竜神の末裔

わたなべ りえ

第1話


 深い森が続いている。

 地まで差し込む日差しはなく、今が朝なのか昼なのか夜なのか、はたまた、晴れているのか曇りなのか、それすらもわからないほどの閉ざされた薄闇の世界。湿った密度の濃い空気が満ちている空間である。

 その世界には異質な女の影が、木々の間を進んでいた。

 鳥の声、動物の声すらない。

 ひとりで歩くには危険すぎる場所だと思われるが、女はたったひとりで歩いてゆく。

 女は転ぶ。その時にサンダルが脱げてしまったが、女は履くこともなくそれを見捨てて歩き続けた。

 一歩踏み出すごとに足元から水が滲み出る。腐葉土と苔のせいで、何度か転んで膝をついたので、女はたいそうりっぱな衣装にも関わらず、貴人には見えなくなっていた。

 結い上げた髪は、半分落ちている。森を歩くには邪魔そうな長い袖と長い裾の衣装。鮮やかな染めであっただろうその柄は、泥でよく見えない。金糸を織り込んだ朱色の帯だけが、女の身分の高さを主張していた。

 その装いから、沙地の国の女と思われる。

 このような遠くまでくるには、さぞや苦労があっただろう。そう、女は最初は一人ではなかった。

 王宮から翼竜に乗って飛び立ったときは、三人だった。

 一匹は、途中で敵兵に打ち落とされ、女の目の前で敵軍の渦の中に墜落していった。乗っていた者は、おそらく死んだだろう。それでも彼は、墜落の際に敵兵を巻き込んだことで、満足したのかもしれない。

 もう一人は――女の夫であったが――翼竜を降りてこの森に入る手前、敵に囲まれた時におとりになった。女が森に駆け込む頃には囲まれてしまったようだが、その場で首をはねられたのか、捕虜になったのかはわからない。

 夫を見ることなく唇を噛み締めただけで、気づかれぬよう禁断の森へと足を踏み入るしかなかった。そして今に至っている。

 夫を犠牲にしてでも、女には果たすべき使命があった。



 沙地の国の女王・紗羅しゃら

 それが、この女の主人の名。女の名は珠耶たまや

 赤子の頃は乳母として、長じてからは付き人として、珠耶は常に紗羅の横にいた。気さくな明るい性格の主人とは、親子とも友人とも言える仲であった。

 紗羅は十六歳。女王になったのは、わずか一年前のこと。

 濡羽色の髪と白い肌、群青の瞳を持つ美しい少女である。声は明るくはりがあり、よく通った。笑顔は国民を幸せにした。

 しかし、ただのお飾りともいえる女王の地位だった。

 隣の大国風輪が、実質上の沙地の支配者であった。

 長い戦いの末に両国は同盟を築いた。が、それは建前である。

 多くの民も他の国の指導者も『沙地の国の王家は、竜神の末裔でなければならぬ』と思っている。そうしなければ、この国を築いたという竜神が天より舞い降りて、大地を砕くと信じられていたからだ。

 たかが迷信であっても、土着信仰は侮れない。

 しかも、過去には風輪と似たような支配国が災害で滅ぶという、この神話が事実であるかのような例があった。

 風輪の大王はそれを恐れ、紗羅を傀儡の女王としたのだった。

 だが、彼女はその地位に甘んじるには聡明で賢く、一筋通った少女であった。女王の人気に恐れを抱いた風輪の大王は、息子を彼女の婿として沙地の国に送り、実質の王に据えようと画策した。

 紗羅はそれに抵抗し、沙地の王宮に篭城したのである。

 しかし、戦況は優位に働かず。

 敵兵に囲まれ、民人を盾に、決断を迫られていた。

 風輪の息子のものとなるのか? それとも、民人を巻き込んで玉砕するのか?

 どちらも選べない。

 紗羅は自らの命を絶って、最後の抵抗を示す決意をした。だが、珠耶をはじめ、多くの臣民がすがって思い留ませ、七の日だけ待つようにと進言した。

 しばし風輪に従うふりをし、救いの手を待つようにと。

 そして、万が一救いがなければ……その時は婚姻の前に命を断ってもかまわぬと。



 女王を救うこと。それが珠耶の使命である。

 方向を見失って、珠耶は懐から瑠璃石を出した。掌に置くとかすかに震えて、向かうべき方向を示す。

 やがて水の激しく落ちる音。珠耶の足は速まった。

 木々に木々が絡まっている。宿木や蔦がまるで帳のように垂れ下がる。

 かき分け進むと、音は徐々に大きくなり……やがて、開けた場所にでた。

 突然、緑を引き裂いたかのような荒々しい黒い岩盤が顔を見せた。

 そこを滑り落ちるように水が激しく踊っていた。


 瀑布。

 はじけ散る水の珠。

 かすかに差し込む光。

 虹を生み出す水煙――


 しなやかな布のようにも見え、荒々しくのた打ちまわる蛇にも見える水。

流緒るお様」

 珠耶は滝に向かって声をかけた。が、何も応えるものはない。

 ただ、激しく水が踊るだけである。

「流緒様、お願いです」

 崖から転げ落ちるようにして、珠耶は滝の下へとやってきた。そして、滝の流れの中に潜む者に、再び声をかけたのだ。

 かすかに人影のようなものが浮き上がった。

 真白い髪は、ゆらりゆらりと流れ落ちて水と同化する。水の中で固くふさがれた双の瞼、そして口元。

 白い着物に青い帯をしていたが、両肩を落としていたので上半身は表にさらされていた。その脇の部分に青白い鱗が見え隠れし、水の踊りと光の戯れによって、七色に輝いた。

 まるで水煙が作り出した幻かと思えたが、この人物こそが珠耶が探していたその人である。

「お願いです。紗羅様をお救いくださいませ」

 水の中の男は、その名を聞いて初めてうっすらと目を開けた。 

 血の瞳である。そして、爬虫類の目である。


 ――人ではない異形の美しさ。


 二年ぶりに、この竜人の容姿を目にして、珠耶はぞくっと震えた。

 男は滝に打たれてはいない。滝と一体化しているのだ。

 肌は透き通る水のごときである。唇はすでに色がない。呼吸もしていないのではないだろうか。まさに滝の水の中で、その男は身じろぎもしなかった。

「流緒様……」

 珠耶の呼びかけに、男は答えることはなかった。

 一度だけ、赤の眼球をくるりと返し、そして再び目をつぶる。

「ああ、流緒様。紗羅様をお救いしていただけぬのでしょうか……」

 流緒と呼ばれた異形の男は、今や再び滝の流れに消えかけている。


 ――ああ、せっかくここまで来たというのに……。


 珠耶は地面にひれ伏した。

 そして涙を流し、顔を泥だらけにして訴えた。

「流緒様が私を憎むのは、当然でございます。ですが、紗羅様はあなたを……兄であるあなた様を慕い、愛したではございませぬか? その妹を、あなた様は救ってはくださらぬのか?」

 流緒はやはり動くことはなかった。ただ、白い髪だけが水の中で踊っていた。

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