水と剣の物語~Complex~

兵藤晴佳

弁当をめぐる冒険 1980’s

第1話 はじまりのはじまりのはじまり

 ここは田舎の高校なので、結構セキュリティがいい加減である。

 屋上に出る扉の鍵は、実をいうと壊れているのだが、生徒は一部を除いて誰も知らない。ここ20年ばかりトラブルらしいトラブルもないので、教員もあまり問題にしない。従って、二人が授業開始まで、ここでひとときの休息を楽しんでいても、誰も文句を言いはしない。

 夕べの雨で、屋上は冷たく濡れている。そのコンクリートの上を吹きぬけてくる春の風を受けながら、但馬陽介は澄み渡る空を眺めていた。

 痩せぎすの身体をした、背のひょろ高い少年が見つめているのは、積翠と呼ばれる山城の彼方である。明らかに校則違反の長い髪がかすかに揺れているが、その表情は、泣き笑いなど一切忘れたかのように凍りついている。

 ただ、そのまなざしだけが遠かった。

 その隣に立つ少年は、細いチタンフレームの眼鏡をかけなおし、詰襟の服の上から体をさする。

「そろそろ行こ。まだ寒いわ、ここ」

 緩やかな京都方言でぼやいたのは、さっきまで同じ教室で、窓際から朝の光を背にした川向こうの山脈を眺めていた氷室玲瓏である。学年末考査を目前にして緊張した周りの空気など知らぬ気に、屋上へと上がってきたのはこの2人だけである。

 この、清流のほとりにある山間の街へ来てから1年が過ぎていた。中学を卒業するとすぐ、街中の一軒家に独りで引っ越してきたのが去年の春休みだった。

 だが、ひょんな経緯で、山城の遥か向こうにある農村にある陽介の家にずっと下宿している。雪深い山里でひと冬を過ごしたというのに、彼の考えていることはまだ、いまひとつ分からないところがあった。

 学校でも、なんとなく一緒に行動することが多い。そのせいで、こんな様子を見ることはちょくちょくある。別に、気にするほどのことではない。

 なぜなら、陽介と暮らすようになってから、彼は奇妙な出来事をいやというほど体験してきたからである。

 だが、そのうちの1つたりとも、記憶をよぎることはなかった。3月に入って間もない朝の空を眺める彼の感傷は、後を追ってきたらしい3人目によって無造作にも破られてしまったからである。

「あ、氷室君!おはよ!」

  甲高い声にぎくりとして振り向くと、屋上に出る扉を開けて、同級生の浅井奈美が微笑んでいる。

 朝の空気の中に溶け込んだかのような歩みで、すらりとした足を小刻みに、とっとこと目の前にやってくる。氷室に鼻先を近づけると、向き合った顔は背伸び抜きで、同じ高さに来た。たいていの男子なら、長身の奈美が見せる誘惑に、顔を赤らめてどぎまぎしないではいられないはずである。

 だが、氷室のほうは、こんなことには慣れっこと言わんばかりの落ち着きようであった。

「キスはまだ早いで」

「ばれたか」

 朝一番の軽い冗談を軽く受け流す奈美から、目をそらして向き直る。その先に、もう陽介の姿はない。

 そろそろ1-5の朝礼の時間である。何事もなかったのように、奈美は氷室の前に歩み出る。

「急がないと、遅刻するよ?」

「なら、邪魔せんといてや」

 奈美の紺色をしたブレザーのすぐそばを、軽いステップで学生服の袖が擦り抜ける。その耳元で、艶めかしい声が囁いた。

「明日のテストの自信のほどは?」

「浅井にも石動にも那智にも負けへんで」

「あ、奈美って呼んで」

 そう言いながらしなやかに伸びた手を紙一重の差でかわして、氷室は塔屋へと早足で向かう。

「陽介にはかなわへんかもしれんけどな」

 京都にいても相当の進学校に通えたはずの氷室が、こんな田舎で口にしたのは、謙遜でも何でもない。

 何を考えているかさっぱり分からない同居人がときどき感じさせる何かは、テストの答案1枚にさえも、氷室とは紙一重の差で表れる……いや、現れることがある。

  

 

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