宮中男性事情
宮中にやって来てもうすぐ一か月になる。
中宮様の局には色々な人がご機嫌伺いにやってくる。それに加えて女房たちに会いに来る人も多いから、私はこのひと月ですでに一生分の人と出会った気がしている。
きっとこの様子だと「姫百合の文」の君とも巡り会えることだろう。
桜も散り、緑が目に眩しくなってきていた。
私はようやく取り次ぎなどには慣れてきたものの、暇つぶしにと女房たちの部屋にやってくるような殿方たちが厄介だった。
彼らは女房と知恵比べや言葉遊びをするのが好きなようだ。
もちろん男性と女房では知っている漢字や漢詩も比べようがないのだが、自分たちの思いもよらない知識を持っている女房などがいると喜ぶのだ。
また、男女のやり取りと言えば欠かせないのは恋文である。これもほとんどは言葉遊びの延長で、恋人同士のやり取りを演じて叙情的な手紙を送りあったり、和歌を詠みあったりするのを楽しんでいる。もちろん、これがきっかけで本当に恋に燃え上がってしまう者もいるようだが。
私はこういったやり取りが苦手だ。そもそも、得意であれば宮仕えなどせずに結婚に至っているはずなのだ。
漢字や古歌を覚えるのはそれなりに得意であるのだが、相手の顔色や状況を見るのが苦手だ。的外れなことを言ってその場をしらけさせてしまう。
それが恐ろしくて、突然歌を詠みかけられたりすればたちまち押し黙ってしまうのだ。
清少納言も歌は得意ではないと言いながらも、私の代わりに返事をしてくれる。
「歌はとにかく早くお返事するのがいいのよ。どうせ大した歌が作れないんだったら待たせるだけ無駄というものでしょう」
「そうは言っても、下手なことは言えないと思ったら頭が真っ白になってしまうんですよ」
「下手なことしか言えないんだから、気にしなきゃいいのに」
あまりにひどい言われようである。
「清少納言さんは歌人の娘でしょう。指導者に恵まれてない私とは違いますよ」
そう言うと、清少納言はとても不快そうな顔をした。
「それ。その歌人の娘という肩書きが嫌なのよ。指導者は確かにいたわ。けれど、歌の才能って教えてもらって身につくものでもないでしょう。」
「そういうものなんですか」
「そうよ。それなのに父親が歌人だと余計な期待をされて、やりにくいったらないわ。才能のない娘だと言われて父親の顔に泥を塗るのも嫌でしょう。だから歌は嫌いなの」
いっそ清々しいほどばっさりと切り捨てたので、ここまで割り切れていればいくらか楽なのかもしれないと思った。
二人でそのような話をしていると、廊下の方から数人の足音が聞こえてきた。
やってきたのは三人の男性貴族であった。
一人は清少納言の元夫の橘則光。この人はすでに何度か部屋にやって来ていたので知っている。別れた今でもお互いに兄と妹と呼び合い、親しくしているというので、なぜ別れてしまったのか私には不思議でならない。
「則光兄さん。来るなら使いの一人でも送ってくれればよかったのに」
清少納言が声をかけると、則光さんは渋い顔をする。
「使いを送るなら手紙を書かなきゃいかんだろう。俺はそういうのは得意じゃないから」
「あきれた。そうやって避けてばかりだから歌の一つも詠めないのよ」
「俺は歌や風流などはわからん。専門外だ」
このようなやり取りは日常茶飯事だということを、私はすでに知っている。
あとの二人もそれはよく理解しているようだった。
「あまり則光にばかり構わないで、私の相手もしてくれないかな。妬けてしまうよ」
親し気に話しかけてきたのはかなりの美丈夫であった。絹のような肌に、涼しげな目元。形の良い三日月の唇が作る人懐こい笑顔がとても眩しい。
「あら、斉信様。最近お顔を見なかったから、私のことは飽きてしまったのだとばかり思っていましたわ」
「君に飽きるなんて、そんなことあるはずないじゃないか」
「ふふ、どうかしら」
美丈夫の名前は藤原斉信様とおっしゃった。斉信様は、頭中将とも呼ばれている。天皇の警護をする近衛と、天皇の世話係である蔵人の頭とを兼任しているそうだ。すでに亡くなられてはいるものの、父親は太政大臣というのだから、宮仕えなどせず普通にしていれば、私などがまず出会うことのない人物である。
ちなみに、則光さんは斉信様の家で家司として働いているそうだ。歌よりも家事や武芸の方が得意だというのもうなずける。
そんな素晴らしい人物にも臆することなく、清少納言は親しげに会話を続けている。
「あの、お二人ともかなり親しくしていらっしゃるようですが、どういったご関係ですか?」
辛抱たまらず尋ねてしまえば、二人ともおかしそうに笑った。
「いやね、そういうことを聞くのは野暮ってものでしょう」
「まあ『しのぶれど色に出でにけり』という歌もあることだし、それほどまでに君に対する私の恋心がにじみ出ていたということだろう」
『しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで』
ひた隠しにしていても態度や表情ににじみ出てしまう私の恋心は、何か思い悩んでいるのかと人に尋ねられてしまうほどだ――という平兼盛の詠んだ歌だ。
しのぶれど、と言うわりに斉信様は私たちの目の前で清少納言を口説いている。
「またそういうことをおっしゃって。菅式部は真面目だからこういうことを真に受けてしまうんですよ」
「おや、私はいつだって真剣なのに。君は真に受けてくれないのだね」
二人がいつまでも笑っているので、さすがに恋仲ではないのだろうという察しがついた。
「いつもそうやって恋人のようなやり取りばかり交わしているから誤解されるんですよ」
則光さんが楽しげな二人に苦言を呈する。私もまったくその通りだと思った。
「兄さんはこういうのに疎いからだめなのよ。」
だめらしい。何故か私まで怒られている気分になる。
「仕事に支障はない」
真面目に返す則光さんに、清少納言は渋い顔をする。
「武芸ばかりに精を出しているからよ。私、乱暴なのは嫌いだわ」
「それが俺の仕事だ。仕方ないだろう」
「二人とも兄妹げんかはやめてくれないか。そんなことより、私たちは新入りを見に来たのだろう」
突然、話の矛先が自分に向いて焦る。私に声をかけてきたのは、藤原公任様だった。
公任様は、参議として都の政治の中枢にいる一人である。
公任様も斉信様も、他の女房たちから話くらいは聞いたことがあるものの、お会いするのはこれが初めてであった。
「菅原敏則の娘、菅式部と申します。以後、お見知りおきを」
こういうのは第一印象が肝心なのだ。
先ほど野暮な問いかけをしてしまったことを取り返すように、ことさら気取って名乗り出る。
御簾の向こうから私を品定めするかのような視線が突き刺さる。宮中の生活で身に着けた愛想笑いが引きつり始める。どうせ顔は扇で隠してあるから見えないけれど、その分雰囲気で伝わってしまうものもあると、このひと月で学んだ。扇の向こうの表情はすぐに見透かされてしまう。
「君、
「はい?」
公任様の突然の問いかけに、私を含む全員が呆気にとられた。
当然だ。誰も私が箏を弾くところを見たことはない。
だから、誰も私が箏を弾けることを知らないはずなのだ。
弾けないはずの私が、箏を持っているわけがないと誰もが思うだろう。
黙っている私を見て、公任様がしびれを切らしたように、口を開く。
「持っているだろう。今朝届いたはずだ」
なんでそんなことまで知っているんだこの人は。
わざわざ聞いてくるということは、弾いて見せろということだろうか。
公任様は和歌、漢詩、雅楽の三つの道に秀でているというのは宮中では有名な話である。
そんな公任様が私に楽器を弾け、ということは見定めてやるということなのだろう。
さすがにここでお断りするのは女房としてよろしくないということくらいは弁えていた。
色々と腑に落ちないことはあるが、とりあえず部屋の奥から母から送られてきた箏を持ってくる。
弦の調子を確かめるようにはじいてみる。爽やかな音が響いた。これなら問題ないだろう。
宮中に来てから全く触っていなかったから不安はあるが、とりあえず覚えている曲を弾いてみる。
私は楽器よりも漢字を覚える方が好きだった。
稽古中もすぐに飽きて、父の本を勝手に読んでいた。その度に母から叱られることになるのだが。
宮中に来てまで、楽器を触りたいとは思えなかった。いっそのこと弾けないことにすれば、練習もしなくて済む。
だから、あえて楽器は家に置いていたのに、母は目ざとかった。私に箏を触るほどの余裕が生まれるまで待って、送りつけてきた。これでは「今それどころじゃない」と言って突き返すこともできない。
ふと顔を上げると清少納言と目が合った――ような気がしたのだが、彼女がどこを見ているのかはっきりしない。
「あの、どうかしました? 私の箏まずかったですか?」
思わず演奏を止めて尋ねた。清少納言の瞳に光が戻る。
「あ、いや……驚いただけよ。あなた楽器弾けるのね」
「まずいことなんてあるものか! 素晴らしかったよ。思わず涙が出てしまいそうだった」
斉信様が大げさに立ち上がっておっしゃった。
「こんなにも素晴らしい演奏を聴けるとは、来た甲斐があったな」
「大げさです。母に無理やり習わされていただけですから」
「やはり、母上に習っていたのだな」
母、という言葉に公任様が食いついた。
「菅式部、というからもしかしてと思ったのだ」
嬉しそうな公任様に対して、私は全く話が見えない。清少納言もよくわかっていないようで、二人してきょとんとしていた。
一人だけ、斉信様は合点が言ったような顔をする。
「ああ、確かに、前にも菅式部っていう女房がいたね」
「もしかして、それが私の母ということですか?」
「そうだ。彼女は筝の名手として宮中で評判だった」
公任様が返事をする。以前、宮中には菅式部という箏が上手いと評判の女房がいた。
それが、私の母親ではないかというのだ。
彼女の腕には公任様も一目置いたそうで、同じ名前の女房が新しく入ったと聞きつけて、興味を持ってやって来たという。
確かに母は筝が得意だ。筝の稽古はもっぱら母の役目だった。
稽古は嫌いだったが、母の箏を聞いているのは好きだった。そういえば、外からも熱心に聴きに来る人が何人かいた気がする。
しかし、私の宮仕えに反対した母が女房だったとは信じがたい。ましてや、こんな方々の耳に入るほどの評判だったなんて。
母が働きに出ていた頃の記憶を探してみるものの、さっぱり思い出せなかった。
私が考え込んでいるのを見て、斉信様がお話しになる。
「君は若いから、知らなくても無理は無い。かなり前の事だから、君が生まれてすぐくらいには女房をやめているのではないかな」
「それに、私は宮中の出来事には強いのだ。日々色んなところから情報を集めているからな」
公任様は得意げにおっしゃった。
「公任は大の噂好きでね。色々なところから話を仕入れてくるよ。まあ、大抵は自分の話ばかりだけどね」
「常日頃から自分の評価を気にしておくというのも大事だろう」
「そんなこと言って、褒められた話ばかり自慢してくるじゃないか」
「自慢じゃない、報告だ」
「いらない報告だよ」
斉信様にそう切り捨てられたものの、公任様は気にすることもなくすぐに話を切り替えた。
「先ほどの演奏だが、確かに良い師を持っているというのは感じた」
「あ、ありがとうございます」
褒められたことに驚きつつも、返事をするとすぐに「だがな」と睨まれた。
「練習を怠けているというのもありありとわかった。あと、いい加減な気持ちで弾くな。別の事を考えていただろう。同じ名前を名乗るなら、母の名に傷を付けるようなことはしないことだ」
褒められたと思ったら、それ以上に怒られた。初めは呆気に取られていたが、じわじわと怒りがわいてくる。
なんで私がこのような物言いをされなければならないのだろう?
「母の名に傷を付けまいとしているのは私だって同じです。だからこそ私は箏について隠しておいたのに、わざわざ弾かせたのはあなたでしょう? 私、元々楽器を弾くのは好きじゃないんです」
矢継ぎ早にそう言うと、清少納言に小突かれた。
「あなた、公任様に対して失礼でしょう」
「だって、納得いかないです!」
「だってじゃない!」
「二人とも落ち着かないか」
言い合いを始めた私たちを見かねたのか、則光さんが私たちの間に割って入る。
その様子を見て、公任様はおかしそうに笑った。
「威勢がいいことは悪いことではないが、君は楽器以外に何か得意なことはあるのかい」
そう聞かれて、言葉に詰まった。漢字や歌はよく知っているが、宮中ではそんなことは当然の教養なのだ。
公任様がさもありなんとばかりに笑う。意地悪な方だ。
「君はまだ若いからね。先ほどの無礼については許そう」
清少納言がありがとうございます、と頭を下げる。私も一緒に頭を下げた。
まだ納得はしていないが、無礼な物言いをしたのは事実だ。清少納言だけに謝らせるわけにはいかない。
「申し訳ございませんでした」
公任様は私が頭を下げたのを見て、にやりと笑う。
「まあ、筋は悪くない。どうだ、私が母君の代わりに稽古をしてやろうか?」
「は……?」
思わぬ申し出に開いた口が塞がらない。
正直に言えば、絶対に嫌だ。せっかく解放されたと思った楽器の稽古。それも、こんな意地悪な方に稽古をつけてもらうなんて。
「まさか、断るなんてことはないよな?」
清少納言の方を見ると、口だけで「お受けしなさい」と言っていた。
「めったにないことだよ、公任が自分で誰かに教えようなんてするのは」
斉信様はご友人の奇行に喜んでおられる。
四面楚歌というのはこういった状況のことだろうか。
相手は雅楽の道を究めた公任様である。その申し出を私のような小娘が断るなどできるはずもなかった。
「……よろしくお願いいたします」
「よろしい。私は厳しいぞ」
しぶしぶと頭を下げると、公任様がにやにやしながら返事をする。
この人、絶対面白がっている。師弟ごっこをしてみたいのだろうか。
「よし、では、私たちはそろそろお暇しようか。面白い話もできたことだし」
上機嫌に斉信様に声をかける公任様を扇越しに睨み付ける。
その瞬間、公任様はもう一度私に向き直った。目があったような気がして、慌てて視線を逸らした。
「また、使いを寄越すよ。くれぐれも覚悟しておくように」
にやり、と笑うと、嫌な言葉を残してご退出なさった。
私と清少納言は見送った先をしばらく呆けたように見つめていた。
「あなた、すごいことになったわね」
「止めてくださいよ……」
「いやよ。名誉なことだと思って受けなさい。公任様のような方が女房に稽古をつけるなんて本当に滅多にないことだわ」
自分でも何故このような事態になってしまったのかさっぱりわからない。
この話は瞬く間に宮中を駆け巡った。
良くも悪くも目立つ方である。噂には長い長い尾ひれがついて、「藤原公任が中宮付きの女房に交際を申し込んだらしい」だの、「菅式部は藤原公任も認める箏の名人らしい」だの、とんでもない方向に一人走りしているようだ。
ここまで大事になると思っていなかった私は、事の重大さに頭を抱えていた。
しかし、肝心の公任様はあれからというもの手紙も使いも寄越さない。全くの音沙汰なしであった。
「完全にもてあそばれた……」
すでに十日あまりが経っていた。頭が痛くなるような噂だけが私の元を訪れる。
特に、箏を聴かせてくれと訪れる人が多く、私はこの数日間箏に触らない日はなかった。
下手な演奏をすれば困るのは自分である。あれだけ嫌だった練習もしないわけにはいかなかった。
弦で痛めた手をさすりながら、ひどい男に遊ばれたものだと恨み嘆く毎日である。
「あら、菅式部。今日の演奏会はもう終わりなの?」
こう話しかけてきたのは、藤大納言であった。彼女は女房たちの中でも古株で家柄も良い、いわゆる上臈と呼ばれる女房の一人である。
「ええ、お客様には先ほどお帰りいただいたところです」
「残念ね、私も聴きたかったわ」
「もう聞き飽きたと言われても仕方ないと思っていますのに」
そう言うと、藤大納言は首を横に振った。
「あら、そんなことはないわ。私、あなたの箏が好きなの。いつまでも聴いていたいほどよ」
「あ、ありがとうございます……」
面と向かって褒められると、私はすっかり恐縮してしまった。
「おかしな子ね。公任様にも認めていただいたほどの腕前なのだから、もっと堂々としていればいいのに」
「あれは、からかわれただけと言いますか……。あれ以来音沙汰無しですし」
しどろもどろに答えると、藤大納言は首を傾げた。
「そうなの? でも、今じゃあなたの腕前を宮中で知らない人はいないのよ」
「え?」
予想外の言葉に思わず聞き返す。
「噂を聞きつけてたくさんの人があなたの箏を聴きに来たでしょう? それで、皆たいそう感動したっていう話が広まっているそうだけど、知らなかったの?」
知らなかった。ここに来る人たちは皆、公任様の名前に釣られたものだとばかり思っていたのだ。
「初めは公任様のお名前あってこそだったかもしれないけれど、あなたの箏は本当に素敵なのよ。毎日聴いている私が言うのだから間違いないわ」
藤大納言が私の手を取って微笑んだ。
「だから、私の為にその箏を弾いてくださらないかしら」
その手は白く、とても柔らかかった。着物の袖からは甘い香の香りがする。
私はその手を恐る恐る握り返す。下手に力を入れたら握りつぶしてしまいそうで恐ろしかったのだ。彼女の手と比べると、私の指先は固くなりかけているのがわかった。
「もちろん、喜んで」
そうお返事すると、藤大納言の顔が華やいだ。
「ああ、よかった。今日はもう聴けないかと思ったわ」
こう喜ばれると悪い気はしないものだ。私はいそいそと箏を準備し、弾き始める。
日は傾き、東の空は藍色に染まりかけていた。
箏の音が空に染みわたり、藍色は次第に濃くなっていく。
弾き終わるころにはすっかり日が落ちていた。
庭の池では蛍が光っては消え、またどこかで光っては消え、暗闇をほのかに彩っていた。
「ありがとう、素晴らしかったわ」
「いえ、喜んでいただけたならなによりです」
その時、御簾の向こうから「藤大納言殿はいらっしゃいますか」と声をかけられた。
「ええ、ここにおります」
「藤大納言殿にお手紙でございます」
そういって差し出されたのは、花菖蒲に薄様の紙を結んだものであった。
「ありがとうございます。お返事は後でいたしますとお伝えください」
そう言うと、使いの者はそのまま帰っていった。
藤大納言は手紙を広げることもなく、紙を巻いたままの花菖蒲を大事に持っていた。
花菖蒲の香りに交じって、かすかに香の匂いがした。藤大納言の甘い香りとも違う。おそらくは手紙に焚き染めてあるものだろう。
「それじゃあ、私はもう奥で休むことにするわ」
藤大納言は花を大事に抱えたまま「おやすみなさい」とだけ言うと、奥に下がっていった。
誰からの手紙かしら。これが清少納言なら私の目の前でためらいなく手紙を広げただろう。彼女には隠れて文をやり取りするような相手はいないのだ。残念なことに、それは私も同じである。
あの柔らかい手に握られる花菖蒲のことを思う。あの花が姫百合で、それを受け取るのが私だったらどんなに素晴らしいだろう。
花の代わりに自分の指先をそっと握ってみる。指先の皮が少し厚くなって、ようやく弦を押しても痛くなくなってきた。箏を弾くには良い手だろう。
その日は夢を見た。姫百合が咲く野原で、彼の方が私を呼んでいる。
しかし、橙色の花は次第に紫に色を変える。
気づけば辺り一面に花菖蒲が咲き誇っていた。
「おいで、愛しい人」
突然聞こえた声に振り返れば、花畑に斉信様が立っていた。
「まさか、あなたが姫百合の君……?」
夢にまで会いに来てくださるなんて、と嬉しく思ったが、斉信様は私の問いかけには答えない。ただ、黙って微笑んでいるだけである。
駆け出そうとして、足が止まった。その瞬間、突風が花を舞い上げる。
紫の壁の向こうで、斉信様の顔が歪んで見えた。
斉信様ではない、そう直感した。途端に、歪んだ顔が恐ろしく見える。
「あなたは誰なの……?」
それきり、目の前が暗くなり、何もわからなくなってしまった。
翌朝、私はいつもより遅く起きてしまい、清少納言に叱られた。
「ようやくここでの生活にも慣れたころかと思ったら。慣れと緩みは違うのよ」
「返す言葉もございません……」
清少納言の説教にうなだれていると、藤大納言がやってきた。
「清少納言、そのへんにしてあげなさい。あなただって寝過ごしたことくらいあるでしょう」
彼女の一言で、清少納言が「うっ」と言葉に詰まった。
なんだ、人のこと言えないじゃないの。
「菅式部も、気が緩んでくるのもわかるけれど、明日はしっかりね」
「はい」
「二人とも中宮様がお待ちだわ。早く参上なさい」
そう言われて、私と清少納言はあわただしく中宮様のお部屋に向かった。
途中、どこからか花菖蒲の匂いが風に乗ってきた。
朝の風は庭の草木を揺らし、さわさわと音を響かせていた。
結局、公任様から使いがやってきたのはひと月以上開いたある日のことであった。
外はもう秋の気配が感じられる。
山は赤と黄色の錦を着たように華やかに色づいていた。
「やあ、元気にしていたかな?」
久しぶりに会った公任様の、悪びれた様子の一切無い顔が腹立たしい。
「私のことなんてお忘れかと思いましたわ。ひどい男にもてあそばれたと毎日嘆き悲しんでおりましたのよ」
嫌味の一つでも言ってやろうと言葉を投げかける。
「そう言うな。待つ時間というのも大切だ。君は飽きやすそうな気がするから、毎日会っていてはすぐに私のことを捨ててしまうだろう」
失礼な人だ。言い返してやろうかと考えていると、公任様が手を差し出してきた。
「手を見せてくれ」
「何故です」
「いいから。左手だ」
言われるがまま、御簾の隙間から左手を差し出した。
公任様は、その手を躊躇いなく取った。思わず引っ込めようとするが、意外と力強く握られていて、それはかなわなかった。
「何するんですか!」
「騒ぐな。……ふむ、いいじゃないか」
ひとしきり眺めると、満足そうに左手を解放する。
「あのやわらかい指じゃ満足に稽古もつけられそうになかったからな。たくましくなったじゃないか」
そこまで言われて、ようやく納得した。この方は私の指が箏になじむのを待っていたのだ。
おそらく、この奇妙な師弟関係を宮中に広めたのもこの方だろう。おかげで私はこのひと月の間、箏から逃れられた日はなかった。
「ご名答。ついでに、君の箏の腕前も宮中に知れ渡ることとなった。一石二鳥だな」
「無茶苦茶です……」
「上手くいったのだからいいだろう。それに、これくらい耐えられるようじゃなきゃ、私の指導についていけるとは思えん」
あっけらかんと言い放つ公任様に、私は早くもあの時断っておけば良かったと後悔し始めていた。
実際、公任様の指導は厳しかった。お忙しい方であるからそれほど多い時間は取れないだろうと高をくくっていたのに、暇を見つけてはしょっちゅう私の元を訪れる。
さらに、稽古終わりにはいつもとんでもない課題をお与えになる。次の稽古までに新しい曲を覚えておけ、なんていうのはかわいいもので、曲の解釈が甘いとして、到底読み切れないような量の資料を置いて帰ることもあった。もちろん「次に会うまでに頭に叩き込んでおくように」という呪いのような言葉を添えて。
「私が君を指導しているのは周知の事実だからな。君が下手な箏を披露すれば、私まで恥をかく羽目になる。厳しくて当然だろう」
「その時は破門してくださって結構ですよ。何だったら今すぐにでも構いません」
「私が匙を投げたと思われるのは癪じゃないか。それに、君にも不名誉なことになる。君の不名誉は中宮様の不名誉だ。それを忘れるなよ」
そう言われてしまえば、私は甘んじて地獄の稽古を続けるしかない。
「投げ出すことばかり考えるな。君が素晴らしい演奏を披露できれば中宮様にとっても君にとっても良いだろう。ついでに、私も優れた指導者として評価される」
「本当は後者が目的でしょう」
「当たり前だろう。そうじゃなきゃこんなこと言い出すものか」
「なんて打算的な……」
「何をいまさら。宮中なんて打算で出来ているようなものだぞ。それに、私が師として名乗りをあげたというだけで君には充分名誉なことだろう。君の方が得をしているのだからいいじゃないか」
確かにその通りではあるのだが、自分で言ってしまえば世話ないな、と思ってしまう。
この方は優れていると評価されているところはたくさんあるのに、この性格ですべてを台無しにしてしまっている気がする。
この日の稽古は夜まで続いた。
夕日が沈みかけて、山に飲まれていくのは何とも言えない光景であった。
山の上から漏れ出す光で、辺りは紅く染まっていく。
ぼんやり眺めていると叱られて、慌てて再び弦をはじき始める。
その音に返事をするかのように鴉が三度鳴いた。
「まあ、嫌だわ」
その声に顔をしかめると、公任様がようやく振り返って外を見た。
「箏の音を鳥の声だとでも思ったか。間抜けな鴉だな」
そうおっしゃると、おかしそうにお笑いになる。
「鴉って、不気味で好きになれないです。なんだか、気が削がれてしまいました。」
「じゃあ、今日はこの辺にするか」
そう言って立ち上がる。見上げると、公任様の後ろに、雁の群れが小さく飛んでいた。
「また来る。今度は斉信とも誘い合わせておくよ。彼は君の箏をいたく気に入っていたようだったから」
そう言われて、先日見た夢の事を思い出した。人は、誰かのことを強く想うと、その気持ちが相手の夢にまで渡っていってしまうという。
あの夢に出てきたのは、斉信様だった。
斉信様はよく女房たちを訪ねていらっしゃることはあれども、私を訪ねてきたのは、初めきりである。
そもそも、途中から斉信様ではなくなってしまったから、本当に夢を訪ねてこられたかすら怪しい。
それでも、もしも斉信様があの「姫百合の文」の君であったらと心をときめかせてしまうのであった。
そんな私の反応にお気づきになったのか、公任様がため息をついた。
「色男も大変だな。悪いことは言わない、斉信はやめておけ。恋敵が何人いるか知れたものじゃないぞ」
にやにやしながらおっしゃるのが憎らしくて、私はわざとらしくそっぽを向いた。
「そこまで身の程知らずじゃありません。もういいですから、お帰りになってください」
「この私に早く帰れとせっつくとは、生意気な娘だ。一人前の女なら、ここはまだ帰らないでと泣きつく場面だぞ」
公任様はそう言って、笑いながら帰って行かれた。
私は、からかわれたことと半人前の子供のような物言いをされたことに腹を立てて、公任様が帰った後もがむしゃらに箏を弾いていた。
あまりにめちゃくちゃに弾いていたので、部屋にいた清少納言から「うるさい」と叱られてしまった。
「秋の夜にふさわしい音にしてちょうだい。虫の声が聞こえないじゃないの」
「ああ、すみません」
「ねえ、今日は虫がたくさん鳴いているのよ。一緒に聞きましょう」
清少納言は楽しそうに御簾を上げて、廊下に出た。
「扇、忘れないでくださいね」
二人並んで虫の声に耳を澄ませる。箏に夢中で気づかなかったが、虫たちの軽やかな歌声が響いていた。
「秋の虫はいいわね。綺麗な声で鳴くから」
「そうですねえ」
「あ、夕暮れも好きよ。今日なんてとても綺麗だったわ。鴉が鳴いていたのも面白かったし」
鴉と言われて思わず顔をしかめた。
「鴉って、不気味で不吉な感じがしません?」
「でも、鴉が何匹かで連れ立って飛んでいくのって面白くない? お互いに声を掛け合って山に帰って行くの」
清少納言に言われて、確かに今日の鴉は同じ山に帰る仲間か、家族のようにも見えたなと考える。
あの鳴いていたのも、「もうすぐ巣につくぞ」とか「今日もたくさん飛んで疲れたな」とか言っていたのかしら。想像したら何だかおかしくなってしまった。
「ねえ、面白いでしょう?」
私がうなずいたのを見て、清少納言は満足そうに笑う。
「あなたは素直ね。そういうところ、好きよ」
「なんだか、子ども扱いされているような気がします」
「そこは素直に喜びなさいよ」
ふて腐れた私がまた子供のようで面白かったのか、清少納言はまた笑った。
虫たちも一緒になってころころと笑う。
月の光が明るく私たちを照らしていた。どうやら、今夜は満月のようだ。
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