第2話 動き出した記憶の物語

「なあ、氷室君、さっき英語のここ分かる?」

 3時間目のノートを見せながら、石動絵梨佳が黒目がちの瞳をまっすぐに向けて、氷室の顔を覗き込む。

 この子はいつでもこうだ。無防備というか人懐っこいというか馴れ馴れしいというか、とにかく、人との間に壁というものがない。

 氷室はちらりと後ろを振り向いた。背中に刺さる視線がチクリときたのである。中学時代は京都で相当の浮名を流していたという自覚も自負もある身としては、もともと鋭い目つきをより険悪にして睨みつけているであろう掛井悠鷹の気持ちはよく分かった。

 絵梨佳のような子と交際する男子は、たいへんなのである。いつも女の子の動向に気を配り、妙なちょっかいを出されないように警戒していなければならない。

 とうとうこらえきれなくなったのか、悠鷹は努めてさりげなくやってくる。

「何だなんだ?」

 カノジョのそばに立って話を聞くふりをする。分かっても分からなくてもいい。どっちみち英語など分かりはしないのだから。大事なのは、氷室のナンパに睨みを利かすことである。

 もっとも、田舎者のプレッシャーに怯みはしない。ノートの罫線を几帳面に1行ずつ空けて綴られた流れるような筆記体の文を、指で追いながら説明する。絵梨佳は絵梨佳で、氷室の後ろに立つ彼氏など気にも留めない。ちょっと早口な解説を、ふんふんと頷きながら聞いている。

 去年の春、この教室で出会ったときから不思議な感じのした少女だった。

 こんな感じの子は、どこにでもいる。決して多くはないが、珍しくはないと言える程度に、氷室はもっと多くの女の子たちと関わってきた。

 広く、そして浅く。

 だが、この少女には、そうした女の子たちとは何か違うものがあった。ノートの上に悠鷹の影が差しても、全く気にしない。

「なあ、絵梨佳」

「じゃあ、ここは?」

 返事もしない。ここまで交際相手が露骨に気にしていれば、普通はちょっと意識してみせるものである。だが、絵梨佳はそこにアカの他人がいるかのように、氷室のほっそりした指先を目で追っている。

 それでいて、氷室は彼女から微塵の好意も感じてはいない。何となく、その気持ちが自分の身体を通り抜けて、悠鷹の全身を温かく包み込んでいる感じさえする。

 気のせいではなく、実際にそうなのだろう。大きな京の町の、大きな家の中で、人の顔色をうかがいながら育ってきた氷室には分かる。


 近世から続く名家の子である。ただし、跡を継げる立場ではない。古くは公家の家系にも連なるらしいが、母を亡くして引き取られてきた妾腹の子にすぎない。そこにどんな事情があったかはよく分からないし、その必要もないし、知りたくもない。

 ただ、今の境遇に納得していればよかった。

 卒業したのは、どこかお高く留まった私立の中学校だった。その後に入学させられたのは、京都から遠く離れた県の、田舎の公立高校だった。ただし、生活費と学費と、住むはずだった家の賃料だけは保障されている。

 それもこれも、大きな家の中の「腫れ物」だからなのだが、それは何となく面白くない。訳あって陽介の家で居候を決め込んでいるが、それは未だ、実家に隠している。何となれば、仕送りされている家賃を懐に入れて小遣いにするためである。


 だが、不思議なのは、絵梨佳の雰囲気だけではない。

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