第3話 途切れた記憶の結び目
「ほっときゃいいのに」
耳の奥に、別の女子の声が引っかかった。ちらりと辺りを見渡してみたが、氷室を見ていた気色は誰にも感じられない。氷室も、まったく気にしてはいなかった。
だいたい、絵梨佳が彼氏持ちであったとしても、異性として意識するのは氷室の勝手である。別に横からちょっかいを出しているわけではなし、悠鷹に恨まれるのは筋違いというものだった。
「ごめん、悠鷹くん、ちょっと待っててね」
「うん……」
ノートから顔も上げない絵梨佳に、背後の悠鷹は曖昧に頷いたようだった。
それでいい、と氷室は思った。
たとえ恋敵であれ、具体的な行動を起こさない限りは黙って見守るのが、男の甲斐性というものだ。それは氷室が京の町で女の子たちと、とっかえひっかえ交際していた中学生の頃から疑うことのない信念である。
だが、絵梨佳はそんな男同士の無言の戦いなど知る由もない。
「で、氷室君、ここんとこなんだけど」
「うん?」
氷室の返事も曖昧だったせいか、絵梨佳はちょっとムッとしたようだった。
「聞いてる?」
「……うん」
実を言うと、その目はもう、絵梨佳を見てはいない。氷室としては、自分が他の女子に目移りしたとしても、自らの信じるところに従って、恥じることは全くなかった。
眼の前の絵梨佳に授業の解説をしながら、今、チラチラと遠く眺めている相手は那智みゆきである。
そういえば、今朝、氷室と陽介が屋上に登った頃、校舎から庭園の小径を抜けたところにある剣道場から、白い道着と袴に身を包んで駆け出してくる姿が見えた。すぐに戻ってきたその手には、何かノートのようなものがあった。どこかに置き忘れたのを慌てて取ってきたのだとすれば、部活動日誌か何かだと思われた。
今、短い休み時間を費やして、必死で鉛筆を走らせているのがそれなのだろう。
防具をかぶるときに邪魔だからか、みゆきの髪は少年のように短く刈り揃えられている。ちょっと見れば、わずかの時間も惜しんで部活に熱中する精悍な武道少女だ。
だが、氷室は知っていた。
みゆきはみゆきで、剣道部の朝練記録を部日誌に書きながら、ときどき、氷室たち3人をちらちら見ていたのだ。
それだけに、一見、恋人同士のように氷室と仲睦まじく見える絵梨佳と、そして実際の恋人である悠鷹の苛立ちまでも気にしている様子は、可憐でもあり、また滑稽でもあった。
みゆきに見とれていると、突然、机の上に置いた手の甲が、とんとんと指先で叩かれる。そのくすぐったさと、頭上から突き刺す視線に、氷室は我に返った。
「ここは?」
絵梨佳の無邪気に澄んだ瞳が、じっと見つめている。
「あ、ああ、ここ何言うてんのかというとやな……」
そのとき、氷室が言い淀んだのは答えに迷ったからではない。再び耳の奥で、というより、頭の中で何か引っかかる声が聞こえたからである。
掛井君も気にすることないのに、と誰かが言っていた。
ふと見れば、みゆきが日誌に向かって目を伏せるところだった。
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