竜の寝床
霧の中で、少女の歓喜の泣き声が舞い上がった。
「うわああああん!リュウしゃんが!リュウしゃんがーーっ!うわあああーーーーん!」
「えぇい!泣くな!喚くな!貴様は産まれたてのヤギか何かか!」
黒き竜の寝床にて。二人は約一年ぶりとなる再会を果たした。
月日の流れを表すように、少女の背や女性の特徴となる部分も少し成長している。まぁ、そんな些細な変化に竜が気付くわけがないのだが。それはさておきーー
「うるさいいいいぃぃぃ!だってえええええーー!!もう会えないかと思ってぇぇぇえ!!」
いつになく口調の荒くなる少女。
繊細な年頃を考慮すれば、仕方のない事だと言える。
しかも少女は盲目だ。格段に情報量の少ない彼女からすれば頭の中はずっと竜の事でいっぱいだったことだろう。
少女は竜の足に抱きつきながら、その嬉しさを体いっぱい使って竜に伝えている。涙も鼻水も、竜の鱗にこれでもかと擦り付けて。
「離れよ!暑苦しいぞ!」
流石にうっとうしく感じた竜はブンブンと前足を振る。
だが、子猿のように引っ付いた少女は、必死にしがみついて離す事をやめない。
「いやだあああああーー!!おばあちゃんになるまでええぇぇーー!あああーー!おばあちゃんになるえぇぇええ!」
「おばあちゃん!?何の話かわからぬ!貴様の祖母は死んだのではなかったのか!?」
「待つんですうううううー!!何年でもーー!何十年でもおばあちゃんになってーーーーっ!!」
支離滅裂すぎて、竜には話の意味が分からなかった。
だけど……少女の嬉し涙を見て、自分を想って言っているのだということはすぐに理解できた。
しばらく少女が落ち着くまで、竜はその微笑ましい光景をじっと見つめ続けた。
「……うぅ……ひっ…………ひっく」
「落ち着いたか?」
「……少し」
「そうか。貴様が声を出して泣くなど、漏らした時だけと我は思っていたが」
ピタリと。少女のすすり泣きが止んで、わなわなと表情は一変する。頬を赤く染めた怒りの表情へ。
「あほーーーっ!まぬけーー!一年ぶりに会って言う事じゃないでしょーー!」
「フーハッハッハッハッ!良いぞ!久し振りに腹が膨れてきおる!」
泣き顔から怒った顔へ、少女の表情は壊れた。
その変化に、竜は久しぶりに味わう上質な満腹感を得た。
「リュウさんの変態魔法使いーーーー!!」
「フハハハ…………は?待て、今のはおかしくないか?」
「ふえぇぇぇん!びええええぇぇぇん!」
少女は思い出したようにまた泣き叫ぶ。
そして泣き疲れて、ふくれっ面のまま落ち着きを取り戻した。
ただ、抱きしめる両腕はだけはかたくなに離そうとしない。
「……リュウさんは酷いです。言ってたじゃありませんか。別れの挨拶もせずにどっかに行かないって」
グズグズと鼻をすすりながら少女は言った。
「何を言っている。ほんの束の間、離れただけではないか?」
「はいっ!?どこが束の間ですか……音信不通になってもう一年ですよ!」
「たかが一年ではないか。我にとっては散歩にすらならぬ時間だ」
「…………あぁーっ!?」
少女は『しまった!』という顔をした。
竜は長寿。何万年も生きる動物ということは聞いていた。だから人間との時間の認識が違っていて当然だったのだ。
しかし常識に囚われた少女は、そんな事など微塵にも考えていなかった。
「次からはピクニックぐらいの時間に変えといて下さい!遊びが終わったらすぐに寝床帰ってくる!分かりましたねっ!?」
まるで叱りつける母親のように、少女は竜との約束を求めた。
「貴様の言いたい事は大方予測出来た。次からは……」
そこで、竜は言葉をためらった。
「リュウさん?」
「なんでもない。次からは人間の時間に置き換えて行動する事を考えておく」
「本当ですか!約束ですよ!?嘘ついたら脇腹こしょこしょ地獄ですからね!?」
そんなもの効くはずがないだろう、と竜は大声で笑った。
ふと。竜は首を回して寝床を見渡す。枝や枯葉などは殆ど散らばっておらず、掃除が行き届いている。竜の干し草の後ろに生えていた
竜が出掛けていたこの一年間。目の見えない少女が頼んでもいないのに、せっせと寝床の世話をしていたのだと、竜は感じ取った。寂しそうな背中。不器用な掃除のやり方。少女の情景がありありと竜の瞳に浮かんだ。
ふいに鼻先をかすめた獣の匂い。竜が嗅いだ事のある、あの匂いだ。
(無断でロバを連れてきた事は……今は目を瞑ってやるとするか)
竜はニヤリと笑みを浮かべた。
「ところでリュウさんは、どこに行ってたんですか?」
「うむ。実はパナケアの所で……貴様を驚かす、大規模作戦の研究をしていたのだ」
「だっ、大規模作戦ですか!?」
サッと。少女の血の気が引いた。
竜が一年かけて用意したドッキリ計画なんて……飛んで、落ちて、あぶって、冷やして。兎にも角にも、ろくなもんじゃないと言う事だけはわかる。
「フハハハハハ!今回の作戦は派手になるぞ!貴様の驚嘆する姿を想像するだけで、我はよだれが出てしまうというもの!」
「一体全体、何をするんですか……リュウしゃん」
歯をカタカタと震わせながら、少女は聞いた。
「ーー体が何十倍に膨れ上がるとしたら、縦と横。貴様はどちらを選ぶのだ?」
少女があれだけ抱きついていた竜の足から飛び退いた。
「……まさかそんなっ!……待ってください!このままがいいです!お家に入れなくなってしまいますよ!」
「フハハ!フーハッハッハッハッハッ!」
「そんな大きなパンツは持ってませんから!それってダイエットで戻りますか!?ちょっとリュウさん、笑ってないで答えて下さいよー!」
他愛のない竜の冗談。
少女の慌てふためくリアクション。
一年前と変わらない様子の二人は、竜の寝床ではしゃぎ回った。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「ーーで、父にバレたのですが私は上手く乗り切りましてですね!」
身振り手振りを交えて、少女はこの一年間に起きた出来事を竜に伝えている。
「分かった分かった。貴様の話は長いのだ。次は我にも話をさせろ」
「ダメです!ここからが本題です!次の章から私の甘い甘い“ラゥブストゥリー”が始まるのですから!」
竜はやれやれと、ため息を吐きながら空を見上げ、太陽の位置を確認した。
「“らぅぶすとぅりー”が何かは分からぬが、先に言った仕掛けの為に、パナケアが準備しておるのだ。あまり煩わせたく無い」
「パナケアさんが?」
「そうだ。貴様の話は……後で、我が寝ている時にでも聞かせてくれ」
「そんな!寝てる時だなんてあんまりです!でも、リュウさんの話も聞きたいです」
少女はあの日と同じように、大きな脛を背に三角座りをして竜の言葉に耳を傾けた。
「貴様は……お喋りだ。話す事で他者に存在を知らせ、知り、そうやって過ごしてきた。不安なのであろう。一人が怖いのであろう」
竜は自然に語りかけるような、ある意味で傍観者のような口調で少女に語りを始める。
意中を見抜かれた言葉に、少女は顔を上げて驚いた。
「人間とはそれで良いのだ。模索し、抗い、己を知る。そして破壊する。破壊の本質とは、己の殻をやぶる為にある」
「殺す者の顔も見ず、人数すら把握せず、毒のように無闇に命を奪う事が真の破壊ではない。大切なのは、破壊したものに対し自分と向き合う事だ」
遠い彼方を見つめて、竜は言う。
竜は背負っている。背負い続けている。聖人に限らず、悪党達のどす黒い欲望も、凄惨な苦しみも。幸福から死の街へと変わった、悲しい街の歴史すらも。
竜は全て覚えている。
「破壊とは一種の成長。立ち止まった時に進む為の……最初の一歩なのだ」
「……はい」
そうだと少女は思った。
自分の殻を破り、少女は暗闇を進んだ。だから今こうしてーー竜に出会えたのだ。
「破壊とは決して他者を傷つける為だけではない。良く覚えておいて欲しい」
竜は壊した街を振り返った。
今回の毒を保持していた街を襲ったのも、願わくば人間のため。毒とは無関係の人間を含めた自然を守るための。
魔法と生物化学の発展。
それがある一定の水準を超えると、猛毒によって大地や海まで巻き込んだ、空前絶後の大戦争が始まる。
竜とパナケアは何万年もの間、その悲惨な光景を繰り返し目にしてきた。その度に、竜は奮闘しーー傷付いた。
痛々しい眉間の十字傷もそうだ。毒の脅威から善良な人間を守る為に戦ったはずが、裏切られ……額を切り裂かれたのだった。
悲しい過去を証明する、治す事の出来ない白い傷痕。
「リュウさん……」
「少し、話が過ぎたな」
ドスンと、急に体を起こした竜。
少女はコロコロと足の甲から滑り落ち、干し草の上にボフッと落ちた。
「はぇ!?どうされました!?」
「出会った時に腐りかけと言って悪かった。貴様は腐ってなどいない」
今まで聞いたことが無かった竜の謝罪に、少女はポカンと口を開ける。
どんなに度が過ぎたイタズラでも竜は謝りなどしなかった。竜は神の化身だ。住む世界が違う、価値観が違う。それが普通の事だと少女は思っていた。
「我は準備に取り掛かる!」
突然に上から聞こえた声。そして髪をさらう強い風。
竜が浮いているという事が少女にはすぐわかった。
「リュウさん!待って!ちゃんと帰って来るって約束して下さい!そうしたら、私はいつまでも待てますからっ!」
「…………時期にパナケアが迎えに来る。絶対に、絶対に言う事を聞くのだぞ!フェミィ!!」
「えっ!?」
今まで名乗りはしなかった名前が寝床を駆け抜けた。それはもちろん少女の胸をも貫いている。
ドクンと。小さな胸の鼓動が高鳴った。
出会った頃は勘違いをしていたが、パナケアの寝床にて『竜』が種族の名前だと言う事を少女は知った。しかし、リュウは正確な名前を持っていない様子だった。
だから少女も同じように、自分から名前を語る事をしなかった。少しでも、同じ感覚を共有したかったから。
「……あっ」
ふと、少女が我に帰った時。寝床にはもう竜の気配はなかった。
「行っちゃいました……」
少し様子がおかしかった竜。
伝える事の出来なかった自分の気持ち。
ぽつりと残された少女の心に、例えようのない不安が騒ついた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
言えなかった言葉。モヤモヤする気持ち。
それを表すかのように、地面を叩く杖にも自然と力が入る。コツ!コツ!と。少女は今日も龍の巣をグルグルと回っていた。
「はぁ。パナケアさんはいつになったら来てくれるのでしょうか」
竜が出掛けて一週間。
少女はまた、会えなくるかも知れない不安の中に居た。
「リュウさんの言い方は、そこまで先の話でも無かったように感じましたけど……また長くなるのでしょうか?」
少女は汲んできたバケツから、少しずつ竜輪草に水をやる。
「コンソメはどう思いますか?」
少女は花びらを撫でながら話しかけた。
竜輪草はこの寝床の一年間で、少女の良き話し相手になっていた。名前はコンソメという。
「ーー遅くならないと思うよ」
「コンソメが喋ったぁぁぁぁぁあああっ!?」
突然の返事に、少女は尻餅をついて驚いた。
「ふふっ。びっくりしたかい?僕だよ。花の妖精、パナケアだよ」
「妖精!?パナケアしゃん!?ーーひぇ!?」
冗談を言ったパナケアは、少女の耳をカプリと甘噛みして健康状態を調べた。
「みみみみみ、耳責めだけはご勘弁をー!」
「うん。体に悪い所はない。むしろ人間らしく強く成長してる」
「あははは……ありがとうございます。でも、耳はやめて下さいね?フリじゃないですよ?本当ですよ?」
少女は身震いしながら言う。
「少しーー話をしようか」
そう言ってパナケアは指を鳴らし、少女の体を浮かばせると、干し草の上に座らせた。
「パナケアさん。お久しぶりです」
「あぁ。四百五十三日ぶりだね」
「この一年ちょっと。すごく長く感じました」
「人間は時間の流れに敏感だね。そこがいい所でもあるけれど。相変わらず君はびっくりする事が好きなのかい?」
「あれはリュウさんが無茶苦茶するからであって……少し前までは、小さな刺激でも苦手な時がありました」
「と言うと?」
少女は懐かしいような、後ろめたいような顔をしながらも、パナケアに心境を語った。
「……枕の場所、食器の位置、着る服の並び順。朝起きてそれが間違ってる。そんな事に怯えてる時期がありました」
「うん」
「父や他の誰かが動かしたのなら良いんです。でもそうじゃなかったら……記憶が間違ってるという事になります。それは自分の頭がおかしくなったって認める事になるんです」
「なるほどね。でも今は違うんだろ?」
「はいっ!」
少女は笑顔で答えた。
「私は変わったんです。あっ、変わろうと前に進んでいる最中なんです。だから新しい物に触れたい。驚くような毎日がーー大好きです」
「そして、リュウさんも?」
「あぅ、それは……」
少女は顔を赤らめながらコクリと頷いた。
それに対してパナケアは、ふふんと悪戯っぽい顔をして、
「僕は黒き竜と
衝撃の言葉を少女に告げた。
「ふぇ!?!?いっ、いっぱつ!?」
少女は思わず立ち上がり、そしてフニャフニャと腰が砕け地面に倒れた。
「三発だったかな?もう一万年も前の事だから忘れちゃったよ」
勝ち誇った様なパナケアの隣で、少女の口からは魂が抜け始めていた。
「ふふふ、びっくりしたかい?」
ハッと。その言葉で少女は現世に意識を取り戻す。
「って事はですよ!冗談なんですよね!?嘘なんですよね!?」
「さぁてね。僕と黒き竜が短い期間ではあったけど、番いだったのは本当さ。でも、フラれちゃってね」
「元奥さん……今でもその、好き……なんですねよ」
雪山にて。竜に向けて言ったパナケアの激しい求愛発言を、少女は思い出した。
「あぁ。大好きだよ。黒き竜と出会って二万年。忘れた日は一日もない」
「そうなんですか」
「僕は彼の背中を追って、破壊した物を癒し続けた。でも、彼は凄く強くてね。がむしゃらに、それこそ泣きながら飛び回ったのに、全く治癒が追いつかなかったよ。今でも……憧れの存在さ」
短い白い髪を遊びながら、パナケアは当時の出来事を懐かしむ。
「パナケアさん!さ、触っても良いですか!?」
「??ご自由に」
唐突に、少女はペタペタとパナケアの体を触り始めた。
毛先までサラサラのショートの髪の毛。額から突き出た立派な角。大きな目、高い鼻。厚みのある唇に華奢な肩。細いウエストに、引き締まった太もも。
「おおっ!」「これはこれは!」と、少女はどこぞの研究者のおっさんのように頷きを繰り返した。
最後にはその豊満な胸。それを鷲掴みにして上下に揺らす。
「ななな!なんですとーーっ!?私と違いすぎますーーーっ!」
少女は口をパクパクさせながら驚いた。
すぐに自分の小さな胸を確認して、またパナケアの母性の象徴を触り比べる。
「あくまでも竜人の体系は仮の姿。繁殖にはあまり関係のないものだけどね」
「そんな事はありません!こんな立派な物をフッてしまうだなんて、やっぱりリュウさんは女泣かせです!天然ジゴロです!!」
少女の言葉に思わずパナケアも同意する。
「そうかもね。女泣かせなんて言葉じゃ済まないはずさ。雌雄(しゆう)関係無く、その課せられた過酷な使命に竜族なら誰もが敬意を抱くはずさ。添い遂げたい。横に並びたい。弟子になりたい。戦いたい。超えたいーー破壊の黒き竜は、本当に偉大な竜なのさ」
「あのリュウさんがそこまで凄い方だったとは……」
少女の理想を遥かに超える内容。
だが、それと女性を悲しませるのはまた別の話だ。今回の騒動もそうだ。女泣かせは許すまじ。
少女は立ち上がって、杖をでたらめに構える。
「なんだか腹が立ってきました!許せません!私がリュウさんを退治して見せましょう!」
もちろん、少女なりのジョークだ。
フラれたパナケアの立場にたって、明るく慰めるつもりの。ちょっぴりの嫉妬心も入ってはいるが。
「退治か……冗談にもならないね」
パナケアはぼそりと呟いた。
「え?何か言いましたか?」
「いいや、何でもない。そろそろ行こうか」
「久々のドッキリ……なんだか私、緊張してきました。でもリュウさんのお腹が膨れるなら、私はどんな刺激も試練も耐えぬいて見せましょう!」
大好きな竜の役に立てる。と、嬉しそうに笑う少女。
「……うん」
対してパナケアは複雑な表情で返事をした。
途端にこれから起こる悲劇が脳裏に浮かび上がり、熱くなった目頭を隠すように覆う。
少しでも気が緩めば声は震えて涙が溢れる。それは絶対に少女に知られてはいけなかった。
この作戦に二度はない。少しでも勘付かれてはいけないのだ。
だからパナケアは少女の隣で必死に声を殺して、嗚咽を我慢する。
愛する竜の願いを叶えるために。
「パナケアさん?どうかしましたか?」
少女がきょとんとした顔を、パナケアに向ける。
「……あぁ。竜の姿になる準備をしていただけさ。じゃあ、北の大陸へ急ごうか!」
嗚咽を無理矢理に飲み込んで、パナケアは立ち上がった。
「はいっ!!」
すぐにパナケアは神々しい白い竜の姿となり、少女を背中へ乗せ飛び立った。
最後の舞台となるーーパナケアの寝床へと。
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