この草子、目に見え、心に思ふことを
皇后様の葬送が終わり、いよいよ女房たちも身の振り方を考えなくてはならなくなる。
ほとんどの女房は自分の家に帰ることにしているようだ。私と清少納言もそのうちの一人である。
出発は明日だ。今日はそのための準備をしていた。必要なものと、捨ててしまうものを分けて整理する。
清少納言は彰子様の女房としてのお声掛けもあったようだが、お断り申し上げていた。
「私は定子様の女房として生きていくと決めているの。それに、やっておきたいこともあるから」
そう言って、私に一冊の冊子を見せた。表紙には『枕草子』と書いてある。
「定子様からいただいた紙で書き始めたの。宮中のことや定子様のことをたくさん書いたわ。これを完成させないうちには、私の宮仕えは終わったと言えないのよ」
泣き腫らして形の変わってしまった目が笑って見せる。
彼女は本当に強い女性だ。幾度となく思ってきたことだが、改めて確信する。
私は、いつかの夕日に照らされた、清少納言の燃えるような瞳を思い出していた。
「完成したら見せてくださいね」
「どうしようかしら。私のお願いを聞いてくれるならいいわ」
「何ですか?」
「それは、完成してから決めるわよ」
「あまり無茶なことは言わないでくださいよ」
「さあ、どうかしら」
そう話している間に着物の仕分けが終わって、次は手紙の整理に入る。
道具箱には、たくさんの手紙が入っていた。懐かしくて、ついつい読んでしまう。
一番底に、「姫百合の文」が入っていた。結局、姫百合の君には会えずじまいであったとしみじみ考えながら手紙を眺める。
「あら。それ、公任様からの手紙?」
清少納言が私の手紙を覗き込む。
「やだ、やっぱりあなた達ってそういう関係だったの?」
にやにやと笑いながら言うので、私は慌てて首を横に振った。
「違います。ただの師弟です。というか、これは幼い頃にもらったもので、公任様からの手紙じゃありませんよ。私、あの方から手紙なんていただいたことありません」
「でも、その字、公任様のものよ? ほら」
清少納言は、そう言って自分の手紙の束から一枚抜き出して見せた。
「これ、公任様からいただいたものだけど、その手紙と同じ字でしょう?」
受け取って、まじまじと見比べる。
確かに、間違いなく同じ人間が書いた字だ。
「公任様をここにお連れしてちょうだい。今すぐよ」
私はすぐさま廊下を通った童をとっ捕まえて、使いにやった。
「まさか、あなたずっと知らないままだったの?」
「そのまさかです。向こうはどうか知りませんけど」
手紙はすでに見せてしまっているのだから、分かった上で知らん顔をしていたのだ。
少しして、公任様がいらっしゃる。
「やあ、珍しいじゃないか。君から呼びつけるなんて、初めてじゃないか? 心配しなくても、別れの挨拶くらいちゃんとこちらから向かうつもりだったのに」
すっかり見慣れてしまったにやけ顔に、手紙を突き付ける。
「この手紙を書かれたの、公任様ですか?」
「……なんだ、ばれてしまったのか」
あっさりと認める。そして、小さくため息をついた。
「最後に種明かしをしようと思っていたのに、つまらないな」
「何故初めに手紙をお見せしたときに言ってくださらなかったのですか。私、ずっと探しておりましたのよ?」
「ずいぶんと夢を見ていたようだったからなあ。私だと知って残念がるといけないと思ったのだが」
私は首を傾げた。
「公任様のことだから、さぞ光栄だろうとかおっしゃるんじゃないかと思っていました」
「君は私のことをとんでもない自惚れ屋だと思っているらしいな」
公任様がこちらを睨みつけているが、見えていないふりをする。
「それに、そんなに残念とも思いませんよ」
「ほう……?」
「宮仕えの間、色々と助けていただきましたし、師としても尊敬しております」
「師として、か……」
公任様がにんまりと笑うのが見えた。御簾の下から手が伸びてくる。くつろがせていた左手が捕らえられた。
「な、何です?」
「それでは、改めて私に君の露を拭う役目を与えてくれないか? きっとこれから私との別れに悲しんでくれるのだろう?」
「ちょっと、手を離してください。冗談が過ぎます」
私が手を振り解こうとすると、さらに力が強まった。公任様は、微笑みながら私が慌てふためく様を楽しそうに眺めている。
「あの、お二人とも」
振り返ると、清少納言が苦い顔でこちらを見ている。
「私、席を外した方がよろしいかしら?」
「ああ、気が利くじゃないか」
「嫌です。いてください」
二人同時に返事をしたので、清少納言は大笑いであった。
「本当に、よく似た師弟だわ」
そして、そのまま几帳の向こう側に行ってしまった。とんだ薄情者である。
公任様は清少納言が去ったのを見ると、御簾を越えて中に入って来た。
こうなっては諦めるしかない。もとより一度、幼い頃を含めれば二度、見られてしまっている顔だ。
いまさら隠さずともいいだろうという気にはなっていた。
「私は君ほど単純な人間でもないつもりだけどなあ」
「私だって、あなたのように強引でも意地悪でもありません」
私は公任様を睨みつけるが、彼には全く効果がないようで、にやけ顔のままである。
「というか、何で中まで入っておられるのですか」
「長い付き合いだ。最後くらい顔を合わせて話をしてもいいだろう」
そういうなり、私のことをじっと見つめてくる。
「……なんですか」
「いや、大きくなったものだと思った」
「急に年寄りみたいなことをおっしゃるんですね」
私が言うと、公任様は不快そうに眉を寄せた。年寄り扱いはさすがに嫌だったようだ。
「君はその何でも口に出す癖をなおした方がいい」
「皆から言われます」
「そうだろうとも」
公任様はわざとらしくため息をついて見せたが、私は素知らぬふりをする。
「それはそうと、私、ずっとお聞きしたいことがあったんです」
「……なんだ?」
「あの日、何故私に手紙をくださったのですか?」
私の問いに、公任様は「ああ」と答える。
「子供は嫌いじゃないからな。それに、あまりに大きな声で泣くから目を引いた」
「まあ、そうですよね」
私の言葉に公任様はにやりと笑う。
「なんだ? 一目惚れしたとでも言ってほしかったか?」
私は顔をしかめて見せた。
「公任様はそういうところが本当に残念です」
「失礼だな」
恨めしそうな視線を無視して、私はさらに問いかける。
「そもそも何故あんな後ろの方にいたのですか? 公任様くらいの方だったら、もっと前で見物なさるものだと思うのですが」
「噂集めだ。お偉方は口が堅いからな。後ろ側の方が面白い話が聞ける」
その答えに、公任様は十四年前から変わらずに公任様なのだと思った。
「お変わりないようで安心いたします」
「馬鹿にしていないか、君」
「まさか」
そう言って笑って見せる。
庭には雪が積もっているのが見えた。
初めて来た頃に見た満開の梅の木が思い出される。
今はその枝に、ところどころ雪の花が咲いていた。
しばらくの間、私たちは二人並んで冬の花見を続けた。
次の春もまたその次の春も、この梅が綺麗な花を咲かせ続けてほしいと思う。
宮仕えを退いてから、二年が経った。それまでは特に書きとめるほどのこともなかったので、日記のことを忘れかけていた。
この間、久しぶりに清少納言が手紙を寄越した。『枕草子』が完成したそうだ。
手紙には、『私はもうやることはやってしまったので尼になります。この『枕草子』はあなたが宮中に持って行ってね。約束したのを忘れたとは言わせないから』と書いてあった。
『枕草子』には、清少納言が見聞きしたあれこれが書き連ねてあった。特に、定子様との思い出が目を引いた。
どの思い出もあまりに輝かしかった。
常に美しく、明るく、聡明な女性。それがこの『枕草子』の定子様だった。
清少納言に定子様はこう見えていたのだ。
けれども、そこに描かれているのは、確かに私たちの知る「定子様」だった。
私は、『枕草子』を宮中に持って行くことにした。
清少納言からの手紙が来る一日前、宮中から宮仕えに復帰しないかというお声かけがあったのだ。
『脩子内親王様が、ぜひともあなたから箏を習いたいとおっしゃっていました』
この手紙を見た時、私はとても驚いた。まさか、内親王様から名前が挙がると思っていなかったのだ。
脩子内親王様は、私の恩人だ。行かないという選択はなかった。
梅の花が満開の季節。私は再び宮中に赴くことになった。
以前は母の名前を借りていたが、今度は自分だけの名前を名乗りたかった。
そこで、『枕草子』から字を取って、「枕式部」と名乗ることにする。
ちなみに、今私は、すでに宮中にいて、部屋でこの日記を書いている。
冊子にしていた分がそろそろ無くなってしまうので、ここあたりで筆を置こうと思う。
新しい日記には、何を書こうか。今から楽しみで仕方がない。
――――そこまで書いて、枕式部は筆を置いた。まだ少しだけ余りがあるが、とりあえずはここまでにしておこう。
「枕式部! 内親王様がお呼びですよ。早く箏を持って参上しなさい」
古株の女房がわざわざ呼びにきた。少しだけのんびりしすぎてしまっただろうか。
「はい、ただいま参ります」
部屋では脩子内親王が首を長くして待っていらっしゃった。
枕式部が最後に彼女を拝見したときと比べると、かなりの成長具合である。
「遅いわ。私ずっと待っていたのよ」
「申し訳ございません」
「いいわ。許してあげる。だから、早く箏を聴かせてちょうだい」
大きくなっても、きらきらと輝く瞳は幼い頃のままである。
枕式部は少し安堵しながら、箏に指を置いた。
内親王様に最初に弾いたのはどんな曲だったかしら。適当に弾いたから覚えていない。
でも、昔の可愛らしい姿はしっかりと枕式部の記憶に刻まれていた。
その姿を思い出しながら、軽やかに弦をはじく。
目の前の内親王は、楽しそうに笑っていた。
「これだわ。私がずっと聴きたかった曲」
枕式部も、確かにこれだと思った。私はこの笑顔の為に、人生を捧げても構わない。
廊下の方で、慌ただしい足音が聞こえた。
「急ぎの使いかしら」
「私が出ましょう」
枕式部はそう言うと、御簾の方に向かった。
「あの、今の箏はどなたが弾いていらしたのでしょうか」
息を切らせた声に、枕式部は思わず吹き出しそうになった。
「……あなたの姫百合ですよ。公任様?」
そういうが早いか、堪えきれずに笑い出す。
御簾の向こうで、大きなため息が聞こえた。
「やはり君か。来るなら連絡くらいすればいいものを」
「そもそも手紙のやり取りをするような仲じゃないでしょう」
「また生意気を言う」
枕式部の言葉に、公任はため息をついた後、にやりと笑った。
「何にせよ、また退屈しなくて済みそうだな」
枕式部も、同じ顔で笑い返す。
「そうですね」
見上げた先には、懐かしい顔と共に、梅が満開に咲き誇っているのが見えた。
自分の願いがこの木に届いていた喜びを感じながら、新しい季節の幕開けにふさわしい光景だと、彼女は思った。
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