殿などのおはしまさで後

 日が沈まないことがないように、穏やかな時はそう長くは続かないものだ。

 道隆様がお亡くなりになった。ご家族で集まられたあの宴から、わずか二か月後のことであった。

 

 道隆様がお亡くなりになられてから、しばらくは葬送や物忌みにと大わらわであった。

 中宮様はたいそう悲しまれて、喪に服している間などは毎日何かにつけては泣き暮らしていらっしゃった。

 関白様がお亡くなりになったということで、政の方も大混乱であったそうだ。

 弟の道兼様が後釜に据えられたと思ったら、少しもしない間にお亡くなりになられた。

 宮中では、次に関白になるのは伊周様か、道隆様のさらに下の弟君である道長様か、どちらかに派閥が分かれてしまっている状況らしい。

 ちなみに、ただの女房風情である私がここまで詳しく書くことができたのも、公任様の情報収集力に甘えた結果である。

 公任様は宮中が大変な時であるので、前ほど私のところに箏を教えに来られることはなくなっていた。それでも、たまには箏を聴きに来てくださっているのだ。

 喪が明けてからは、少しでも体裁を整えようとこれまで以上に些細なことにも気を配るように仰せつかった。身の回りのことに振り回されて、余裕がないと思われては中宮様の沽券にもかかわる。

 後ろ盾を失ったものに厳しいのが宮中というものだ。伊周様や隆家様、中宮様はどんどん孤立無援の状態になっていった。

 そんな状況であれば、女房たちも不安に駆られてしまうのは仕方ないことかもしれない。

 けれども、清少納言は率先して明るく振る舞っていた。

「中宮様を支える土台となるべき私たちが崩れてしまってはだめよ。中宮様ならきっと立ち直られるわ。その時に周りが総崩れでは意味がないでしょう?」

 しかし、その気丈な態度がかえって気に入らない女房たちもいるようで、私たち女房の間でもわずかながらに亀裂が生じ始めていた。

 今の私たちは、ぎりぎりまで水の入った盃のようであった。あと一滴、それですべてが溢れ出してしまう。

 そういった状態でしばらく耐えていた頃、その一滴は、思いもよらないところで落とされた。

 伊周様と隆家様の従者が、花山院かざんいんを弓で射たという事件が起こったのである。

 幸い、花山院に弓が当たる事はなかったそうだが、皇族に、しかも上皇に弓を射かけるなんてとんでもない不敬だとして、世間の人々は騒ぎ立てた。

「花山院が為光ためみつ殿の四女の元に通われていたそうだ。伊周殿はあそこの三女に通っていただろう。供をしていた隆家殿とその従者が勘違いを起こしたようだな」

 私の箏を聴きながら、公任様は何気ない世間話のようにおっしゃった。

「花山院は出家した立場での女通いだから、あまり大事にはしたくないとお考えだったようだが、これを道長殿が利用しない手はないだろうな」

 公任様の見立ては正しかった。お二人は不敬の罪に問われることとなったのだ。

 具体的な処遇が決められるのは少し先にはなりそうだが、世間の決断は私たちの周りを動揺させた。

 そんなとき、ようやく中宮様にご懐妊の兆しがあった。

 帝には未だに皇子がいらっしゃらない。帝は、中宮様がきっと皇子をお生みになってくださると期待していらっしゃった。

 けれども、もし、伊周様と隆家様のお二人が京を追われるようなことになれば、中宮様はいよいよ頼るものが無くなってしまう。その中でのご出産となると、いかに心細いだろうと思われることだ。

 中宮様はご懐妊がわかってから、ご兄弟と共に二条邸に身を置かれていた。日が経つに連れて、お加減が悪い日が増え、臥せっておられることが多くなってきている。食欲がない日などは、何かを口にしてもすぐに戻してしまわれることもあった。

「こんな状態で、もし伊周様と隆家様が流罪なんてことになれば、中宮様はどうなってしまわれるのかしら」

「賀茂祭という大きな祭りが終わったあとで宮中も落ち着き始めたでしょう? お二人のことに決着がつくのもそろそろじゃないかしら」

 女房たちの間でも、このようなことが頻繁にささやかれた。

 ここまで広がれば当然、中宮様のお耳にも入ってしまう。中宮様はかなり心を痛められているようで、ご自分の状況をお嘆きになることも多かった。

「兄弟をいっぺんに失うなんてことがあれば、私には居場所がないわ。もう私はどうにかして死んでしまった方がいいのではないかしら」

 特にお傍に侍っている藤大納言などは、そんな中宮様をいつも励ましているのだった。

「そんなことをおっしゃらないでください。今は具合がよろしくないから弱気になられているだけですわ」

 藤大納言も、中宮様を不安にしてしまわないよう、清少納言と同じように明るく振る舞うように努めているのであった。

 二人とも女房たちの中では気丈な方で、ほとんどの女房が先行きの見えない状況に不安がって、泣いたり、いらいらしたりしながら生活しているようであった。

 

 そんな中、いよいよ伊周様と隆家様の行く先が決まった。

 その日は薄曇りで、今にも雨が降り出すのではと思われるほどであった。

 お二人を連れて行こうとする検非違使に二条邸は四方を囲まれてしまった。

 ただ事でない様子に、今までこの家に住み込んで働いていたような人たちも、荷物をまとめて出て行ってしまう。

 やはり、皆我が身が一番可愛いのだろう。

「先だっての罪によって、内大臣伊周は大宰権帥として、中納言隆家は出雲権守として配流する」

 使者が大声で宣命を読み上げる。

 身分の賤しい乱暴な者たちが、邸内を覗き込みながら何事か騒ぎ立てているのは何とも言えず恐ろしい。私たちは中宮様をお守りしなければという一心で、皆で中宮様を囲い、部屋の隅に固まってびくびくとしている。

 北の方も中宮様の肩を抱きながら、泣き崩れていた。

「誰もここを出ることが無いように」

 伊周様は籠城することをお決めになられたのか、女房たちにもそう言い含める。

「日も暮れてまいりました。私共もあまり手荒な真似はしたくないのです。どうか邸を出ていただきたい」

 脅すような物言いに、女たちは悲鳴のような声を漏らす。私は声も出すことができずに、涙を流しているのだった。

「私たち、これからどうなってしまうの」

「もし、あんな乱暴者が入ってきたらどうしましょう」

「やめて! そんな恐ろしいこと言わないでちょうだい!」

 若い女房たちはお互いに抱き合って、泣き叫んでいる。

 清少納言は黙ったまま、じっと外の方を見つめていた。

 彼女の握りしめた手が、わずかに震えているのを私は見逃さなかった。

 夜も更けて、周りはすっかり寝入ってしまったようだ。

「この間に父上にお別れの御挨拶をしに行ってこよう」

 伊周様はそう言ってやしきを出て行かれた。大宰府に流されてしまえば、道隆様のお墓お参りに来ることもできなくなってしまうからだろうか。それにしても、今伊周様がいなくなってしまうのは、何とも心細いことだと思ったのは、私だけではあるまい。

 邸の周りが静かになったので、少しだけ安心するが、まだ何があるかわからないので、恐ろしくて眠ることもできない。

 夜が明けても伊周様が戻って来られることはなかった。

「兄上はとうとう捕らえられてしまったのだろうか」

 隆家様がこう首を傾げるのももっともだ。しかし、再び起きだした検非違使たちの様子から伊周様が捕らえられたとは考えられなかった。

「とにかく、兄上が留守の間は私が中宮様をお守り申し上げなければ」

 伊周様の不在を悟られないように振る舞うのにも限界がある。

「内大臣殿はどこにいらっしゃいますか? もし逃げ出していらっしゃるなんてことになればこちらも不都合です。これ以上ご在邸が確認できないようでしたら、中に入ってでも探せと仰せつかっております」

「こちらには中宮様がいらっしゃるのだぞ、そんな横暴が許されるというのか!」

「もちろん、中宮様には然るべきお部屋に保護申し上げますとも。さあ、早くご準備をなさってください」

 あんな乱暴者たちに中宮様が見られてしまうようなことになれば、これ以上の不名誉を被ることになる。中宮様と北の方は上臈の女房たちに連れられて、奥のお部屋に向かわれた。几帳などで四方を隠して、何があっても姿は見せないようにしてある。

 部屋にも限界があるので、私のような下の女房は扇と自分の袖で頭を隠して身を寄せ合った。

 ついに検非違使たちがずかずかと邸の中に乗り込んでくる。検非違使だけではなく、もう何と言っていいかもわからないような下人が壁やらを壊しながら喚いている。

「あ、ああ……」

 隆家様はめちゃくちゃになっていく二条邸に、もはや涙すら出てこないというご様子で、ただただ振り絞ったような声で呻かれるだけである。

「隆家様、申し訳ございません……」

 検非違使の中にも、特に隆家様のことを慕っているような者たちは、このような彼の様子に痛ましく思って、近くで泣き伏している。

 しかし、当の隆家様がこのような状態であるので、本当にお側に寄ってお声かけしようなどとは誰も思えそうになかった。

 私たちは下賤な者たちまでが構わず辺りをうろついているので恐ろしく、誰一人動けるような状態ではなかった。

 そうやって、隅々まで破壊し尽くすと「もしや出家でもしたのか」などと話しながら撤退する。

 残された私たちは、恐ろしい夢でも見たような心持ちで、茫然としている。

「都を離れたことはあるまい。何としても探し出すように」との宣旨に従い、検非違使たちは、近辺の捜索に入った。

 その間も、二条邸は絶え間なく見張りがいた。隆家様まで逃げられてはたまらないと思ったのだろう。

 そうしてまた日が暮れていく。真っ赤な夕日がぼろぼろになってしまった二条邸を照らしていた。そのまま夕日と共に燃えてしまうのではいかと錯覚してしまうほどの紅さであった。

 夜、検非違使たちは騒々しく邸の周りをうろついている。

「これで取り逃がしてしまえば、俺たちもまずいことになるぞ」

「草の根を分けてでも探し出せ」

 壁が壊れてぼろぼろなので、その様子が嫌でも目に付く。

 検非違使たちは寝ずの番をしているからだろうか、目がぎらぎらと血走っている。

 夜中の暗闇に浮かび上がるその瞳は、何とも言えず恐ろしかった。

「兄上はどこにいらっしゃるのだ……」

 隆家様は、明日の朝出立されるようにと命じられた。

 京を離れる最後の夜がこのようなことになって、一人でさぞ心細いことだろう。

「隆家様!」

 うなだれている隆家様に、従者の一人が駆け寄る。

「伊周様がお戻りになりました!」

「何、本当か!」

 外を見れば、門のところから邸にまっすぐ歩いてくる人影がある。

 伊周様が、数人の従者を連れて歩いておられた。

 車を門の中まで入れなかったのは、中にいらっしゃる中宮様に対する敬意を示されたのだろう。

 検非違使たちが礼儀も何もかもを踏み荒らす中、伊周様の態度はとても誇り高く見えた。

 邸に入られた伊周様に、隆家様が駆けよる。

「兄上、よくご無事で……」

 伊周様は、邸内の有様を見て、眉根を寄せる。

「……留守の間、苦労をかけたようだな。すまなかった」

「いえ……私こそこのようなことになりまして、不甲斐ないです」

 肩を落とす隆家様に、伊周様は優しく微笑みかける。

「お前のせいではない。そういう巡り合わせだったのだ」

 伊周様の手が隆家様の肩に置かれた瞬間、隆家様の目から大粒の涙がこぼれた。

 緊張の糸が切れたのだろう。隆家様は伊周様に支えられながら、声を抑えて泣いていらっしゃった。

 その夜は、邸からずっとすすり泣きの声が上がっていた。

 翌朝、いよいよお二人が京を離れることになった。

 外には護送の車がすでに着いている。隆家様は一足早く出発された。

 しかし、いざ出立の刻限になっても伊周様はお立ちにならない。それどころか、中宮様も北の方も伊周様の着物をしっかりと握って離そうともなさらない。

 伊周様も振りほどくわけには参らない。一緒になって周りを憚らずにお泣きになる。

 そうは言っても、またあの乱暴者たちに引きはがされることを思えば、いつまでもそうしているわけにもいかない。

「お兄様もいなくなってしまったら、私はどうなってしまうの?」

 中宮様がそう泣きじゃくられる様子はまるで私と変わらないように見えた。

 ついに、お二人を乗せたお車が門を出るという時。伊周様が出て行かれてから、泣き伏していた中宮様は、おもむろに道具箱の鋏を手にして御髪をばっさりとお切りになってしまった。

 あまりに突然のことだったので、誰も止めることすらできなかった。

「中宮様! なんてことを!」

「頼りにしている者をいっぺんに失って、私はもう生きている甲斐もないわ。いっそ、この髪を切り落として尼にでもなった方がましよ」

「だとしても、おなかにいらっしゃるお子はどうなさるおつもりですか?」

「それは……」

「世捨て人は死んだと同じです。母のない子供の将来がどのようなことになるか、中宮様ならお分かりでしょう」

 歳のいった女房たちが口々にそう申し上げるので、中宮様は御髪を握りしめながらまた泣き崩れなさる。


 北の方はこの事件で心を痛めたのが原因か、体を壊され、そのまま亡くなってしまわれた。七月のことである。

 じめじめとした空気が全身にまとわりついて、なんとも暑苦しい時期だ。

 中宮様は、いよいよ帝のご寵愛のみが頼りであった。

 髪を切り落としてしまったことで、中宮様は尼になったのだとささやかれるのも、具合が悪く、不都合なことだった。

 そんな状況だから、女房たちの仲もますます気まずくなっていく。

 特に清少納言は斉信様や公任様など、交流していた人々に道長様の側にいるということで、まるで裏切り者のようにささやかれていた。

「そもそも道隆様のご存命の折から、道長様を褒めていたもの。あの人は道長様側の人間なのよ」

 仲間内でそんなことを口々に言っているのがすごく嫌だった。

 私も公任様を師としていたのだから標的になってしかるべきだと思うのだが、こういう時は的を一つに絞った方が効果的だ。

 それに、取るに足らない私よりも、中宮様のお気に入りで様々なところから評価されている清少納言の方が、やっかみの対象になってしまうものなのだろう。

「ねえ、菅式部、あなたもそう思うでしょう?」

「いえ、わたしは全然」

 こうやって私も話の輪に入れようとしているのが本当に苦痛だ。

 もちろん、私は陰口には加担しないし、相手もそれは承知の上で私に話をしてくる。

 私をその輪の中に連れこめば、必然的に清少納言は一人になってしまうからだ。

 彼女たちが私を仲間に加えようとするときは、最初は何でもない話をする。

 最初から悪口だったら無視するが、そうさせないように考えているのだ。

 一番下の私が理由もなく先輩方を無視するわけにはいかない。

 そうやって、私が話に入れば悪口を聞かされる。ひどいときには同意を強要される。

「あなたは清少納言贔屓が過ぎるのよ。向こうは私たちのことを仲間とも思っていないのに。どうせ、彼女のことだからあなたのことだって何とも思っていないわ」

 そんなときは、もう私が何を言っても無駄だった。彼女を庇えば贔屓だの騙されているだの好き勝手に言われ、かえって清少納言の悪口を助長してしまう。

「あなたたち、いい加減になさい。みっともないわよ」

 藤大納言など、上臈の女房たちはこのような品のない話に加わることはない。

 たまに、見かねた藤大納言が注意すると、皆さっと散るのだ。

 しかし、それも少しの間だけで、またすぐに話は再開される。

 次第に私は、輪に入っても何も話さないようになっていた。

 反論しても無駄だし、同意は絶対にしたくない。

 ただ、黙り込んで嵐が過ぎ去るのを待つように、じっとしている。

 にぎやかなお喋りも、清少納言がやって来ると、皆口をつぐんで知らん顔してしまうのだった。

 今日も、清少納言が中宮様の御前に参上すると、それまでの会話をぴたりと止める。

 私はその隙に逃げるように彼女たちの輪から離れる。

「あの、清少納言さん……」

 清少納言に話しかけると、周りの女房たちからの視線が突き刺さった。

 それでも、私は構わなかった。だって、彼女たちの悪口を聞いている方が嫌だったから。

 好きな人を悪く言われるのは、私には耐えがたい苦痛だったのだ。

「……向こうに行ってちょうだい」

 清少納言はそう言って私を冷たくあしらった。こちらを見ようともしない。

「何で、そんなことを言うんですか」

「私と一緒にいるとあなたも良い顔をされないわよ」

「そんなこと……!」

 どうでもいい、そう言いかけて言葉に詰まった。

 彼女の目はあまりに冷たかった。何も信じないと、固く決意された目だ。

 きっと私が何を言ったところで今の彼女に届くことはないのだろう。

 そう思うと、とても悲しかった。私だけは信じてほしかった。

 私が何も言わないので、清少納言も黙って通り過ぎてしまう。

 彼女が座ると、ひそひそと声がした。また誰かが悪口を始めたのだ。

 私はそちらに目を向けることも無く、そのまま退出した。

 蝉の鳴く声がやけに大きく聞こえる。

 彼女に拒まれたというのが、未だに信じられなかった。

「人の関係なんて、些細なことで壊れるようなものだよ」

 公任様の言葉が思い出される。

 私は部屋に戻るなり、道具箱を開け、「姫百合の文」を取り出した。

 縋るにはあまりに細い縁である。それでも、縋らずにいられなかった。

 いつの間にか、目からは涙がこぼれていた。

 清少納言との絆はもう壊れてしまったのかもしれない。

 はたまた、もともと絆を感じていたのは私だけで、彼女にとって私は取るに足らない存在だったのかもしれない。

 誰もいない部屋で、私は一人で泣きながら、ぐるぐると頭を悩ませていた。

 ずっと紙を握りしめていたものだから、涙で少し濡れてしまった。

 その翌日、清少納言は中宮様にお暇をいただいて、里に帰ってしまった。

「こんな時期に中宮様のお側を離れるなんて」

 女房たちは好き勝手に言い騒いだ。

 私も、参上するなりその輪の中に引き込まれていた。

「ねえ、頼り甲斐のない方だと思わない?」

 隣にいた女房が私にも話しかけてくる。

「私は、そうは思いません」

 そう言おうとして、昨日の清少納言の目を思い出す。

 一瞬、私に向けられていることを信じられないくらいの冷たい目だった。

「あなたもどうせ、あの連中と同じことを思っているのでしょう?」と、彼女の目が語っていた。

 私は急に、途方もない虚しさを覚えた。それが最後の一滴となって、私の心に黒い、淀んだ気持ちがこぼれ始めた。私の盃もいっぱいいっぱいだったのだ。

 溢れ出した負の感情は、私の口を完全にふさいでしまった。

 だんまりになった私を見て、隣にいた女房はつまらなさそうな顔をした。しかし、すぐに別の女房とのお喋りに花を咲かせる。

 黒く淀んだ悪口の花だ。

「あなたたちこそみっともない真似ばかりして頼り甲斐がないわ」

 凛とした声が響いた途端、醜い花は散った。

 藤大納言である。周りの女房はきまり悪そうにそそくさとその場を去った。

「まったく、困った人たちね。色々と不安に思うのでしょうけど」

 彼女はそう言って私に微笑みかけた。私は彼女の目を見ることができずに、うつむいたままうなずいた。

「あなたも何も言えないで、頼り甲斐がないわね。言い返せば良かったものを」

 藤大納言の冷たい声が耳元で響いた。

 跳ねあがるように顔を上げると、彼女は私の目の前で微笑んでいるだけだ。

 彼女は何も言っていない。今の声は、私の心が聞かせた声だ。

「どうしたの、菅式部? あなた、顔色が悪いわ。具合が悪いの?」

 心配そうに近づいてくる藤大納言に、「大丈夫です」と声をかけようとした。

 しかし、喉に何かが詰まったように声が出ない。

 私は逃げ出した。藤大納言の声が後ろから聞こえてくるのにも構わず、部屋に帰る。

「あ……あ、ああ……」

 部屋の隅にうずくまって、声を出してみる。喉がおかしいわけではなさそうだ。

「どうして……」

 わけがわからなかった。一人でいる今は、普通に話すことができている。

 誰かを目の前にすると駄目だった。見られていると思うとその視線が私の口をふさいだ。

 私は、この日を境に人前で話すことができなくなってしまった。

 周りは突然喋らなくなった私を気味悪く思っているようだった。

 中には、私のことを「くちなし」と呼んで陰口を言う者もいるようだ。

 もちろんお客様の相手もできないから、後ろに引っ込んでばかりである。

 そんな状況でも、藤大納言はよく私を気にしてくれていた。

 私はいつも一緒にいた清少納言がいないので、中宮様のお部屋では隅の方に一人で座っていることが多かった。

 藤大納言は、私が一人でいるのを見かけると、黙って隣に座ってくるのだ。

 彼女がいれば周りの女房も嫌なことは言ってこないし、外から話しかけられても彼女が代わりに返事をしてくれた。

 それはとてもありがたく、同時にとても情けなかった。

 私は何のために女房をしているのだろう、と何度も考えた。

 しばらくこのような状況が続いて、ひと月ほど経っただろうか。

 突然、清少納言が宮中に戻って来たのだ。

 清少納言のいない中宮様の御座所は、火が消えたようであった。里居の原因が原因だけに、誰も口にはしなかったが、彼女の存在の大きさを皆が感じていたことだろう。

 この一か月中宮様は何度も清少納言に「参上せよ」との宣旨を下されていたが、それも申し訳程度の返事だけで、効果がなかった。

 それだけに、突然の復帰は皆を驚かせた。

 周りの女房たちは何故彼女が戻って来たかは知らないが、また御座所が活気づくだろうということで、喜んでいた。

 無責任な人たちである。彼女たちにすでに罪の意識はないのだろう。

 清少納言は私の声が出ないことを知ると、かなり驚いた様子だった。

「……一人にしてしまって、ごめんなさいね」

 私は首を横に振った。

「あなたも『言はで思ふぞ』ということなのかしら」

 そう言って、清少納言が笑うが、「あなたも」というのはどういうことだろうか。

 私が首を傾げていると、清少納言は周りに人のいないことを確認してから、そっと私に耳打ちする。

「中宮様から直々のお手紙をいただいたの。『言はで思ふぞ』ってね」

 心には下行く水のわきかへり言はで思ふぞ言ふにまされる――心の中にはあなたへの想いが水の湧くように溢れているが、口に出さずに思っている方がむやみに話してしまうよりも優れている。

 誰でも知っているような馴染みのある古い歌だ。

 彼女が帰って来たのは、中宮様直々のお手紙があったからだったのだ。

「内密にということだったから、くれぐれも他の人に言ったりしては駄目よ」

 私が口をきけないというのを分かっているだろうに、彼女は真面目に口止めする。

 私は庭に出てくちなしの花をひとつ取って来た。

 それを見ると、彼女は笑って言った。

「あなたのそう言う自虐的な所、嫌いじゃないわよ。好きでもないけれど」

 清少納言は、私から花を受け取ると一枚、また一枚と花びらをちぎっていった。

 最後に一枚が彼女の細い指から離れる。刹那、風が吹き抜けた。

 白い花びらが舞い上がる。散らかるといけないので、私はすぐに立ち上がろうとした。

 しかし、それは清少納言が私の着物の袖を引いたことによって止められた。

「あなたが話さなくなってしまったのは、私のせいでもあるんでしょう」

 私は首を横に振った。射貫くような目が恐ろしく、清少納言の方を向くことができない。

 盛大なため息が聞こえた。

「……あなたは私のことを好いてくれているのかしら」

 小さくつぶやかれた声に、私は立ち上がろうとしていたのをやめて座りなおす。

 恐る恐るうなずけば、清少納言は再び笑顔になった。

「私も、あなたのこと好きよ」

 握りしめられていた袖が離される。

「『言ふにまされる』とは言うけれど、私としては、いつかあなたの声で聞きたいところだわ」

 また、部屋の中に爽やかな風が吹き抜けていく。くちなしの花びらは、もうどこに行ったかわからなくなってしまった。


 時間というものは否応なしに過ぎていく。日に日に中宮様のおなかは大きくなられて、ついにお産が始まった。

 冬の早朝のことであった。その日は雪も降ってたいそう寒いので、私たち女房は出産のための母屋に炭を運ぶ。庭のいたるところに霜柱が立って、きらきらと輝いているのが美しい。

 母屋には加持祈祷のための僧侶や女房たちが詰めかけていた。僧侶たちは大声で経を唱えている。

 出産には多大なる危険が伴う。母体は物の怪に狙われやすいのだ。

 現に、出産で亡くなる女性はとても多い。

 それで、代わりに物の怪を憑りつかせる憑代が連れてこられる。憑代に選ばれた少女たちは、緊張した面持ちで母屋に入っていく。

 お産の様子は、正直ものすごく恐ろしかった。

 中宮様は最初こそとても苦しそうに呻いていらっしゃったが、すぐにその呻きは少女たちに移った。一人、また一人と少女たちが叫びだす。中には暴れだすような子もいたから、若い僧侶たちに取り押さえられる。

 女房たちも心配で、僧侶と一緒になってお祈り申し上げる。祈祷の香で母屋の中は白く煙っていた。

 まだ出産を知らない若い女房の中には、このただならぬ雰囲気にあてられて、泣き出したり、気を失ったりする者もいた。

 私は気絶こそしなかったものの、息が詰まって苦しいので、周りの様子を見ないように伏し拝んで、中宮様とお子の無事を祈った。

 大騒ぎの中お生まれになったのは、可愛らしい皇女様であった。

 古株の女房たちは、口々に「安産でよかった」と笑顔で語り合う。私はあれで安産だったのかと身を震わせる。他の若い女房たちも同じ気持ちだったようだ。


 私は中宮様のご出産が無事に終わったので、しばらく里に帰ることにした。

 人前で話せない女房が宮中で何の役に立つだろう。

 藤大納言や清少納言の助けはあったが、それも限界があるし、彼女たちの負担になるのは嫌だった。

 皇女様がお生まれになっても、頼りの少ないお立場は変わらない。

 今、女房が恥をさらすようなことがあれば、中宮様がどうなってしまわれるのかはわからなかった。私たちの周りの空気は、いつも緊迫していた。

 それでも、余裕がないのを外には悟られないように、いつも笑顔で明るく過ごしている。

 私にはそれが不気味で、気持ちの悪いものに思えたのだ。

 師走の終わり頃には、私はもう中宮様のお部屋にほとんど参上しなくなっていた。

 何もしないで怠け者だと思われながら過ごすより、里に戻った方がましだろう。

 それに、気分が落ち着いたらまた声も戻るかもしれない。

 里に帰ったら今まで書いていた日記を清書して本に綴じたりしてのんびり過ごすつもりだ。母に箏を聴かせるのもいい。

 里に手紙を出して、あれこれと荷物をまとめ始める。

 正月を家で過ごすのは久しぶりなように思えた。宮中に来る前はそれが当たり前だった気がするのに、不思議な気持ちだ。

「本当に帰ってしまうのね。寂しいわ」

 私物の整理をしていると、藤大納言が声をかけてきた。

 慌てて筆を探そうとする私を手で制し、話し続ける。

「今は皆気が立っているけれど、しばらくしたらきっと落ち着くわ。あなたもゆっくり休んで、元気になって帰って来てね。待っているわ」

 私がうなずくと、藤大納言は優しく微笑んだ。

 里からは私の帰りを喜ぶのと、突然の里居を心配する返事がきた。私はあえてそれに返すことはしなかった。どうせ帰ってくれば状況はわかるだろう。いたずらに心配をかけるようなことはしたくない。

 宮中を出る日、空は生憎の曇りであった。

 朝の空気は冷たく、刺さるようだ。

 迎えの車に乗りこもうとすると、従者から止められる。

 何事かと振り返ってみると、清少納言がいた。

「あなた、今日行くのね」

 うなずくと、いささか不機嫌な顔をする。

「教えてくれればよかったのに、何も言わないで」

 今が夏だったら以前のように、くちなしの花を差し上げる場面だろう。

 筆をとるのも面倒だったので、出発の日は中宮様にご報告しただけだった。

 それに、できれば誰にも見られずに、ひっそりと去ってしまいたかった。

「最近見かけないけれど、どうしたのだろうか」と誰かが言って初めて私の里居に気が付くくらいが望ましい。

 もし私の声が戻らずに、このまま宮仕えを退くことになったら、みんな私のことを忘れてしまえばいい。役立たずとして覚えておかれるよりはずっといい。

「餞別よ。あなたがきちんと出発の日を教えてくれていれば、もっとましなものが贈れたのだけれど」

 渡されたのは、松かさであった。庭で拾ってきたものだろう。

 待っている、と言ってくれているのだ。

 どうせくれるのなら歌くらい詠んでくれればいいのにと思ったが、そういえば、歌は嫌いだと言っていたことを思い出した。

 私も歌を詠むのは苦手だから、先人の言葉を借りよう。

 一礼して車に乗り込むと、すぐに筆をとった。まるで後朝きぬぎぬの文を書く殿方のようだと思う。

 二人きりの逢瀬の後、涙ながらに縋る恋人をなだめて帰るものの、自分もまた早く会いたいと思いながら筆をとるのだ。

『まつとし聞かば今帰り来む――あなたが待っていてくださるのならすぐにでも帰ってきましょう。

 家まで待てずに車でこれを書いていることからも、私の愛情の深さがわかると思います』

 在原行平の歌を借用した私の恋文に、彼女はどう返事をくれるのか楽しみだ。

 しばらく愉快な気持ちで車に揺られていると、使いが走って返事を持ってきた。

 なかなか早い返事で、私の気持ちに報いてくれたのだと思うと、嬉しい気がする。

『あなたを訪ねてきた人にはなんと言えばいいのかしら。まさか、わびしく暮らすわけでもないでしょう?』

 行平の別の歌を用いた返事だった。

 わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶと答へよ――私の様子を尋ねてくる人がいたら、須磨の浦で藻塩の水が垂れるように泣きながらわびしく暮らしていると答えてくれ、という歌だ。

 私を訪ねてくる人というのは、公任様のことを言っているのだろう。

 最近はめっきりお顔を見せることもなくなっていたから、里居のことも言わなかった。

 お耳の早い公任様ならば、私から聞かずとも情報を得ることだろう。

 恩知らずだと思われるかもしれないが、元より雲の上の人なのだ。私のような人のことなどすぐに忘れるだろう。

『あなたに会えない日々がわびしくないことがありましょうか。毎日涙に暮れながら過ごしますよ』

 あくまで誠実な恋人のつもりでお返事する。さすがに呆れられてしまったかしら。

 どのみちこれで手紙はおしまいにするつもりだったから、その方が都合がいい。

 家の門をくぐると、庭の木が雪の花を咲かせているのが見えた。

「よく帰ってきたね。何事もなかったようでよかった」

「急に帰ってくるなんて言うものだからびっくりしたのよ。何かあったの?」

 中に入るなり両親が私を出迎える。母の質問にはどう答えたものか考えていると、父が「まあまあ」と声をかけた。

「この子も今帰ったばかりなのだから疲れているだろう。今、食事を用意させよう。今日はゆっくり休むといい。話は明日でもできるさ」

 父は私に甘い。日頃は過保護すぎる気がしてうんざりするが、今はとても助かる。

「ありがとうございます、お父様」

 自然と声が出ていた。私は自分の声に驚いてしまう。

「おや、声がかすれているね。やはり、今日は休んだほうがいい」

「は、はい」

 私は言われるがまま部屋に戻り、食事をとった。

 食事が片づけられると、やることもなく、ぼーっと外を眺める。

 薄曇りだった空は、ついに雪を落としていた。

 父は仕事に出かけてしまったので、家にいるのは母とうちで働いている家司くらいである。宮中よりもはるかに静かだ。

 耳を澄ませば、雪が降り積もる音が聞こえてきそうな気がする。

 私は箏に手を伸ばした。何を弾くわけでもなく、ただただ弦をはじいた。

 一音、また一音、雪の上に降り積もっていく。

 しばらく弾いていると、布擦れの音が聞こえてきた。私は手を止めて振り返る。

「あれだけ嫌がっていたのに、どういう風の吹き回しなのかしら」

 案の定、母が箏の音を聞きつけてやって来た。

「……私、宮中で菅式部って呼ばれているんです」

 母の瞳が揺れた。公任様の情報は間違っていないようだ。

「お母様も宮仕えをされていたことがあるんですってね。おかげさまで私も同じように箏を弾かざるを得なくなったんです」

 恨みがましく言ってみせると、母が笑い出す。

「それじゃあ、私の作戦は成功だったのね。あなたが箏を置いて行ったから、どうしてくれようかと思っていたのよ」

「作戦?」

 私の質問に、母はいたずらっぽく微笑んだ。

「使いの者に、箏を届ける時にはいろんな人に道を尋ねなさいと言っておいたの。『昔ここで女房をしていた菅式部という者が、娘に届け物がある』って説明も忘れないようにって」

 この母は、伊達に女房を経験していない。私もこの宮仕えで、いかに人の噂の回りが早いかということを痛感していた。それを利用してしまうとは、恐ろしい母親を持ってしまった。

「ひどいわ。実の娘を嵌めようだなんて。私はそのせいで大変なめにあったんですよ」

「あら、嵌めただなんて人聞きが悪いわね。あなたが宮中で過ごしやすいように手助けしたつもりだったのよ。特に中宮付きの女房なんて、誰かから評価されてこそ価値が出るものでしょう」

 全くその通りなので、これ以上は私の分が悪くなるだけだと判断した。

 早々に話題を切り替えなくてはならない。

「それはそうと、私、箏の師匠がいるんですよ」

 そう切り出すと、母は少しだけ嫌な顔をした。

 いじけるように目の前の箏を指ではじく。

「あら、母に教わるのはあんなに嫌がったのに、親不孝だわ。どういった方なの?」

「藤原公任様です」

 母の動きが止まった。箏からは、びょん、と変な音が出た。

「え……?」

「だから、藤原公任様ですよ。知らないってことはないでしょう」

「もちろん知っているわよ。あの方はいつだって噂の的ですもの。でも、あの公任様があなたの師なんて、信じられなくて」

 確かにそれはそうだ。私も信じられなかった。いまだに何故公任様が私に箏を教える気になったのかはわからないままである。

「あの方はすごいですよ。何度も目の前で楽器を披露していただきました。まるで楽器が生きているように聞こえるんです。でも、代わりにすごく変わった方です」

 私がそう言うと、母は笑った。

「私もぜひ聞いてみたいわ。どういった指導を受けたの?」

「知らない曲をどんどん覚えさせられました。それもびっくりするほど難しい曲ばかりなんです。しまいには、自分で何か曲を作れ、なんておっしゃるんですよ? 指導も厳しいなんてものじゃなくて、何度箏を投げ捨てそうになったかわかりませんわ」

「……あなたはそういう変に男勝りなのが玉に瑕ねえ」

 母がそう言って首を振った。

 自分でもなんでこういう性格になったか分からないが、なってしまったものは仕方ない。

 女房をやるには少し強気ぐらいがちょうどいい。

「ねえ、箏を弾いてくれない? 私あなたの弾いた箏が聴きたいわ」

「ええー……途中で色々言ってきたりしません?」

「しない、しない。ねえ、いいでしょう?」

「そこまで言うなら……」

 元々母に聴かせるつもりで帰ってきたのだが、先手を打たれたので、なんとなく素直に弾けなくなってしまう娘であった。

 私は、再び箏に手を伸ばす。弦をはじくと、静寂が訪れる。

 箏の音は冷たい冬の空気を切り裂くように、どこまでも響いていく。

 そういえば、しばらくまともに箏を弾いていなかった。

 例の事件や中宮様のご出産で慌ただしかったというのもあるが、何より、私に箏に向き合う余裕がなかったのだ。

 一通り弾き終わって、周りから音が戻ってくる。

「驚いた……。本当に上達したわ。これがあの香子かおるこだなんて信じられない」

 久しぶりに名前を呼ばれた。よほど驚いてくださったのだろう。

「本当に……小さい頃は稽古中いつもそわそわしいて、すぐにどこかへ逃げ出していたのに……」

 遠い目をする母に、私は決まりが悪くなって言った。

「もう、小さい頃の話はいいでしょう」

「ふふ、そうね。箏をやる気になってくれただけでも宮中にやった甲斐はあったのかしら」

「……お母様はどうして宮仕えをすることになったんですか?」

「まあ、急にどうしたの?」

「ずっと気になっていたんです。私の宮仕えには反対していたから」

「大した理由はないのよ。父の出世のためというのが一番かしら」

「おじい様の?」

「そうよ。私はある女御様に仕えていてね。中宮様ほどじゃないけれど、帝の奥様だから、口を利いてもらったりしていたのよ」

 母は、また箏を弾き始める。特に何の曲ということはなく、思いつくままに弦をはじくだけだ。

「まあ、私に宮中は合わなくてね。父の出世のためと思えば、周りがすべて競争者のように見えてくる。それに、女房なんて所詮、女御同士の競争道具でしかないようにしか思えなかったの。それで、お父様と結婚したのをきっかけに辞めてしまったわ」

「でも、箏の腕はとても評判だったと聞きました。残念に思う人もいたのでは?」

「さあ、どうかしらねえ。私はその期待すら鬱陶しかったから」

 そう言って、ぴん、とはじいた弦が一際大きく響いた。

「だから、結婚云々を抜きにしても、宮仕えには反対だったの。あんな気持ちの悪いところにあなたをやりたくなかった」

 気持ち悪い、という言葉が胸にのしかかった。母も、今の私と同じ気持ちを抱えて宮仕えから退いたのだ。

「ごめんなさいね、あなたは頑張っているのに」

 いえ、と言おうとして、喉が詰まった。「気にしないで、私なら大丈夫ですから」と伝えたいのに、また声が出ない。

 池の鯉のように口を開け閉めする私の異変に気付いたのか、母の顔色が変わる。

「どうしたの? 苦しいの?」

 私は首を横に振った。具合が悪いわけではない。

 ただ、昔の母の様子を想像して、勝手に自分と重ねてしまったのだ。それだけだった。

「……やっぱり、宮中で何かあったのね」

 そう問われて、私はゆっくりとうなずいた。

「今日はもう休みなさい。落ち着いて、話せるようになったら何があったのか話してくれたらいいわ」

「は、い……」

 かすれた声で返事をする。母は、優しく微笑んだ。

 雪はまだ止む様子はない。

 私は黙っているのが恐ろしくて、母が行った後は、ひたすら経を読み上げていた。

 一晩中読み続けるつもりだったが、色々と疲れていたのか、いつの間にか眠ってしまっていた。

 

 翌日、雪は夜のうちに止んでしまったようで、空からは日がさしていた。

 積もった雪に朝日がきらめいている。

 朝の空気は冷たく、息をするだけでも凍えてしまいそうだ。

 部屋の中に母の姿を見つけて、声をかける。

「おはようございます」

 声が出たことに安心する。母も同じようで、私の声を聞くと、微笑んだ。

「おはよう、よく眠れたかしら?」

「ええ、いつの間にかぐっすりでした」

「それなら良かった」

「あの、お母様……」

 昨日の話をしようとすると、母は手で制した。

「言ったでしょう。無理に話さなくていいわ。もう少しいるつもりなんでしょう? 時間ならいくらでもあるわよ」

 そう言われて、気持ちが少し軽くなった。昨日の私の様子を見て、心配性の母が気にしていないはずがない。昨夜は何と言えばいいのか、ということばかり考えていたのだ。

 朝食をとって、日記の製本でもしようかと思いながら今まで書いていたものを見返した。

 宮仕えに出てから、そろそろ三年になろうとしていた。

 何か思いつくたびに色々と書き散らしていたので、たまに字が読めないものや、支離滅裂なものもある。そういうのは残しておいても恥なので、塗りつぶしてかまどの燃料にでもさせておく。

「姫様にお客人です」

 そう呼ばれて、広げていたものを片付ける。

「どなた?」

 そう尋ねると、外のほうから大きな声が聞こえる。

「藤原公任殿が弟子の菅式部殿を訪ねてまいりました。どうか御目通り願います」

 私は従者のものであろう大声に度肝を抜かれた。

 公任様のことだから、いつかは私の里居はばれてしまうだろうと考えていたが、あまりにも早すぎではないだろうか。

 私はすぐ家司にお引き取り願うように言った。

「よろしいのですか?」

「いいから。今はお話をできるような状態じゃないの」

 そう言って送り出すが、すぐにまた戻ってくる。

「お話したくないのならそれでも構わないとおっしゃっています。箏を聴きに来ただけだから、とのことです」

 あくまでも引き下がらないおつもりのようだ。あまり頑なでもいるわけにはいかない。

 私の家の前に公任様の車はきっと目立つ。

「わかったわ、お通しして」

 母が従者の声を聞きつけてやってくる。

「公任様がいらっしゃったの?」

「そのようです。きっと箏の稽古をつけるつもりで来たら、私が居なかったのでこのまま帰るのも甲斐がないと思っていらっしゃったのでしょう」

「……とりあえず、私は部屋に戻っているわね」

 そう言って母は奥に引っ込んだ。私は散らかったものをもう一度かき集めて、畳などを用意する。

「やあ、里居と聞いて驚いたよ。体でも壊したのか?」

 相変わらずのにやけ顔である。

「いいえ」

 なんとか声は出た。これならお話もできそうだ。

「久しぶりに尋ねてみれば、清少納言から塩を渡されてね。わびしく暮らしているのが気の毒だから来てやったよ」

 やはり、清少納言がこの場所を教えたのだろう。

「おや、そういえば、声が出なくなっていると聞いていたが、戻ったのか?」

 公任様と最後にお会いした時はまだ声が出ていたから、私の声については公任様が自分で聞きつけたのだろう。

 家にいればなんとか出るようです、そう言おうとして止まった。

「それじゃあ、なんで里居なんてしているのだ? 今は中宮様も大変な時期だというのに、女房の君がこのようなところで怠けていていいのか?」

 頭の中で、勝手に公任様が話し出す。目の前の彼は、何も言わず、私の返事を待っているだけだ。

 家にいるうちは人前でも声が出るのかもしれないという考えはやはり甘かったようだ。 

 そのまま、私の返事は消え失せてしまった。

「……家に帰れば戻るということもなかったか」

 公任様がつぶやく。私は、筆談のための筆に手を伸ばした。

「筆よりも箏をとってくれ。私は君の箏を聴きに来たのだから」

 私は言われるがまま箏を持ってくる。

「久しぶりだな、君の箏を聴くのは」

 私は何も言わずに弾き始める。頭の中では宮中のことばかり考えていた。

 私は清少納言や藤大納言のように中宮様に信頼されているわけでもなければ、あの方に全てを捧げようとも思えなかった。

 母のように、父の出世のために宮仕えを始めたわけでもない。

 そう考えると、私はいよいよ何のために働いているのか全くわからなかった。

 がむしゃらに弾き続けて、ようやく手が止まった。日が動いている。

 私は途中から涙を流していた。頭の中でずっと考え続けて、どうしようもなかったものが溢れ出したようだった。

 慌てて涙を袖で拭うが、何度やっても新しい水滴が湧き出てくるだけである。

「……私にもその露を拭わせてはくれないか?」

「は……?」

 思わず声が出た。完全に無意識だったからだろうか。それにしても、なんとも間の抜けた声だった。

 この間お見せした手紙の文を真似ているのだと気が付くのにしばらくかかった。

 お返事をしようとしても、案の定声は出ない。

「無言は肯定と取ってもいいかな?」

 そう言って、公任様が御簾をめくろうと手をかける。

 私は慌ててその手を抑えた。その手はすっかり冷え切っている。

 思わず握りしめてしまった手が小刻みに震える。頭の上からはかすかな笑い声が降ってきた。

「悪い。冗談だよ」

 公任様はおかしそうにお笑いになっていた。

 私はからかわれたのが悔しくて、手を押し返すように離した。

「返事ができないのを分かっていて聞くのは反則だったな。忘れてくれ」

 そのままお帰りになってしまう気がして、私は慌ててお返事を書いた。

『姫百合を守っている関守はとても優秀なので、そう簡単に御覧になれるとは思わないでください』

 私の返事を見て、公任様は「肝に銘じておこう」とお笑いになる。

「ああ、それと一つ。君も、これだけは覚えておくといい」

 公任様は、立ち上がりかけていたのを、もう一度座りなおして言った。

「楽器は心を伝えるものだ。時として、言葉よりも鮮明に」

 公任様の目が、真っ直ぐに私を捉えた。

「君は誰かに心を伝えるだけの腕はすでに持っている。師匠の私が言うのだから間違いない」

 いつになく真剣な表情に戸惑ってしまう。恐る恐るうなずくと、公任様は満足そうに笑みを浮かべる。

「また会いに来よう。その時は宮中にいてくれると、私としても助かるのだが」

 そう言って立ち上がる。私もお見送りのために立ち上がるが、手で制される。

「焦る必要はない。でも、待っている人間がいるということは忘れないでくれよ」

 そう言い置くと、公任様はお帰りになった。

 外を見れば、積もっていた雪がほとんど溶けてしまっている。

 公任様がお帰りになったのを見て、母が部屋にやって来た。

「わざわざ家にまで様子を見に来られるなんて、よほど気に入られているのね」

 どこか嬉しそうに言う。私は黙って母を見つめた。

 その様子に、母の顔が少し曇る。

「また、声が出ないの?」

 うなずく。私は筆をとって紙に文字を書いた。ゆっくり、言葉を選びながら筆をすべらせる。

『宮中ではほとんど話すことはできません。それで、里に帰ることにしたのです』

「まあ……」

 母は、思ったより落ち着いて私の字を見ていた。昨日の夜のことを思えば、全く予想できないことでもなかったのだろう。

「それじゃあ、もう宮中には……」

 私は首を横に振る。また筆をとった。

『しばらく休んだら、声がどうであろうとも戻ります』

「……あなたがつらい思いをするくらいなら、戻らなくてもいいのよ」

 母の顔が心配そうに歪んだ。きっと、自分の宮仕えのことを思い出しているのだろう。

『大丈夫、宮中も悪いところばかりではありませんから』

 私がこう書くと、母は小さくため息をついた。

「そういう変に前向きなところは、父親に似たのね」

 そう言って、母は笑った。

「変……ですか」

 ようやく声を絞り出した。

「あら、怒らないでね。私は二人のそういう所が好きだと言いたいのよ」

 慌てて付け加える母の様子がおかしかったので、私は笑う。

「信じていないのかしら。ひどい娘」

 母もわざとらしく拗ねて見せた。

 朝はあんなに冷たかった空気も、日に照らされて少しだけ温まっている気がした。

 溶けてしまった雪の代わりに、火鉢の中で灰が白く色を変えていた。

 それからしばらくして、私は宮中に戻ることにした。

 日記は本の形に綴じて、また持っていく。

 誰に見せるわけでもないが、里居をするときに製本だけはやっておきたいと思っていたのだ。

 あまりに好き勝手に書いているものなので、むしろ家に置いて誰かに見られるのは困る。

 その日はすっきりと晴れていた。冬の澄んだ空気が心地よい。

「本当に大丈夫なの? もっとゆっくりしていても良かったのでは」

 母が私の手を取って、心配そうに尋ねる。指先が固い、私にそっくりの手だ。

「大丈夫です。正月ものんびりと過ごすことができましたし、これ以上休んでいたらみんな私のことを忘れてしまいますわ」

 そう笑って、手を握り返した。

「それに、私にはお母様がくださった箏があります。たとえまた声が出ずとも、箏さえあれば大丈夫です」

「……あなたがそう言うのなら、そうなんでしょうね」

 父も私たちに手を重ねる。

「いつでも帰っておいで。待っているよ」

「……はい、お父様」

 そうして、両親に見送られながら車に乗り込む。初めて出仕した日を再現したかのようだった。

 今の私はあの頃よりも多くのものを手に入れた。それを確認できただけでも、この里居に意味はあったと思う。

 久しぶりの宮中は、活気に溢れているように感じた。家に比べて人が多いのだから当たり前である。

 常にどこかで人の動く気配がする。ひと月ほど離れていただけなのに、とても懐かしい気がする。

「あら、戻ってきたのね」

 部屋に入ると、ちょうど清少納言がいた。他の女房たちは眠っている人がほとんどだった。

「また何の連絡も寄越さないで」

「……すみません」

 蚊の鳴くような声だったが、私の声を聞いて、清少納言は微笑んだ。

「おかえりなさい。体調はいいの?」

「ええ……声は万全とは言いにくいんですけど」

 正直、清少納言に対して話せるかどうかも分からなかった。

 ただ、彼女が私のことを待ってくれている人だというのは感じたのだ。

 もちろん、私の参上を待っている人ばかりではない。

「くちなしの君が戻って来たわ」

「あら、本当。お客の相手もできないのに、よく戻って来られたものね」

 彼女たちの言う通り、私は相変わらず人前で話をすることはできなかった。

 女房たちの中でまともに話せる相手は、清少納言と藤大納言くらいで、その他は里居の前とほとんど変わらない状態であった。

 ただ、私にできることがないわけではない。

 私は中宮様のお部屋に参上したときは、口で客人の相手ができない分、奥で箏を弾き続けていた。

「おや、素晴らしい音色だ。どなたの演奏かな?」

 私の箏を聞きつけて、立ち止まる人は少なくなかった。

「ああ、菅式部が戻ったのだね」

「このような素晴らしい演奏者を召し抱えて、中宮様もさぞ鼻が高くていらっしゃることだろう」

 人が私の箏を聴きに来るたび、中宮様のお部屋が活気づいた。

 私のことを「くちなし」と呼ぶものは徐々に減り、私は元の菅式部になった。

 声など無くても、私には箏がある。公任様のおっしゃることは正しかったのだ。

 長かった寒い季節が終わり、ようやく辺りが暖かくなり始める。

 庭の木はまた薄紅のつぼみを付け始めていた。

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