少女は竜に触れ、竜を知る。

 竜は今日も溜め息をついた。理由は言わずもがな、だ。


 少女は杖をコンコンと地に当て、竜に近づいては、霧の手前まで遠ざかる。それを何度も繰り返していた。

 ちらりと顔をあげては、威圧感を感じる方向へ「えへっ」や「にへっ」といった申し訳なさそうな、小馬鹿にするような、半笑いの笑みを投げかけていた。


「ええい!うっとおしい!姿を見せるなと何度言えばわかるのだ!」


 しびれを切らした竜が吠え、霧の中に迷い込んでいた小鳥が一斉に飛び立った。


「すいません!すいません!」


 竜は怒りに任せ大きな前足を鳴らす。「ドゴォン!」と、大きな窪みができ、振動で浮いた少女は盛大に芝の上を跳ねた。


「ひぇぇ!リュウさんすごい地震です!逃げましょう!山の神様が怒っています!どうしよう!どうしよう!」


 我は破壊の神、野山の神如きと一緒にするな!!そんな怒りを込め、竜は何度も地を踏み抜いた。

 その度に少女の軽い体は、ボールのようにポーン、ポーン、と宙に浮かび上がった。

 抵抗など出来るはずもなく、少女はフライパンの上の炒め物のようにジャンプを余儀なくされた。


「ひょえ!リュウさん!」

「ほぇ!大丈夫ですか!」

「にゃわ!?返事をっ!」

「してくだっ、ひゃん!」


 跳ねながら目の前の実行犯を心配する少女に、竜は呆れる。


「して、何なのだ。貴様は本当に殺されたいのか」


「お、お花のお礼がしたくて」


「礼だと?」


「お父さんがあの花は学術的に凄いものだと褒めてくれて。それを聞いて私、どうしてもお礼がしたくなって……来ちゃいました!!」


 少女は言い切った。はっきりと。

 なにやら礼とは別に決意めいた顔をして、覚悟を決めた拳はグッと胸に添えている。


 ふと、竜は神として信仰された時代があった事を思い出した。


(余興としては悪くない)


 しかし少女はどう見ても手ぶらだ。酒ビンの一つも持っていない。供物として食おうにも目が不味そうだし、腹が減っているわけでもない。


「お前の言う礼とはなんだ。舞か、それとも芸か」


「ーー触ってもいいですか?」


 竜はあんぐりと口を開けた。


「お前は何を言っている??」


「触らせてください!触りたい!触りたい!」


「ふざけるなっ!」


 駄々をこねる少女を、竜は一喝した。

 少女も負けじと対抗する。いつになく、少女は強気だった。


「私、触らないとわからないんです!どんな姿をしているか、どんな顔をしているか、どんな物が欲しいのか!それが触るとわかるんです!」


「なに?」


 精神系の魔法、それに準ずる何か。竜はそう悟った。そのような人間を食べた事もある。


「魔法、それに読心といわれる技もあったな。目が見えぬ分、触診に力が偏るか……。ふむ、我に人間の小手先など効かぬと思うが、良かろう。試しにーー」


 竜の言葉を遮って少女が両手を突き出した。


「わーーー!!あのっ!勘違いさせてたらごめんなさい!いやらしい事は出来ないです!その、興味が無いって言えば嘘になるんですけど……準備!そう!心の準備が出来てなくて、作物で言えば土をならしている最中……と言いますか!でもこの通り……私は目が病気でそういう対象に見られないと申しますか。あぁ!移ったりはしないですよ!えぇ!こう見えてお父さんは薬の研究をしていますから。だから、それでも気にしないで下さるなら、このチャンスを逃したく無い自分もいると言いますか!あぅ、その、ちょっとだけ!ちょっとだけなら!」


 少女は頬に手を当てながら、身をよじらせた。


「聞け!」


 黙って聞いていた竜はカッ!と目を見開いた。


「はっ、はい!」


 始まった!暴走する少女はそう感じた。

 誰から聞いたか、男らしく言い切った口調は亭主関白の第一歩。すなわちリードと呼ばれる所作である、と、少女は身を焦がした。

 身なりを正し、髪を手櫛でといて、ぎこちない精一杯の笑顔を竜に向けた。


「長い」


「っえ!?長っ?えっ、なんですか?」


「貴様は言葉が、話が長いのだ」


「えっと、プレイは……」


「なんだ、ぷれいとは」


「いえいえ!こっちの話です!気にしないで下ひゃい!」


 赤面する少女が、突き出した両手を慌てて左右に振った。


「ごめんなさい。リュウさんが“人間”だと思ったら、その、少し興味が湧いてきちゃって……」


 ここで竜はまたか、と顔をしかめた。


(クマだなんだと言ったと思えば、また我を人間と認識している。ここで怒るのも悪くはないが、“竜の形”というものを知れば……こいつはまた、面白おかしく驚くのではないか?)


 食べる事はいつでも出来る。そう。竜にとってはただの気まぐれだった。


「まぁ、特別に触れる事を許してやらんでもない。ただし条件があるーーじっくり触れ」


 その言葉に、少女は開いた事のない目を見開いた。もちん心の中で。


「じ、じっくりですね。わかりました」


 ズシン、とその巨体を少女の前に横たらわせる。羽根を畳み、頭も限りなく地に近づけた。


「触ってみろ」


 少女は胸を高鳴らせ、そっと手を突き出した。

 触れたのは竜の後ろ足。頑強でガラスの様な光沢を放つ鱗の部分だ。


「固いですね。でも少し凹みます」


「そこは足だ」


「あ、あし。なるほど」


 なぞるように竜の下腹へと手は移動する。足とは違い、この部分は柔らかい。ゴムの様な手触りだ。


「それは腹だ。もっと左に来い」


「な、なるほど」


 ペタペタと触りながら、折りたたまれた前足、首筋を通り過ぎ、顔へと辿り着く。


「今触っているのが顔だ」


「どれですか?どれが顔ですか?」


 そんな訳ないじゃないですか、と言いたげな少女は大きく広げられた口から覗く牙を触っている。


「今触っている全てだ」


「リュウさんも冗談が好きなんですね。これは鎧か何かでしょう」


「鎧かどうかーー確かめてみろ!」


 竜は少女の半身を頭から咥えると、大きな舌で少女の体を舐めまわした。


「ひぃぃ!なにが起こりました!?ブヨブヨがヌメヌメがベロベロがあああぁぁぁぁーーっ!!」


「そこが我の口の中だ」


 数分後。

 上半身がベトベトになった少女が口から吐き出された。



「どうだ?人間より巨大な口である事がわかったな?」


「はいぃ〜。夜中に牛小屋に忍び込んで、気が付いたら眠ってしまい、朝方ゲコベエに舐め回されて起こされる……それよりすごいベロベロでした」


「柔軟で鋼より固い皮膚。大きな口。鋭い牙と尻尾。それが竜だ」


「思い出しました……。遥か昔に居たとされる、鎧を着た“大きな巨人族の話を。その名をーーリュウ」


 少女は満面の笑みで竜に微笑んだ。


「だあぁー!!違う!人から離れろ!竜だ!我は竜なのだ!どうしたらわかってくれるのだ!」


「リュウさんですよね?それはわかってますよ?」


「そういう名前の意味ではなくーー」


 竜はここで重大な事に気がついた。

 もしやこの人間は竜という言葉、意味自体を知らないのではないか?と。


「貴様は竜を知らないのか?逸話や伝説で語られる崇高な存在だ。どこかで聞いた事がないのか?」


「うむむむ。すいません。私は親からも村の人からも聞いた事がありません。伝説の奇跡クマなら知ってますけど」


「……なんだと?」


 竜に焦りの表情が伺えた。

 数千年前。この地域の人間を一度、滅ぼしかけた。それ故に、人間にとって竜とは災いの象徴としても知られているはずだが……。まさか、口伝しなかった?どこかで伝承が途切れた?

 数百の街を火の海に沈めたというのに、そんなふざけた事が果たしてあり得るのか。

 それとも竜の被害や貢献にたまたま出会わなかった地域の人間が、移住してきたのか。


 確かめるべく竜は苦しくも、とある事実を口にする。


「言いたくは無かったが……体はトカゲを大きくしたものに似ている。トカゲに似た生き物の伝説を知らないのか?」


「トカゲですか?すいません。捕まえた事が無くて。素早い生き物は触った事が無いんです。でも!メルメルやゲコベエは寄ってきてくれます!」


「……そうか」


 肩を落とした竜は説明を諦めた。

 竜の伝承を知らぬ者に、真の恐ろしさを伝える事は困難だ。

 まして、目の見えぬ少女に理解させるなど不可能に近い。


 半ば自暴自棄になりながら、先程捉えた魔力の波長を竜は少女に教えた。


「雲の竜の気配を感じた。これから雨が一降り来るだろう。濡れたくなければ早く帰れ」


「本当ですか!?私、本を外に置きっぱなしにしてたんです!」


 少女は大急ぎでペコペコとお辞儀をした後に、


「でも……私分かりましたから。リュウさんの事をちゃんと触って理解しましたから……」


 と言って背中を向けた。

 竜は答える事なく、去りゆく少女の背中を見つめている。


「……何処に向かっておる。帰り道はそちらではないだろう」


 目が見えなくても帰る方角を間違わない少女が、初めて帰路を間違えた。


「は、はいっ!すいません!」


 振り返り、ペコペコと感謝をする少女の顔は若干引きつっていた。


 竜は無理も無いな、と瞼を閉じた。

 想像していた人間とは違ったのだ。想像ではなく、期待だったのかも知れないが。

 竜の真の姿はわからないだろうが、言葉を話す大きな生き物程度には感じ取れたはず。そして食われかけた。


人間から見れば、十分“化け物”と呼べる存在だ。動転して帰り道が間違っても仕方がない。


(もう来る事もあるまい)


 竜はグルルルと喉を鳴らし、その意識を薄めていった。


(あの者の驚いた顔をさかなに、また長き眠りにつける……)

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