二人は同じ目線で。
魔法の霧は夜になると、竜の寝床の上空部分を分厚く覆っていた。そうして僅かな月の光すら届かない完全な闇が寝床には出来上がる。
闇の中で浮かび上がる巨大な目玉。それがギョロリと動いた。
竜にとっては暗闇如きで視界が遮断される事はない。
瞼さえ開いていれば魔法を使い、侵入者の姿を容易に捉える事が出来る。
そうーーいつもとは
「おい」
竜はオタオタと歩く少女を睨んで言った。
「は、はいっ」
上半身を振り子の様に揺らし、慎重かつ丁寧に少女は声の方向に近づいていく。
「……それはなんだ?」
「えっ?デッキブラシとバケツですけど。まさかリュウさん、知らないんですか?」
少女はいつもの杖を持っていなかった。
代わりにデッキブラシを逆さに持ち、それを杖の代用にしていた。左手にはチャプチャプと飛沫を立てるバケツを持っている。
「我を馬鹿にしているのか?一体それでどうするのかを聞いているのだ」
「やだなぁ竜さん。お礼をするって話したじゃないですか。ですから、その大きなお身体を手入れしようと思いまして」
ニィーと笑う少女は自分なりにだが、目の前の竜を理解していた。
認識としては言葉を発するが人間とは異なった種族。大きな口、硬い肌、足は四本。すなわちーーとてつもなく大きい馬のような生き物と。メルメルの遠い親戚と、言い換えても良いのかも知れない。
「貴様は読心の魔法や技法が使えるので無かったのか?」
「魔法なんか使えるわけ無いじゃないですか!目を閉じる魔法は常時発動中ですけどねっ!きゃは!」
まさかの正攻法に竜は目を強く瞑り、首を大きく振った。
竜は少女に触られている時に少しだけ考え、期待していたのだ。この世で一番固い物質を壊してみたいと。
(……どうしてこうなってしまった)
「リュウさんに触っている時、ピン!と来たのですが……ここまでバケツの水を溢さずに持ってくるっていうのは厳しかったですね」
昨日の帰り際の困惑していた少女の顔。
それはどうやって水を上手く運んでこれるか、少女なりに考えていた顔だった。
案の定、バケツの水は何度も溢れたようで、うっすらとしか水は残っていなかった。
「我は魔法で全身の汚れを落とせる。破壊の神を舐めるな」
「ま、魔法ですか?」
「ゆくぞ」
竜はフンッと鼻息を鳴らすと、少女の身体の汚れを破壊してみせた。
身体の変化に気付いた少女は、クンクンと爪の匂いを嗅ぎ「メルメルのヨダレの匂いが消えてる!」と何度も驚いてみせた。
「故に手入れは必要ない」
「でも……メルメルもゲコベエもこれで擦ると気持ちいいって喜びますよ!リュウさんも試してみましょう!」
「我と家畜を一緒にするな」
「でも……」
「必要ない」
「あぅ……」
竜はうなだれる少女のローブの裾に目が止まった。見ればポトポトと泥水がしたたっている。ブーツにも何層にも重なった泥がこびり付いていた。
(何度か汲みに戻ったのか?あの目の見えぬ身体で……)
竜は大きなため息を吐いた。吐息の中に服の汚れを破壊する魔法を込めて。
「ーー好きにしろ」
うつむいた少女の顔がパァっ!と輝いた。
「はいっ!!」
こうして少女のブラッシング大作戦が始まった。
と言っても目の見えない少女と大きな竜。全身を擦れる訳もなく、届く範囲で鱗をせっせと磨いていく。しばらくすると、それはすぐに過去形になった。
ガラスのような鱗に興味が湧いたのか。少女はペタペタと触り、抱きつき、頬も擦り付けた。
キョロキョロと周りを伺った後に、ペロッと味見もした。
終いには「そうか。そうか」「いい子だね〜」と鱗と会話を始める始末。
竜はトグロを巻いてジッとし、少女の好きにやらせた。
竜は何も感じない。全身を覆う分厚い鱗には毛ほどの感覚もないからだ。
(数々の無礼な振る舞いにも、我の破壊衝動は目覚めぬか)
気付くと少女が持つデッキブラシの使い方がおかしくなっていた。歌い踊りながら、舞台演者のようにクルクルと振り回して遊んでいる。
「ルララ〜。メルメルが申し訳無さそうに〜。私の太ももで〜。涎を拭いている事を〜。私は知っている〜。それでもメルメルは可愛い〜」
ご機嫌に歌う少女が勢いよく腕を振りかぶる。
その時ーー少女の手からデッキブラシがすっぽ抜けた。
「わわわ!私のステッキが消えました!」
(いつからステッキになったんだ……おぐっ!?)
宙を飛んだデッキブラシが、竜の大きな目玉にぶち当たった。
「リュウさん!私のステッキを取り上げましたね!もぅ、いたずら好きの子供みたいなんだからっ」
メッ!と人差し指を立てて、少女は竜に注意した。
(こやつ、本当に殺してやろうか)
竜は仕返しとばかりに宙に小さな氷を精製した。
ローブに隙間をつくり、背中にするりとそれを入れる。
「ひゃいん!?リュ、リュウさん!ヌルヌルした虫が背中に入ってきました!なんか冷たいです!取ってください!」
少女は必死に手を伸ばした取ろうとする。
が、竜はその氷を魔法で操りそれを拒否した。
「あひぃ!これはダメ!私にも見える!色っぽい光が見えてしまうっ!」
(色っぽい光とはなんだ)
少女は倒れこみ海老のように、何度も身体を仰け反らした。奇声を上げゴロゴロとのたうち回る。
「あっ!んっ!これは大変な事が起こっています!何かに目覚めてしまいそうです!リュウさん!見ないで!新世界に突入する私を見ないで!ひゃひん!」
「……フハッ」
竜が、声を出して笑った。
「フハハハハハッ!!」
「リュウさん!笑ってる場合じゃないですよっ!あひんっ!」
竜は自然と心の中で笑う事をやめていた。
「貴様の驚いている顔は最高だ!実に愉快だ!」
閉じた目にも関わらずコロコロと変わる表情に。奇抜な動きと発言を繰り返す、その行動に。
感情が抑えきれなくなっていた。
そしてリュウの腹の中にまた満腹感が生まれた。破壊衝動が満たされたのだ。
(そうか……我はこの人間の表情を壊したいと思っていたのか)
「リュウさん!まさかプレイが始まってるんですか!?待ってください!今日の下着の色を確かめないと……あっ!私、色が見えないんでした!」
「フーハッハッハッハッ!!」
「待ってください!リュウさん、チラッとだけ見せますからパンツの色を教えて下さい!」
「やめろ!腹がよじれてしまうわ!」
「クマさんはダメ!クマさんはダメ!ピンク来い!ピンク来い!」
「フハハハハハハ!!!」
それから竜は少女が勝手に話す人間の暮らしぶり(大半は少女の愚痴)に耳を傾けた。
◇◆◇◆◇◆
「そうなんです!お父さんは、もう少し私の気持ちを理解しても良いと思います!(そうだそうだー)(娘の好きにやらせろー)(ストライキを起こすぞー)」
デッキブラシをマイク代わりにして、少女は一人三役の演説を始めていた。
「私はメルメルやゲコベエの気持ちがわかるんです!危ないと言われても動物の世話をしたいんです!後ろに立っても、蹴られた事は一度もないんですよ!(本当だぞー)(本当に本当だぞー)(三回くらいは蹴られたぞー)」
「親が子を心配するのは、どの生き物も変わらぬ」
「それはそうですけど……リュウさん、どうやったらあの高慢ちきなお父さんを説得できますかね?なにか良い案はありませんか?ーーそうだ!牛にまたがる練習をしよう!きっと乗りこなして見せれば、お父さんも納得してくれるはず!」
そう言って少女は牛にまたがるロデオの真似をした途端、小石につまずき盛大に転んだ。
「ふぎぃ!!」
ローブがめくれ上がり少女のパンツが丸出しになった。恐れていたクマの柄が前面に押し出された可愛いらしいパンツだ。
「フハハ!貴様は落ち着いて話す事が出来ぬのか」
少女はすぐに立ち上がり、竜にズカズカと迫っていった。
「うぅぅーー笑いましたね!突き出された私のセクシィ〜なお尻を見て笑ったんですね!心外です!そこは“良いお尻だよ”とか!“可愛いパンツだね”って褒めるところですから!お尻もパンツを見たことは無いですけど!」
顔を赤くしながら少女は拳を上げて訴えかける。
「尻など見えぬわ」
竜はフンと鼻息を鳴らした。
「なぜです?私と違って、リュウさんは目が開いているのでしょう?」
少女は顎に人差し指を当てながら、うーん、と首を捻った。
「……我も今、目を瞑っておる」
静寂。
二人の間に不思議な空気が流れた。
トクン、トクンと強くなる少女の胸の鼓動。
それが漏れてしまわないように少女は両手で優しく蓋をした。
少しの間を置いて。
少女は手探りで、とぐろを巻く竜の前足を探した。大きい指をよじ登り足の甲をペタペタと確認する。木の幹のようなすねに背を預け、三角座りをする。
「……リュウさん?」
「なんだ」
「私、もっとリュウさんとお話がしたいです」
「構わぬ」
霧の深い竜の寝床から、囁くような声と喉をグルルと鳴らす声が聞こえる。
【盲目の少女と破壊の黒き竜】
闇の中。大きな竜と小さな少女は、同じ目線で話を続けた。
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