少女は竜を想う。

 空が寒気たっていた。


 盲目の少女が住んでいる村は比較的温暖な気候となっているが、冬と呼ばれる季節は存在している。

 もっとも雪が降り積もるほど冷え込みはしない。

 村の各家庭には暖炉があったり無かったりという、程度の知れた寒さだ。

 竜を知らないこの地域の人々は、冬の到来を季節のせいと思っているが実はそうではなかった。

 寒波の影響は離れた大陸で役目を務めている、雪竜や風竜の影響によるものだ。



 早朝。

 日が昇ると同時に牛のゲコベエ達や、庭先にいるロバのメルメルは鳴き始める。

 その鳴き声を目覚ましがわりに、少し白みがかった息を『ふわぁ……』と吐きながら、盲目の少女はいつも通りの朝を迎えた。


「おはようーーござい、ますっ」


 ベッドからモゾモゾと起き上がった少女は寝ぼけたまま挨拶をする。しかし、自室にはペット含めて他の者は誰も居ない。一緒に住んでいる父親の自室も一階にある。


 “ひとり言が多い”。


 これが盲目の少女の癖であり特徴だった。


 少女は部屋の壁伝いをフラフラと歩き、タンスの前にペタリと座り込む。そのまま一番下の引き出しを開いて、下着だらけのその最奥に手を突っ込んだ。


 ゴソゴソと探る人差し指が、ザラついたに触れた。


「……あはー」


 嬉しそうに引き寄せて、少女はそれを胸にギュッと抱える。

 大事そうに抱きしめた物の正体ーーそれは軽石のような素材で出来た、薄い本くらいの大きさの【石板】だった。

 石板は父親のガラクタ置き場に置いてあった。

 それを物心付いた時に持ち出して、自室の下着入れの奥にこっそりとしまって置いたのだ。


 安心したように少女は一息つく。

 そして、ガタガタと指に伝わる窪みーー刻まれた文字を確かめるようになぞった。


「……リュウ」


 秘めた想いを乗せて、少女は呟く。


 石板には旧王国文字で確かに“竜”と確かに刻まれていた。

 端には口から火を噴くトカゲのような絵も描いてある。


 少女はこの石板を初めて触った時から、不思議と文字が読めていた。正確には少女が習った点字では無いため『読める』では無く、指の腹を通じて伝わる想像イメージに近いものだが。

 このぼんやりと浮かんだ言葉と、裏山に住む竜に何の関係があるのかは少女には分からない。


 ただ、少女はたまらなく嬉しかった。

 離れていても竜を感じる物がある事に。


「待ってて下さいね。すぐに可愛い子ちゃんが寝床に行きますからっ」


 石板を大切にしまい、少女は外出用の服へと着替え始める。

 お気に入りのローブに袖を通し「よしっ」と頷くと、自室の扉を静かに開いた。


 こっそりと。顔だけ廊下に出して、彼女は階下の様子を探る。

 薬品と食べ物の匂いはほんの少しだけ。これは恐らく深夜まで父親が仕事をしていた残り香だろう。と、少女は推理を働かせる。

 他に気になる物音も聞こえない。


「いけますっ……!」


 生唾をゴクリと飲み込んでから、少女は慎重に階下へと降りて行く。

 階段を降りると廊下があった。その突き当たりが玄関だ。


 家の中の壁には、彼女用の手摺(てすり)が至る所に設置されていた。じっとりと汗ばむ手の平でそれを掴み、床板を鳴らさぬように少女は移動する。


 少しでも早まってはいけない。

 この床板は人の心を読んでしまうから。

 通称“魔女の床板”ーー少女は恨めしい思いを込めて、そう呼んでいた。


 ゆっくりとゆっくりと。一階に寝室がある父親を起こさぬ様に、歩数を数えながら少女は玄関を目指す。


「いち………にぃ………さん…………よーー」


「フェミィ?コソコソしてどこに行くんだ?」


「ぱぅああああああ!?!?」


 突然、玄関から聞こえた父親の声。

 少女は魔の床板を「ギィィヤアアー!!」と鳴らしながら尻持ちをついた。


「おおおお父様!起きていらっしゃっいましたのですますわね!」


「なんだいそのおかしな口調は。また何かのお芝居のセリフかい?」


 パタッと玄関の棚が開く音が少女の耳に入る。父親が室内用の靴へ履き替えているのだろう。


「あはははー……それよりも、ど、どうしてこのようなお時間に」


「容態が悪化した人が居ると夜中に人が来てね。今まで診察していたんだよ。起こすと悪いと思って静かに玄関を開けてみたら……これだ」


 少女は目が見えずとも分かった。

 玄関からーー重くたれこんだ威圧感がヒシヒシと流れてきている。


「そ、そうでございましたか……」


「さぁ、質問に答えておくれ。一体フェミィはこんな時間からどこに行くんだ?」


「……チーヤお婆さんの……ゲコベエのところです」


 少女は顔をしかめながらボソリと呟いた。


「一か月前まではもう少し遅くに家を出ていただろう?」


「それは……」


「チーヤお婆さんに聞いたよ。フェミィは放牧場に行っても、すぐに違う所へ出掛けていくそうじゃないか?どういう事なんだ?」


「その、あぅぅ……」


「目が見えないからと言って、僕はフェミィを縛り付けるような事はしない。でもね、僕は父親なんだ。心配して当然だ。もし何かあれば、お母さんーーシェルレイに申し訳が立たないんだよ」


「ご、ごめんなさい」


 母親の名前を出されて、少女はシュンとうなだれた。


「ーー霧の中に入って遊んでいるのだろう?」


「っ!?」


 核心に触れた言葉に、少女が肩を震わせた。

 父親が知っていたのだと思い改まったのだ。この数ヶ月の間バレていない方がおかしいという点も多々あったのだが、のらりくらりと少女は言い訳を繰り返していた。


「そこで何をしてるんだい?」


「……」


「誰かと会っているのかい?」


「……うぅ」


 父親の質問責め。

 左右の指をくっ付けて、モジモジする少女は答える事が出来なかった。

『リュウさんと言いましてですね。牙が数百本生えていて、翼が四枚もあります。全身には硬い皿のような物がくっ付いていて、不思議な魔法も使えます。そうですね。大きさはこの家より大きいかもしれませんねぇ。あっ、息はお酒と鉄の匂いがするので慣れるまで時間がかかりますけど、慣れたら癖になります。良かったら連れてきましょうか?お父さん』……などと。少女は口が裂けても言える訳が無かった。


 頑なに答えようとしない少女に、父親は深い溜め息を漏らす。


「それはフェミィにとって、大切な事なのかい?」


 コクコクと少女は強く頷く。


「全く。頑固な所はシェルレイそっくりだよ」


 そう言って廊下にーー少女の横に、父親はあぐらをかいた。

 少女の長く青い髪をわしゃわしゃと撫で回し、優しく抱きしめる。


「言いたくなかったら言わなくていい。私はフェミィが悪い事をしない子だって信じてるからね」


 その父親の優しい言葉に、少女は少しの罪悪感を感じた。


「……ごめんなさい。でも霧の中に、本当に本当に私にとって大切な人。リュウさんがいるんです」


「霧か。確かに霧の中はある意味で、この村より安全かも知れないけど……」


 村には野生の猪や野犬などが稀に下りてくる。

 しかし惑わしの霧の近くには、危険な動物は一切近づかない。その事は村の誰もが知る事実であった。同時に不気味がられてもいたが……。

 噂を聞きつけた父親はおてんばなこの娘の為に、わざわざ離れた村からここに引っ越して来て、家を建てたくらいだ。


 恐ろしい破壊の竜が冬眠している寝床とは、つゆ知らずに。


「あっ、間違えました。リュウさんは人ではなくて、馬に近い生き物なんです」


 その動物の名前を聞いて、父親は首を捻る。


「馬のリュウさん……いや、硫酸か。フェミィの名付けるセンスは昔からよく分からないよ。今度は薬品の名前だね」


「違いますよ!リュウさんはリュウさんです!そんな事より聞き捨てなりません!ペロペ・ロンディネス・ゲコベエも、メルメルディン伯爵も、私は自信を持って今までかっこいいと思っていましたがっ!?」


「自信を持つのは良い事だけど、カッコよくはないかな」


「そんなぁー!」


 苦笑いしながら父親は話題を元に戻した。


「つまりだ。フェミィは霧の中で怪我でもした馬を世話しているって事だね?」


 怪我というより、寝起きの竜の腹の世話になる訳だが……。

 少女はうーんと、唸りながらも同意した。


「わかったよ。但し、夜に出掛けるのはやめなさい。次にやったら部屋のドアに、廊下から錠をかけるからね」


「ひぇっ!?」


「……嘘だよ。窓から抜け出そうとして骨を折るのが目に見えてる」


「あははは。さすがの私もそこまではしませんってばー」


「この間、屋根に登って『父上!空を飛ぼうと思ったら降りられなくなりました!お助け下されー!』とわめいていたのはどこの誰だったかな」


 困った人もいるもんだと、少女はとぼけながら笑ってごまかす。


「はぁ。笑い事じゃないよ。ほら、貰ったパンがある。途中で食べなさい。チーヤお婆さんにも分けてあげるんだよ」


「さすが薬剤師のお父さんです!私のお腹事情にもお詳しい!」


「薬剤師は関係ないけど……そういう現金な所もシェルレイに似てきたね」


「あははー。じゃあ行ってきます」


「気を付けて行っておいで」


 少女は父親を一度抱きしめ返すと、杖を握り再び立ち上がった。

 鼻歌混じりで玄関に置いてあったブーツを履き、勢い良く玄関の扉を開く。


「あ、お父さん!」


 くるりと。慌てて少女は廊下にいる父親に振り向き直した。


「なんだい?」


 開いたドアから射し込む朝日。

 父親は眩しげに目を細めながら少女を見やった。


「あはーっ!!」


 光に包まれながら。少女は白い歯をニィーと見せて、満面の笑みを父親に向ける。

 彼女が盲目の呪いにかかっている事など忘れてしまうほどの眩しい笑顔がそこに輝いていた。


「大丈夫。上手に笑えてるよ」


「確認ありがとうございます!ではーーお父さんの自慢の娘、フェミィは行ってまいります!」


 意気揚々と慣れた足取りで隣の放牧地に向かう少女。

 杖は最低限しか使っておらず足取りは軽やかだ。

 風に踊る青い髪は朝日の光と溶け合い、一日の始まりをより美しく彩っていた。


「……フェミィは本当に成長したよ」


 逞しく育った娘の背中を見送りながら、父親はボソリと呟いた。






 ◇◆◇◆◇◆





 日課であるチーヤお婆の家畜の世話を終えた少女。

 もちろん次に向かう所は決まっている。

 竜の寝床だ。


「竜さーん?愛しの可愛い子ちゃんの登場ですよー?」


 少女は竜がいつも寝ているであろう干し草の上で、手をワシワシと伸ばしながらフラついていた。


「あはー。また隠れんぼですかー?」


 ニヤリと。少女は不敵な笑みを浮かべ、ポケットからレンズが二つ付いた物体を取り出した。


「ふっふっふっ。今日は秘密道具を持ってきました。どんなに姿を隠そうとしても、この“お父さん愛用のスケスケメガネ”をかければ何もかもを見抜いてしまうんですよ!そう……リュウさんのいやらしい下心ですらね!」


 盲目の目に眼鏡をかけた少女は、ビシッ!とポーズを決める。


「……」


 しばらく聞き耳を立てて様子を見たものの、返ってくるのは穏やかな静けさだけ。


「せっかく持ってきたのにツッコミすらしてくれませんか……いいでしょう。探偵さんもびっくりするような私の力の一つ、名推理力をお見せしまょう!」


 と言うと少女は顎に手を置いて、ぐるぐると小さな円を描きながら干し草の上を歩き始めた。


「ふむふむ。なるほど……ははーん。私わかっちゃいました。竜さんは今日、ネズミに化けたという事ですね。すなわちーーーー“犯人は最初から探偵の近くに居た”という古典的な手法です!!」


 飛びつくように干し草の下に手を伸ばし、少女は必死にネズミを探した。


「くっ!今日もリュウさんは手強い!そうまでして、私を焦らしてどうする気ですか!早く出てきて下さいよ!この女泣かせ!ムラムラ魔法使い!」


 長い髪を干し草まみれにしながらも少女は懸命に探し回った。

 しかし、いくら探しても竜は欠けらも見つからない。

 次に少女は寝床を端から端まで歩き回った。

 大木の裏を。竜輪草の生え際を。もしかして飛んでいるのでは?と、杖を宙に投げたりもした。


 そんな所にーー竜が居ない事など知った上で。


「……」


 次第に少女は探す事をやめて、ぼぅーっと干し草の上に立ちすくんでいた。

 フルフルと……握りしめた拳が小刻みに揺れ始め、少女の行き場のない不満が腹の底から顔を出す。


「リュウさんの……リュウさんのアホーーッ!!干し草を全部捨ててやるー!寝床に石ころをばら撒いてやるー!」


 少女は思いのままに叫ぶ。


「パナケアさんにもちくってやる!メルメルとゲコベエを連れて来てやる!ここで服を全部脱いでやる!匂いという匂いを擦り付けてやる!それから!それからっ!!」


 喉を詰まらせながら。涙を我慢しながら。少女は竜との繋がりを必至に言葉に変える。

『ーー貴様、喰われたいのか?』という、あの低い声が返ってくる事を願って。


 だが……この静寂だけが、彼女に突き付けられた唯一の答えだった。



 竜が寝床から姿を消して、早一ヶ月が経っていた。

 季節は短い秋を通り越して冬を迎え始めている。目の見えない彼女にとって、寒さというものの負担は大きい。触る物全てが冷え込んでおり、乾燥した肌は些細な擦り傷に気付かずに膿んでしまうことも多々ある。

 特に真っ暗闇から吹き荒れる冷たい枯らしは、突然に杖や持ち物をさらってしまうだけでは無い。

 前に進むという気持ちまでへし折ってしまう。


 それでも少女は毎日欠かさず、この寝床に足を運んでいた。

 今日こそは、今日こそは会える!と毎朝石板に祈りを込めて。


「嘘だって……嘘だって言って下さいよ……」


 少女の中で静かに感情が溢れた。

 どれだけ平静を装っていてもこの寝床に来たら、胸の中の器はいっぱいになってしまう。


「ドッキリでしたって笑いながら出てきてよ!!」


 やがて息が切れた少女は、竜がいつも座っていた干し草の上に小さく三角座りをした。

 そのまま、ゆっくり背中を後ろに傾けていくがーーパタリと。干し草の上に倒れこんだ。


「こんなお別れの仕方…………いやだよ……」


 そこに少女があの夜の日にもたれかかっていた、“竜の大きな脛”は無かった。


「リュウさん……」


 竜と過ごした三ヶ月が、全て絵空事のように感じる。

 この場所には最初から誰も居なくて、全て自分で作り出した妄想では無いのかと。


「……浮かれていました。目の見えない私なんかに、魔法使い様のリュウさんがずっと居てくれる訳ないのに……」


「私の顔がいけなかったんでしょうか。もしくは、私の体が貧相だったとか……」


 男性の好む特徴というものを少女は何気なく知っている。

 だけど、比べた事は無い。家族は父と二人きりだ。

 当然、他所様の身体をベタベタと触った事は無い。

 女性の魅力など彼女にとって確かめようの無いものだ。


「私は……私がわからないんです」


 柄にも無く、少女の思考は卑屈な感情で埋め尽くされていく。

 理由が欲しかった。言い訳が欲しかった。それを別れの言葉にしたかった。


「顔も、体も……私は自分の事が何も分からないんです……」


 干し草に顔を埋める。

 そこからーー少女の咽び泣く声が漏れた。


「リュウさん……もし、もし涙を止める魔法があったら……教えてください……」


 竜が去り、薄くなってしまった竜輪草の匂い。


 その匂いに寂しさを覚えながら……少女は深い夢の中へと落ちていく。

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