エピローグ1

 遡る事十年前。

 これはまだーー幼き少女が石版を拾う前の話。



 ◇◆◇◆◇◆



 破壊の黒き竜は霧の中にて、完全に冬眠していた。

 巨体を手放すように干し草の上に横たわらせて、静かな寝息を立てている。しかし全身の鱗から放たれている威圧は、針先のように研ぎ澄まされていた。


 ーー例えば。

 風に舞い、竜の頭上にヒラヒラと落ちていく一枚の枯葉。それが竜の間合いに入った瞬間『ヒュン!』という空気を断つ音と共に、細切れの繊維へと変わる。

 竜が大きな尻尾の先を使って、枯葉を切り裂いたのだ。無意識の自動防衛。


 外敵から身を守るべく、竜は寝ながらにして、凄まじい破壊本能を働かせていた。




「あはーー!どこーーーっ!?」




 そんな緊張感など知る由も無い幼い声が……霧の中から聞こえた。


 盲目の少女ーーいや、幼女だ。


 幼女は両手を前に出し、フラフラとしたおぼつかない足取りで寝床へと姿を現した。

 トテテテテーーと、寝床の端っこを軽快に走る。つまずき、転び、起き上がり、また走る。


「お花ーー!お花さんーー!」


 幼女は珍しい匂いをたどっていた。

 眠る竜の後ろに生えた、色とりどりの竜輪草の匂いを。


「あっ!?」


 幼女の動きがピタリと止まる。

 鼻をヒクヒクと動かして、竜の眠る方向に体をひねった。


「あはーー!お花、あっちーー!」


 何の躊躇をする事なく走り出した幼女が、竜の間合いに一歩を踏み込んだ。


 ーー瞬間。


 竜の長い首が幼女に向かって、高速でうねりをあげた。

 大口をこれでもかと開き、首を九十度傾け、鋭い数百の牙で地面を乱暴にズドドドドド!!と、えぐりながら幼女へ迫る。


「?」


 一方の幼女はキョトンと首をひねっていた。

 目の見えない幼女は、そのけたたましい地響きの正体がわからない。その口が閉まる直前であっても……幼女は無防備に笑っているばかりだった。


「あはー?」


 ガキン!! と、幼女を噛み千切るはずだった無数の牙はーー。


「ふぅ……」


 とある人物の溜め息と共に不発に終わった。

 白いマントを揺らして、幼女の前に舞い降りた白い影。その者が両腕を左右に広げて、その鋭利な牙を受け止めていたからだ。


「これは流石の僕でも状況が理解出来ないよ。黒き竜」


 その巨大な顎あごを咄嗟に支えたのがーー竜人体型の治癒の神、パナケアだった。

 すぅと伸ばした手からはおびただしいほどの血が腕を伝い、パナケアの白いマントを朱色に染めていく。


「さて、どうするかな」


 パナケアの臀部から伸びた白い尻尾。

 そこにトンと、小さな衝撃を感じた。


「いたいー」


 振り返ると、幼女が頭を抑えながらペタリと地面に座り込んでいる。どうやらパナケアの尻尾に引っかかって、転んだ様子だ。


「君は何者だい?と、言いたい所だけどーー」


 力を込めて抑えていたパナケアの腕が、グシャリと肘の辺りまでへしゃげた。


「後にしようか」


 パナケアが全身から魔力を放出した。

 太陽よりも眩しく心地よい光がーー寝床を包みこむ。


 その輝きが収まった時。

 パナケアは幼女を抱いて、上空にプカプカと浮かんでいた。ズタボロになった両腕は、何事もなかったように見事に完治している。


「盲目の呪いか」


 パナケアが幼女の瞼に張り付いた緑の縦筋を見て言った。


「なにこれー!?」


 一方の幼女はパナケアの豊満な胸を鷲掴みにしながら、にぎにぎとおもちゃのように揉みしだいている。

 絶体絶命の窮地から助かった事など、幼女は何もわかっていない。パナケアももちろん幼女に礼を求める事は無かった。勝手に自分がした事だと、十分に理解している。


「これは胸だよ。子供向けに言えば、おっぱいと言うべきかな。君に分かるかい?」


「わかんない!」


 パナケアは苦笑しながら、幼女を豊満な谷間に挟んだ。

 手で触っても分からないなら、匂いで、温度で、耳で。あらゆる器官を使って分からせれば良いだけ。

 しかし、パナケアはいつの間にか、うっとりと微笑む自分の顔に気が付いた。そう、パナケアは雌の竜ーー母性の感情だ。


 執拗に情熱的に胸をまさぐる幼女に、パナケアは眉をひそめた。


「君にはもしかして……お母さんが居ないのかい?」


「いないーー!」


「そうなのか」


「でもおっぱい好きーー!」


「あははは。それは良かった」


 パナケアは微笑みながらも、淡々と片手を真下に向けた。

 そこには獲物を見失い、牙を『ガキン!ガキン!』と噛み合せる寝ぼけた竜が居る。そんな竜の背中に向かってーーパナケアは精製した巨大な氷塊をいくつも叩きつけた。


「ぬぉ……なんなのだ……?」


「おはよう、黒き竜」


 竜は寝ぼけた頭を覚ますように長い首を振る。そして、上空に浮かぶパナケアを見上げた。


「パナケアか。また竜人の姿なんぞに成りおって。して、貴様はいつからここに居た……というより……それはなんだ?」


 目を細めた竜は、パナケアの腕の中に居る幼女を凝視した。


「貴様、人間の子が産めたのか?」


「そんな訳がないだろう。これは君が育てている人間じゃないのかい?」


「我がか?あり得ぬ話だ」


 パナケアは顎に手を置いて考えた。


「という事は迷い子か。目が見えない故に迷いの霧を突破した。そんな所か」


「貴様に教えてもらう魔法は、欠陥が多くて困るな」


「こうでもしないと、小動物や虫すら竜の巣に入ってこれなくなる。それこそ草木が育たなくなるよ」


「ふん。それより、どうやってこの居場所を突き止めたのだ?」


「これさ」


 パナケアはコートの内側に仕舞っていた石版を、ヒラヒラと見せつけた。


「なんだそれは?」


「人間が開発した、竜を探す為の魔法を強力に改良したものさ」


「……脅威を排除する為か。くだらぬ人間の考えそうな事だ」


「そうは言っても僕には助かった。これさえあればこの広い世界でも、君の居場所を探す事出来るんだから」


 パナケアがフワリと竜の鼻筋の上に着地した。抱かれている幼女は、初めて触る胸にまだ夢中になっている。


「おい、人間。貴様の名は何という」


「キサマー!」


 幼女は竜の方を向く事なく返事をした。


「……我を馬鹿にしているのか?」


「人間の、それも子供にムキになってどうするのさ」


「我には関係ない」


 パナケアは竜の目玉の前まで近づいて、幼女を抱え上げた。

 竜の大きな目玉には、ドアップに映った幼女の笑顔が反射している。


「おチビちゃん。君の名前は何ていうのかな?言ってごらん」


「フェミィー!!」


 目玉に向かって、幼女はニィーと白い歯を見せた。

 対して、竜は興味がなさそうに視線を逸らした。


「フェミィ。自分から聞いておいて、話を無視する悪いトカゲがいるよ?どうしようか?」


「んーー?トカゲパンチ!!」


 幼女が元気いっぱい伸ばした拳骨を、パナケアは移動させて竜の目玉にぶち当てた。


「ぬぐぅ!」


「トカゲー!トカゲー!」


 思わず仰け反り、立ち上がった竜。


「何をする!殺すぞパナケア!」


 パナケアは悪びれる様子もなく、呆れながら竜を睨んだ。


「千年も僕から逃げ回るからだ。どれだけ君を探し出すのに苦労したと思ってる。僕の発情期だって限りがあるんだ」


「我は繁殖地へは行かぬと言ったであろう」


「わかったよ。西の大陸へは行かなくて良い。だからここでーー僕が子を孕むまで交尾してもらう」


「……ならぬ」


 竜は目を泳がせながら拒否した。


「何が『ならぬ』だ。カッコつけめ。だったら竜の掟に乗っ取ってーー強制的に交尾させてもらう」


 パナケアが全身に白い魔力をまとい、竜を威嚇する。


「殺してしまうぞ」


「どっちがだい?出会った頃ならともかくーー君を押し倒せるほどには成長したはずだ」


 竜は仕方ないと言った様子で、牙の隙間からゴオオォォ……と重苦しい黒い魔力を放出した。


「めーーーーっ!!なのーーーーっ!」


 小さくも鋭い意思を持った幼女の声。

 睨み合う両者は、びくりと肩を震わせた。


「けんかは、めーーーっなの!」


 パナケアの足元にしがみつく幼女が、頬を膨らませ怒った。


「……フェミィ。これは僕たちにとって大切なことなんだ。大人しくしてておくれ」


「いやっ!!」


 幼女はパナケアの足の間に顔をくぐらせて、さらに頬を膨らませる。


「そうか」


 パナケアが『パチン』と指を鳴らす。

 その合図で幼女は上空へと浮かび上がっていった。


「うぬ……」


 一方の竜は顔を曇らせていた。

 勢いで売り言葉を買ってしまったものの、戦いたくない理由があったのだ。パナケアと手合わせした事は過去に何度もある。それ自体は特に気にすることではない。

 だが、何百年と魔力を注いで作った寝床に、被害が及ぶのは得策ではなかった。


「パナケアよ。勝負に関してだが、一つ提案がある」


「なんだい?」


 竜は上空に浮かぶ幼女を見ながら言った。


「あの理解出来ぬ幼子に、言う事を聞かせた者が勝者ーーそれでどうだ?」


 珍しい竜の注文に、パナケアが顎に手をやった。

 パナケアの算段では攻撃ーー破壊力は竜に劣る。が、対応できる魔法の種類では自分の方が上。戦闘力は互角と言った所だろう。

 勝負の決め手は、どちらが先に魔力切れを起こすか。勝負はそれに尽きる。


 パナケアは深く考える。

 懸念材料があるとするならば、ここは敵陣ーー黒き竜の寝床。長期戦になると、ここから魔力の外部補給が出来る竜に、若干の利があると言えなくもない。


 一方。人間への知識なら、あの鈍感な黒き竜よりも自信はある。

 加えて相手は幼女だ。雌としての圧倒的な立場が活かせるはず……だとすれば。

 ニヤリと。パナケアは妖艶な笑みを浮かべた。


「良いよ。その勝負受けて立とう」


「二言はないな?」


「癒しの竜の名に賭けて」


 こうして黒き竜と白き竜は、幼女を使った“大激戦”を開始する。

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