大進生昌が家に
私が宮中に戻った年の四月、伊周様と隆家様の罪が赦されることとなった。
世の中が道長様のものと固まった今、もはやお二人が脅威とはなりえないと判断されたのだろう。もちろん、これは公任様の受け売りである。
公任様は、私が宮仕えに復帰してから、また斉信様と連れ立って、よく箏を聴きに来てくださるようになった。
しばらく見ないうちに、今度は、新しいお仲間も加わっている。
「頭の弁、藤原行成だ。生真面目で面倒な男だが、面白い奴だぞ」
「よろしくお願いします」
そう頭を下げられて、私も慌ててお辞儀をした。
「なるほど、箏でお話しする女房というのはこの方ですか」
冷静に分析されて、少しだけむっとした。
「ああ、気を悪くしないでおくれ。彼、少し変わっているというか、思ったことをそのまま口にしてしまう性質でね」
私の気持ちを悟ったのか、斉信様がそう補足した。
「まるで少し前の誰かさんのようね」
清少納言がそう言って私をからかうが、知らん顔をした。今は口に出すこともないのだから、関係がない。
斉信様のおっしゃる通り、行成様は変わった方だった。
「目が縦について、鼻が横になってしまっているような不細工でも、顎と首のあたりや、声が綺麗な人だったら充分ですね。それでも不細工はあまり好きになれませんが」
人の容姿について、こうも明け透けに言う人は清少納言以来である。
しかも、この方は空気を読まないから、容姿について常日頃から悩んでいるような女房や、声を出せない私の前でも平然と同じように言ってのけてしまう。
行成様のご退出後、その歯に衣着せぬ物言いに傷ついた女房たちが部屋で泣き騒ぎ、恨みを口々に言い合っている。
清少納言と行成様は、父が歌人という共通の話題と、似たような感性ですぐに意気投合したようだ。
周りの女房たちが行成様のことをあしざまに貶すのに、彼女だけは彼の才能について理解しているようだった。
確かに、行成様の字はとても美しく、彼の書は誰もが欲しがる代物である。
しかし、どこかが長ければどこかが欠けてしまうのが人間という者のようで、彼の人付き合いの下手さは、声がないと言われる私にも匹敵するほどであった。
彼がまともにお話をするのは清少納言だけで、中宮様に何か取り次ぐというだけでもわざわざ清少納言を呼び出していた。
「部屋にいた時だけならまだしも、この間なんて少し里帰りしただけなのにわざわざ訪ねていらしたのよ」
「私が言えたことじゃないとは思いますが、そんなことでお仕事に支障はないんでしょうかね」
「さあ……。でも、このままじゃいけないと思うのよね」
清少納言は顔に手をあてて考え込んだ。そして、「そうだ」と声をあげる。
「今度行成様がいらっしゃったら、あなたがお相手してさしあげなさい」
「は? 無理ですよ。私のことを箏で話す女だと言っていたのを知っているでしょう。相手にされませんよ」
「まあ、そう言わないで。他に頼むきっかけになればいいだけだから」
私との会話を諦めて、他の女房に頼めば、それはそれで成功ということだろうか。
「少し腑に落ちませんが、いいでしょう」
「助かるわ。でも、私は行成様とあなたも似ていると思うのよ」
巷で変わり者だと評されている人に似ていると言われても、あまり喜べない。
別な日、行成様が中宮様のお部屋にいらっしゃった。
皆で示し合わせて、清少納言を後ろに隠す。
私が行成様の元に参った。中宮様は私たちの企みを楽しそうに御覧になっている。
「清少納言はいますか。取次ぎを頼みたいのです」
私は御簾の隙間から紙切れを差し出す。
『私がお受けいたします』
それを見た行成様は、怪訝な顔をする。
「お部屋に下がられているのですか? それならお部屋に伺います」
そうやって立ち上がろうとなさるものだから、慌てて着物の裾を掴んでしまった。
「何ですか、追いすがられるほどあなたとお話しした記憶はないのですが」
そうは言いつつも、座りなおしてくださった。
『どうして、清少納言にこだわっていらっしゃるのですか? 御用なら近くにいる私たちでも承りますのに』
そう書いてお渡しすると、行成様は「そういえば」と声をあげる。
「今日は箏でお話しされないのですね」
話をそらされた。しかし、弾けと言われて弾かないわけにはいかない。
今は箏が私の声なのだ。
声の良い女性がお好きということならば、箏の声ほど美しいものはあるまい。
奥にやっていた箏を持ってくる。しばらくは黙ってその音に耳を傾けていた行成様だったが、私が怪訝に思っていることを察したのか、やがて口を開いた。
「弾いたままお聞きください。『女は己を愛するものの為に化粧をし、男は自分を理解するものの為に死ぬ』という言葉があります。私はそういう男でありたいのです。私を理解する人の為に生きて、死にたいと思っているのです」
私は指を止めた。振り返って、首を横に振る。この方を私が説得するのは無理だ。
清少納言が苦笑いでこちらにやってくる。
「何です、いらっしゃったのではありませんか。私をからかったのですね」
「違いますわ。あなたがあまりに頑なだから、このままでは苦労なさるのではと心配したのです。私が言ったところで聞き入れてくださらないから」
「これは私の生まれながらの性分です。『改まらざるものは心なり』と、かの白居易も歌っているではありませんか」
「それでは、その性分を改めることを『憚りなし』と言った論語はいったいどういうことでしょうね」
清少納言がこう反論すると、行成様は楽しそうにお笑いになる。
「こう言われては分が悪い。私は用事だけ済ませてもう帰りますよ」
こうして、ようやくお取次ぎが済んだ。
「あれほど強く想われているのなら、むしろ喜んで良いのではないかしら。これからも積極的に相手をしてあげなさい」
中宮様は根負けしてしまった清少納言が面白かったようで、そう言ってからかわれる。
それから、行成様は相変わらず清少納言を呼び出し続けていたが、彼女の反論も少しは効いていたのか、部屋に下がっている時などは他の女房にも声をかけることが増えた。
この翌年、
姫様は、頬のふくふくとした感じや、笑い顔など、母上によく似て、とても可愛らしい。
袴を引きずりながらお歩きになる様子など、見る者が皆笑顔になってしまうほどだ。
子供らしく好奇心旺盛で、色々なものに興味を持たれている。
私が箏を弾いている様子を一生懸命に御覧になられた時は、緊張して指が震えてしまった。内親王様とはいえ、子供相手に心を乱されるのは情けない。
「これ、なあに?」
姫様は箏を指さすと、真っ直ぐに私を見つめる。
私が固まってしまっているので、すぐに藤大納言が助けに入る。
「箏という楽器でございます。この弦をはじくと音が出るのですよ」
藤大納言の言葉に合わせて弦をはじいてお見せすると、姫様は目を輝かせなさる。
そのまま手を伸ばして、弦に触れる。びょん、という小さな音がした。
思ったように音が鳴らなかったことがご不満なのか、姫様は眉根を寄せた。
再び弦に触って、今度は力任せに引っ張ろうとなさるので、思わずお止めする。
「いけません、御手が切れてしまいます。それに、楽器は大事になさるものですよ」
嫌がる姫様を抱き申し上げて、藤大納言が優しく諫めた。
「箏の音を聞くのでしたら、菅式部が弾きましょう。何しろ、箏で話すと評されるほどの腕の持ち主ですから、きっと綺麗な音が聞けますよ」
藤大納言は、私相手だと思って、適当なことを申し上げる。箏で話すと言っているのは行成様くらいなのに。
「お話できるの?」
姫様はそうおっしゃって目を輝かせる。ほら、言わんこっちゃない。
その純粋な目を見れば、ご期待に添えないわけにはいかない。
私は、できるかぎりの微笑みをたたえて箏に手をかけた。
子供のお喋りなら、楽しく、跳ねるように。
堅苦しい舞曲などは弾かない。全て即興だ。
公任様の特訓がこういう時に役立つとは思わなかった。
「きれい」
そうおっしゃって、姫様が藤大納言を振り仰がれる。
「ねえ、何て言ってるの?」
「えっ」
さすがの藤大納言もこの問いかけは予測していなかったらしい。
藤大納言が言い淀んでいるのを見て、私は口を開いた。
「ひ、姫様と、お話が、できて、う、嬉しい……と申し上げました」
途切れ途切れだったが、なんとか声が出た。
私がお答え申し上げると、揃って目を見開く。
「菅式部……あなた、声……」
「ほんと?」
驚きを隠せない藤大納言に比べて、姫様は嬉しそうに身を乗り出す。
実のところ、この状況に一番驚いたのは私である。
最後に中宮様のお部屋でお話ししたのが、姫様がお生まれになる前だったのだから、それも当然だろう。
けれども、一度話せると確信したら、勢いがついた。
「はい、それはもう、飛び跳ねるほど、嬉しゅうございます」
そう言って、跳ねるように弦をはじく。
姫様は「私もうれしい」と満面の笑みである。
それから、二人で他愛のない会話をした。
私は滑らかに話せない分、丁寧に箏を弾いた。
私が話に合わせて箏を弾いているのが楽しかったご様子で、弦をはじくたびに、くるくると表情が変わるのが可愛らしかった。
よほどお気に召したのか、しばらくは私が参上すると、箏を触りながら「お話」と言ってせがむようになられていた。
私も姫様とお話しすることで、徐々に、以前のように人前でも臆することなく話せるようになっていった。
目の前で無邪気にお笑いになる姫様を見ていると、この方の笑顔だけは何としてもお守り申し上げたいという気持ちになるのだった。私は、この笑顔に救われたのだ。
年が明けて、道長様の長女でいらっしゃる彰子様がいよいよご成人なさる。
道長様が自分の娘を帝の妻として入内させるおつもりなのは、誰が見ても明らかであった。
このままでは、帝の御寵愛さえも頼りないものになるのではないかという不安が私たちを取り囲んだ。
そんな中、再び中宮様にご懐妊の兆しがあった。未だに帝には皇子がなかったので、皆、次こそは皇子がお生まれにならないだろうかと期待をかけている。
しかし、中宮様は出家されていないとはいえ髪の短いままだったので、このご懐妊にいい顔をする人ばかりではなかった。
中宮様と私たち女房は、出産の準備のため、中宮大進という三等官に就いている、生昌という男の自宅に行くことになった。
八月のことであった。生昌の家は門が小さく、女房車も中に入れないような造りだった。
おかげで、私たちはわざわざ車から降りて、人に見られながら屋敷の中に入らなければならなかった。
中宮様とその女房が、出産というのに、このように門も立派に構えられないような下の者の家に身を寄せなくてはならないというのは、何ともわびしいものだ。
清少納言は化粧などをおろそかにしていたことをひどく気にして、主人の生昌に文句を言っていた。
「あの門は何であんなに小さくしてしまったのです。本当に良くないことですわ」
生昌は、軽く笑って返答をする。
「まあ、屋敷も門も身分相応でしょう」
「あら、門だけを立派に造った人もいると聞きますわ。そうなさればいいじゃない」
清少納言がそう応酬する。私は門だけ立派にしてもかえって不格好になるのでは、と考えていたが、生昌は度肝を抜かれたような顔をしていた。
「それは、于定国という人物の古典を言っているのでしょう。私のように大学で学問の道を通っていた者ならまだしも、何故あなたのような女性がそんなことをご存知なのですか」
「さあ、あなたの道が大したものではなかったのでは? だって、あの門からの道だってでこぼこで歩けたものじゃなかったくらいですし」
清少納言はそう言って笑う。周りの女房も、ぬかるみに足を取られたことなどを口々に言い合って笑った。
「まったく、中宮様はとんでもない女房を召し抱えられているようだ。私はこれで失礼しますよ」
生昌は、そう言い置くと、そそくさと立ち上がって行ってしまった。
その様子が逃げ出すようだったので、中宮様が見とがめられる。
「清少納言、あなた生昌に何を言ったの。せっかくもてなしてくれようとしているのに、あまり文句ばかり言うのは可哀想だわ」
「ただ、車が入らなかったという苦情だけを申し上げたのです」
清少納言が悪びれる様子もなく言ってのけるのがおかしくて、私たち女房はまた笑った。その様子に、中宮様までもがつられてお笑いになる。
その晩、引っ越しにすっかり疲れてしまったのか、部屋に戻った私たちは珍しく全員揃って眠り込んでいた。
すると、襖の方から何やら騒がしく呼んでいる声が聞こえる。
「清少納言殿、そちらに伺ってもよろしいでしょうか」
どうやら生昌のようだ。このように女の部屋にやって来るような軽々しい人物ではないはずだが、どういう風の吹き回しだろうか。
すると、今度は私の隣に寝ていたはずの女房が起きだして、私を揺すり起こそうとする。
「見て、見慣れない顔がこちらをうかがっているの」
言うまでもなく、清少納言である。
「いったい誰なの。ここは女の部屋ですよ」
わかっているくせに、あくまで知らん顔を決めるつもりだ。
清少納言が責めるような声をあげたので、生昌は慌てて弁解する。
「いえ、決してそういうつもりで参ったわけではないのです。ただ、家の主人として、あなたにご相談申し上げたいことがあるのです」
「あら、先ほどは門を大きくしなさいという話で、襖を開けてという話はしなかったはずですよ」
「実はその門のことについてお話したいのです。そちらに伺ってもよろしいでしょうか」
女房の部屋に、伺いを立てて入る者がいるだろうか。
これが斉信様だったら、部屋に忍び込み、勝手に意中の女の隣に寝転んで、
「君が夢で私を呼んだから、居ても立っても居られなくなって来てしまったよ」
などと宣うのだろう。
この生昌は、かの美丈夫のように大胆なことをしたと思えば、急に真面目ぶって尋ねてくる。そんなことを聞かれても、女がどうぞと言うわけがないのに。
「駄目に決まっているでしょう。私たち、今お会いできるような格好じゃないんですよ」
私がそう返事をすると、襖がぱっと閉められた。
「若い方がいらしたのですね。失礼いたしました」
そう言って立ち去ってしまった。
「今の発言は私に失礼でしょう」
清少納言は最後の言葉が気に入らなかったらしい。
「それにしても、襖まで開けておいて、何故入ることだけはあんなに躊躇われたんでしょうね」
「さあ。元が真面目な人だから、慣れないことをして怖気づいたんでしょう」
そう言って、二人で大笑いした。
清少納言が翌日、中宮様に夜の出来事を申し上げると、中宮様もたいそうおかしそうにお笑いになった。
「きっと昨日のお前の問答が素晴らしかったから、すっかり気に入ってしまったのね。慣れないことをして、散々からかわれたのでしょう。可哀想に」
確かに、私も黙ってことの成り行きを見届けるくらいの慎ましやかさがあっても良かったかもしれない。
少しだけ、気の毒なことをしてしまったかしらと反省した。
外はからっと晴れていて、日差しも眩しかった。昨日はあんなにぬかるんで、歩きにくかった地面もこの日差しによってすっかり乾いてしまったようだった。
十一月。中宮様は皇子をお産みになった。生昌はまるで自分の娘の出産に立ち会ったように、始終落ち着かない様子で、床に額を擦り付けるようにしてお祈りしていた。
私も二回目の出産ということで、落ち着いて手助けなどができると思っていたが、そのようなことは全くなかった。
相変わらず叫びまわる少女たちは強烈だった。私はそのうちの一人に捕まって、叩かれるわ、泣き縋られるわで、かなり恐ろしい思いをした。
若い僧たちが少女を引きはがしてくれるまで、私は縮こまって、違う意味で必死にお祈り申し上げていたのだった。
そして、皇子がお生まれになったのと同じ日。彰子様が女御におなりになった。
待望の皇子も、これが道隆様のご存命の間だったらどんなに良かっただろうと思われることである。
皇子は、敦康様と名付けられた。玉のような、という比喩はこの方のためにあるのだと思われるほど、丸々として可愛らしいお子である。
周りの者たちはこの皇子の誕生をたいそう喜んだ。特に、女房たちはこの皇子がきっと皇太子にお立ちになることだろうと確信して、若君にお仕えできる喜びをかみしめているのであった。
帝も若君を一刻も早くご覧になりたいとおっしゃって、中宮様と共に入内させる。
皇子の誕生を祝いに、様々な公達がご挨拶にやってきて、中宮様のお部屋は、久しぶりの活気を取り戻していた。
公任様もご挨拶を申し上げにやって来られていた。私が部屋に下がっていたころだったので、わざわざ部屋まで訪ねて来られる。
女房部屋はほとんどが客人の対応のために出払っていた。
「声が戻ったそうじゃないか」
「呼び出されて何事かと思えば、開口一番にそれですか」
「心配をする師匠に向かって、生意気だな」
そう言いながらも、顔はにやけている。
「ご心配ありがとうございました。お聞きの通り無事に話せるようになりましたわ」
「かわいげのない弟子だ」
「師に似たんでしょう」
私がそう返すと、「私はもっと素直な人間だぞ」と反論された。
「馬鹿話はここまでだ。君の耳にも入っているだろうが、彰子様が中宮にお立ちになるかもしれない」
公任様は、急に声をひそめてお話しになる。
もちろん、中宮付きの私がこの話を知らないはずがない。今の中宮様は本当に帝のご寵愛だけでこの立場におられるのだ。
頼るものも無く、あまつさえ髪を切り落としている女性を帝の正妻として置いておくことを、世間の人々はよしとしない。道長様側の人の中には、中宮様のことを尼扱いする者もいた。
政のことを考えれば、関白である道長様の娘である彰子様が中宮としてお立ちになるのは、自然なことのように思える。
「存じております」
「君はこういうときにやけに冷静だな」
「……冷たい人間だと思われますか?」
「いや、むしろ君は賢い。やはり、私に似たのかもしれん」
公任様は、そう言ってお笑いになる。早々に道長様に取り入ったご自分のことを揶揄しているのだろう。
「そんな賢い君に相談だ」
からかうような口調に似合わず、真剣な目で話を切り出される。
「……彰子様にお仕えする気はないか?」
「え……?」
思わず、目を見張った。
「何かの冗談ですか? それにしてはつまらないですけれど」
「冗談でこんなことを言うものか。立后に向けて優秀な女房を探しているから、きっと君なら歓迎されるだろう。私が口を利いてやる」
私は、公任様が何故このようなことをおっしゃるのかわからなかった。
腹の下のほうから、ぐつぐつと何か熱いものが上がってくるのが感じられた。
「お引き取りください」
やっとのことで、それだけ口にすると、私は踵を返した。
「待ちなさい。気を悪くしたなら謝る。話を聞きなさい」
「嫌です。お話は無かったことにしてください」
振り返りもせずに奥に引っ込もうとすると、突然、肩を掴まれた。
「きゃっ」
あまり急なことだったので、そのまま体勢を崩してしまう。
目の前には公任様のお顔があった。
ひっくり返りそうになったのを受け止められたのだ。
「な、何を……」
御簾を越えて中に入って来られたのは、もちろんこれが初めてだった。
私はすっかり動揺してしまい、二の句が継げない。だって、恋人でもない人に顔を見られてしまったのだから。
「君が話を聞かないのがいけないんだ」
公任様は、少しだけ私を咎めるような言い方をする。
けれど、すぐに私の肩に手を添えて、私の目をまっすぐ見据えた。
私は、逃げ出したい気持ちでいっぱいだけれども、あまりに真剣なので、目をそらすことができない。
こんなところを大勢に見られるようなことがあったら、私は恥ずかしくて死んでしまう。
「……さっきのことは私が悪かった。君のことを軽んじたつもりはなかった」
そう言って、深々と頭を下げる。私はさらに慌ててしまう。
「困ります。お顔をあげてください」
肩に手をかけると、公任様はゆっくりと顔をおあげになる。
「……これは、私のわがままなんだ」
「え?」
聞き返すと、先ほどよりも私の方に顔を寄せてお話しになる。
その分声をひそめるので、この声は私にしか聞こえていないのだろう。
「彰子様が中宮になれば、きっと定子様に付いている女房は軽んじられる。私は、君が軽んじられるのは嫌だと思った」
肩を寄せられたまま、しばらくはどちらも動かなかった。
ずっとこのままでいるわけにもいかないので、おそるおそる声をかける。
「あの……」
刹那、はじかれたように体を離される。
「それだけだ。無礼なことをして申し訳ない」
そうおっしゃって、微笑まれた。いつもの公任様だ。
「私を大事に思ってくださったのは嬉しかったですわ。でも、女も己を理解する者のために死にたいと思うことがあるのです」
そう言って、私も微笑み返した。
「史記か」
「私にとっては、行成様のお言葉ですね」
私がお答えすると、公任様は「なんだそれは」と首を傾げた。
「君を理解するのは私だと思っていたが、そうではないということかな」
「……まだわからないのです。私ですら理解していないようなものだから」
公任様の視線が私を捉える。逃げてはいけないような気がした。
「でも、今は中宮様のところでそれを探したいと思っているんです」
公任様の目を見つめ返す。彼は優しく微笑んだ。
「それでは、誰かに見とがめられる前にお暇しよう」
外は雪がちらついている。粒が大きいので、まるで花びらが舞っているような光景であった。
それからしばらくして、彰子様が中宮としてお立ちになった。定子様はというと、皇后という立場に据えられることになった。
そんな中、皇后様にはまたご懐妊の兆しがあった。これほど子宝に恵まれることは、皇后としてのお立場には喜ばしいことだろう。
しかし、ここ何年かは周りでも色々な事件が起こって、気の休まる時間がなかった。
私たち女房は、立て続けの妊娠と出産を良いことなのだろうとは思っても、心配せずにいられなかった。
皇后様は、再び生昌の家に身を寄せる。
しばらくは食べ物をほとんど受け付けないで、薬湯だけをすするような生活でいらっしゃった。何かを口にしようとしても、すぐに戻してしまわれる。ひどい時は、薬湯の匂いすら受け付けられずに、白湯しか召し上がらないこともあった。
ようやく食べ物を食べられるようになられた時は、たいそうお痩せになってしまわれていた。
ふっくらとしていた頬は肉が削げ落ち、顔つきも変わってしまった。
それでも優しく微笑む様子は変わらずに美しいので、食事を召し上がられるようになれば、きっと元のようになるだろうと思われた。
五月、端午の節句の頃であった。宮中から菖蒲の御輿を持って、使いが参上する。
若宮と姫宮に、と
せっかくなので、お二人の御召し物に付けて差し上げる。姫様は新しい飾りが嬉しいのか、飛び跳ねてお喜びになる。
「あまり騒がしく走り回ってはいけませんよ。お怪我などされたら大変ですから」
「わかってる」
そうはおっしゃるものの、そわそわとして落ち着かないご様子である。
清少納言は、献上されたものの中に青ざしという麦菓子があったのを、皇后様に差し上げに行った。
「菅式部、箏を弾いて」
「かしこまりました。今日は何をなさいますか? お話いたしましょうか」
「今日は踊るから見てて」
お互いに即興で曲を弾き、即興で踊った。姫様が飛び跳ねたり、回ったりなさるのに合わせて、服に付けた薬玉が揺れた。
その様子がとても可愛らしいので、周りの女房たちは手を叩いて喜んだ。
「姫様は踊りもお上手ですね。とても可愛らしくてあらせられました」
そう褒め申し上げると、満足そうにお笑いになる。
「菅式部も箏上手だったわ」
「お褒めにあずかり、光栄でございます」
そうして二人で笑いあった。
生昌の家の庭にも小さな木が植えてある。枝についた葉は柔らかく瑞々しい色をしており、まだまだ大きく立派に育つことだろうと思われる。
部屋に戻ると、いつの間に退出していたのか、清少納言がいた。
「退出するなら一言声をかけてくださればよかったのに。知らない間にいなくなっているから驚きましたよ」
声をかけて、振り返った彼女に言葉を失った。
白い頬には透明な粒がころころと転がって落ちていく。
清少納言は泣いているのだった。
「ど、どうしたんですか」
「ごめんなさいね、心配されるようなことではないの」
そう言って、涙を拭う。彼女の手には、一枚の紙切れが握られていた。
「これ、さっき皇后様が詠んでくださったのよ」
『皆人の花や蝶やといそぐ日もわが心をば君ぞ知りける――みんなが花や蝶のような輝かしいものに夢中になっている時でも、私の心はあなただけが理解してくれている』
「私は、定子様にだったら自分の残りの人生と全て捧げても構わないと思っているの」
御簾の向こう側から夕陽が差し込んでいた。清少納言の瞳は燃えるように赤く染まっている。
うらやましい、と思った。それが清少納言に対してなのか、皇后様に対してなのかはわからない。
恐らくどちらとも言えるのだろう。人生を捧げても構わないと思えるほどの出会いがあった清少納言も、それほどまでに彼女から想われている皇后様もうらやましかった。
私は彼女の目が欲しかった。何でも鮮やかに映し出すあの目が。
真っ赤に燃えるあの瞳には、もはや皇后様しか映っていないのだろう。
日はみるみるうちに沈み、清少納言の瞳も夜の色に変わっていった。
「……そろそろ休みましょう」
「そうね」
今日もまた、一日が終わる。横になっても、清少納言の言葉と燃えるような瞳がずっと頭から離れなかった。
三度目のご出産も、生昌の家で行われた。二度目と同じ場所でのご出産ということで、勝手もわかっているのが安心できた。
ただ、一つ心配だったのは、皇后様がお痩せになったままだったということだ。
生昌や女房たちが伏し拝んで見守る中、いよいよご出産が始まる。
皇后様のご様子を見たからか、僧たちの経を読む声にも、より一層力が入って聞こえた。
憑代の少女たちも私たちと同じように伏し拝んでいた。それが、徐々に立ち上がり、泣き叫び始める。
もう何時間くらい伏せっていたかわからないくらいになった頃、赤ん坊の声が聞こえた。
産婆が子供を取り上げて、皇后様にお見せする。
「無事にお生まれになりましたよ。可愛らしい女の子です」
皇后様は、赤ん坊の顔を見ると、安心したように微笑んだ。
そして、それきり、動かなくなってしまわれた。
何度お呼びしてもお返事をなさる気配はない。
僧侶たちは、大変なことになったと、より必死に経を読み上げる。
加持祈禱も、私たちの呼びかけもむなしく、翌朝、皇后様はすっかり冷たくなってしまわれた。
その日は一日中、どんよりと雨が降り続いていた。
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