出してきたのか。
いずれにしても、陽介は驚きもしない。その表情は変わりもしないが、いつものことだというふうに、身動きひとつしない。
「姫か。弁当のほうで勝手にやってきたんだ。僕のせいじゃない」
校庭からは、サッカーに興ずる生徒たちの声が聞こえる。その誰一人として、姫の姿と、陽介のつぶやきに気づく者はない。
なんのことはない。
英語の時間が終わってから、陽介の忘れた弁当が、教室の扉を自分で開けてやってきたのである。どんな形をしていたかは、表現のしようがない。とにかく、やってきたものはやってきたのである。
当然のことながら教室内には戦慄が走った。戦慄というより、見てはいけないものをみてしまったというか、夢だと思いたいというか……そんな恐怖で、その場にいた全員の思考が停止してしまったというのが最も正確だろう。
とにかく、忘れていた宿題やったり早弁したり、そのままの姿勢で固まってしまった生徒の間を、その弁当はすり抜けてきたのだ。
こんなとき、後始末をするのは姫である。すべてをなかったことにする力を、彼女は持っている。
陽介が、受け取った弁当を鞄にしまいこむと、すべては5分前の状態から始まった。
ただひとりを除いて……
この山深い町で、清らかな渓流のほとりにある高校の1日は、やがて終わる。
それぞれが、帰途についたり部活に向かったり、どちらにも向かわずに姿をくらましたりする。
奈美は多少寄り道はするが自宅へ向かい、みゆきは格技場へ走る。
絵梨佳は新体操部に向かう。小柄な悠鷹は、体操部であるので、行き先は同じである。
氷室と陽介は、演劇部員であるが、彼らを見てそうと気づく者は少ない。演劇部員とはそういうものである。
演劇部と新体操部と体操部が体育館で顔を合わせるのは、そう珍しいことではない。ただ、演劇部と接触する体育会がそんなにないだけの話である。演劇部はステージに立ち、あとはアリーナで練習に励む。あまつさえ、ステージとアリーナは防球ネットで仕切られている。接触の仕様がない。
ところが、今日はちょっとだけ事情が違った。新体操部は、ステージの真ん前で練習していたのである。
演劇部員は5分間のストップモーションを命じられ、新体操部員は蛍光ピンクのジャージ姿でフープのバックスピンに精を出す。
氷室の静止させられた筋肉が悲鳴をあげ始めたとき、目の前に絵梨佳の投げたフープが、回転不足でぱたりと倒れた。長い髪をポニーテールにまとめた華奢な姿が、視界にととッと駆け込んでくる。
フープを拾って、にっこり笑いかける。微笑み返したいが、あいにく、ストップモーション中である。その上、彼女の笑顔は、氷室ではなく、彼の前でぴくりとも動かない陽介に向けられていた。
なんだか面白くない、と思った時、彼女は一言残して、フープ投げのスタートラインへ駆け戻っていった。
一言だけ言い残して。
……お弁当、忘れちゃだめよ。
陽介はというと、そういう条件下だから仕方がないが、眉ひとつ動かさない。そこで口をムズムズさせていたのは、氷室である。
「ちいとは喜べ、朴念仁!」
そう言いたかったが、腹の中で毒づくだけにする。氷室は顔と手足の筋肉を固定すべく静かに呼吸を整え、ついでに怒りを収めようと努めることにした。
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