少女は夢の中で。
『私は独り言が多い』
それは自分でも理解していた。
私の声に反応してくれる事で他人の存在を意識できる。これが小さい頃からのコミニュケーションの取り方だった。
でなければ目の見えない私にとって、他の人の事など分かるはずがなかったから。
“自分の事すらわからなかった”のに、私は他人を分かりたいと思っていたんだ。
それを世間では愚かだというのだろうか。
私は少し前に塞ぎ混んでいた時期があった。
十一歳から十三歳までの二年間。
リュウさんに出会う一年前までだ。
私は当時、自分の顔というものに悩んでいた。
顔すら知らない自分に怯えていた。
触らないとわからない。ううん。触ってもわからない。
本当にこれが顔というものか……自信を持って言えない。
“わからない”が頭をぐるぐると埋め尽くしていた。
ーーそう感じた時。
ぽっかりと。闇の中に落ちてしまう感覚におちいった。
何も無い空間の中でひとりぼっち。
そして現れる輪郭も影も姿を持たない私。
“わからないお化け”。
それが本当の私なんだ……と、どうしようもなくそう思えて怖くてたまらなくなった。
口数が減って部屋にこもりがちになった私に、お父さんはこう言った。
『障害というものは、超える事が出来る人にしか訪れない』という、偉い人の名言を引用した言葉だ。だから私も頑張れ、と。
だけど人という形が分からない私は、それに当てはまるのだろうかと、また疑問を感じてしまった。
私の知っているものは全て想像上の物でしかない。
お父さんでさえも、黙って目の前に立たれたら居ないのと同じ。
口があって、鼻があって、開かない目があって……そこに太い線がいくつもあると。それが私の顔だと。
父は丁寧に愛情を持って教えてくれたがーー私は何も感じる事が出来なかった。
お父さんが説明してくれる世界の殆どが、私の中の想像と不一致していたからだ。
しばらくして、近所の子供達と些細なことで言い合いをした事があった。頭に血が上って、バカになって、ののしり合いを繰り返した。
その時に『変な模様』とか、『汚い目』とか、この盲目の呪いの悪口をいっぱい言われた。
泣きながら家に帰って。でも、すぅーと穴の空いていた自分の顔がーーこの開かない目が、どんなものか分かった気がしたんだ。
わからないがーー分かった瞬間だった。
それから私は少しだけ道化になる事を決めた。
すこし違うな。
“バカな事が出来る人間”になろうって決めたんだ。
そうすれば暗闇の中の居る自分の形が満たされたから。
自分の形が分かると、他人の形も分かるようになったから。
誰かと関わりたい。
世界を知りたい。
自分自身をーー見つけたい。
そう強く思うようになった。
その為に“バカな事にチャレンジし続けよう”と心に決めた。
強い想いは私を行動的にした。
一人で家から出て、知らない所を歩いてみようと思った。
外に手摺などない。お父さんが埋めてくれた置石は庭だけ。
それでも、行ってみようと決意した。
五歩歩いただけで、すぐに未知の世界はやってきた。
見えるはずが無かったけど、後ろを何度も振り返って自分の家があるのかを確認した。
どうしてもビクつく足。踏み出す一歩の感覚は長くなり、二十歩ほどで私は立ち止まってしまった。
ここでーー“バカな事チャレンジ”の発動だ。
私は頭を空っぽにして、暗闇を振り切るように全力疾走した。
すぐに足下で何かにぶつかり、ゴロゴロと派手に転び、村の人の慌てる声が聞こえた。
でも私はまた、暗闇の中の自分のパーツが埋まる喜びを感じた。
次は二十メートル隣のご近所さん、チーヤお婆が飼っているという牛に会いたいと思った。
チーヤお婆とはこの時はまだあまり話をした事が無かった。父の手に引かれて数回だけ挨拶に行った事はあったけど、一人で行った事などもちろんない。
でも。自分を見つけるために。私は前に進んだ。
残念ながら……記念すべき一回目は失敗に終わった。
気が付いたら私は村の外に居た、らしい。
それでも私は諦めなかった。諦めたくなかった。
お父さんの目を盗んでは裸足で歩き埋まわり、土の感触や小石を覚えながら、牛の鳴き声を頼りにチーヤお婆の家を目指した。
引き戻されたり止められたりしながら。十回目にしてついに、自分の足だけでチーヤお婆の家の北に広がる放牧地に辿り着く事が出来た。
だけど、“バカな事チャレンジ”はここで終わらない。
そのまま柵を勝手に乗り越えて、
さらに放し飼いされている牛に無断で近付き、
ついでにあらゆる部分を撫で回している最中に、
ーー思いっきり後ろ足で蹴られた。
突き出していた右手の人差し指と中指が、変な方向に折れ曲がった。
顔見知り程度だったチーヤお婆から何発もゲンコツをくらい、めちゃくちゃ怒られた。
でもそのお陰でチーヤお婆との距離を縮める事ができた。
“バカな事チャレンジ”ーー成功だ。
この話をチーヤお婆に言うと、呆れながらも答えてくれた。
『人の悩みは本当の所で他人が解決出来るもんじゃない。でも一つだけ言える事があるよ。進まなきゃ何も解決しないんだ。だからあんたは、止まる事を知らない太陽みたいな……立派な大馬鹿者さ』
この言葉は私に響いた。
知らない人が何も出来ない自分を認めてくれた。
人に言ったら『馬鹿と言われただけじゃないか』と笑われそうだけど、私はそうは思わなかった。
例えまぬけな自分であっても、私の暗闇の中には少しの輪郭すら無かったのだから。
バカでもアホでも、大切なーー大切にしなきゃいけない自分なんだ。
私の行動が私を作った。
闇を歩いた分、私という人間が分かっていく。
進まなければ。行動しなければ。
わからない自分よりーー『バカな事が出来る自分を選び続けるんだ』
前向きな行動を開始して一年。
怪我もいっぱいしたけど、父親も周りも笑顔が増えていった。私もそんな自分がどんどん好きになっていった。
それでもわからないパーツはまだまだあった。特に心の奥に眠っている気持ちが。
次の計画は父へのサプライズプレゼントだった。
何にしようかと、裏庭でメルメルと相談していた時。
懐かしいような、だけど嗅いだことのないような、そんな不思議な花の匂いを感じた。
あの竜輪草の匂いだ。
そのまま導かれるように、私は霧と呼ばれる所に入り……。
【リュウさん】と出会ったんだ。
出会ったリュウさんは、はっきりと言った。
“この目が腐りかけ”だと。
その不意に投げつけられた小石は心の奥底に響いて、泣き虫な私はその場で泣いてしまいそうだった。
それでもめげずに。仲良くなりたくて。
リュウさんに会い続けた。
怒らせてしまいながらも、話をするうちにリュウさんが良い人という事がわかってきた。正確に言うと人では無かったけれど……。
リュウさんは遠慮をしなかった。
数々の極悪非道なトラップに振り回され続けた。とても高価な物だと聞いていた魔法を湯水のように使って、そう……私を楽しませてくれたんだ。
リュウさんは優しかった。
お腹を膨らますためと言っていたけど……いつだって私を見てくれていた事に変わりは無いんだ。
私も……精一杯、リュウさんの方を向く様になっていた。
竜輪草をくれて。
お喋りを聞いてくれて。
空を飛んで。
都市に連れて行ってくれて。
必死にーー目を治そうとしてくれて。
リュウさんと出会ってからあっという間の三ヶ月だった。
いつのまにか。分からなかった私のパーツが、たくさん埋まっているのを感じた。
顔が、腕が、足が、胸が、気持ちが。
ありありと闇の中に浮かんで見えた。
あの優しいお父さんでさえ、私にすごく遠慮をしている部分があることを知っていた。何気無い会話から夕食の時まで。
それは仕方のないことだと分かっている。
嬉しいし愛情を感じる……だけど、その距離が私の形をぼかしてしまうんだ。
それをリュウさんは造作もなく、それこそあっという間に、私の輪郭を作りあげてしまった。
“わからないお化け”など、簡単に遠くに吹き飛ばしてしまったのだ。
リュウさんが作ってくれた私の姿。
この私は何でも見る事が出来る。
自由に思い描ける。
闇の中で好きな物をーー好きな人を。
******
私は闇の中でリュウさんが見えている。
ひんやりした鱗が。柔らかいお腹が。どっしりとした木のような足が。艶やかな爪が。風を起こす四枚の羽が。いっぱい並んだ歯が。ブヨブヨした舌が。鉄の様な匂いの息が。痛々しい眉間の傷が。人とは違う大きな体が。高らかに笑う声が。
何気無いーーリュウさんの優しさが。
******
私は闇の中で私が見えている。
長い首に呼びかける声を。鱗に触れる指を。引っ張ってくれた腕を。フーッと気にかけてくれる髪を。冷たい物が通った背中を。握ってくれた掌を。必死に治そうとしてくれた目を。
リュウさんをーー『大好き』だと叫びたい心を。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「ん……」
夜の湿気た匂いが少女の目覚めを出迎えた。
残念ながら、夢の中でさえ少女は竜に会う事は出来なかった。
だけど……と、少女は胸に手を当てる。
会えたのは過去の自分。
リュウさんとの出会いをもたらした、踏み出す勇気の大切さを教えてくれた、愛すべき過去の自分達だ。
「……おはよう、ございますっ」
挨拶をしてゴシゴシと涙の後をぬぐう。
ゴロンと。寝そべったまま上を向き、少女は大きく息を吸い込んだ。
「バカな事チャレンジです!!」
少女は闇を振り払う様に叫んだ。
もう決して見失わない。竜が作った自分の形を。
人から笑われるのだ。見たことの無い、太陽のような大馬鹿者になるのだ。
「リュウさんが言っていた“お別れの挨拶”を私はまだ聞いていません!」
それは少女の胸に大切にしまってある思い出。
竜が居なくなる前の一言だった。
「な!の!で!」
「待ってます!私は大馬鹿者になりたいので、おばあちゃんになるまでここで待ち続けますからーーーーっ!!」
少女の思いは立ち止まらない。
暗闇を前に。
一歩を踏み出すと決めたのだから。
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