宮にはじめて参りたるころ
春は花。桜が見事に咲いているのは言うまでもないけれど、梅の匂いも好き。みんなでお花見をして、歌を詠みあうのってとても楽しいし、風流でいいと思う。
私が中宮定子様のもとに宮仕えに参ったのは、一条天皇の御時、梅の香が素晴らしい春の頃であった。
十八になって、いよいよ結婚をと両親が連れてきた男は、それなりの家の出身ではあったが、頭が悪かった。
私の父は学者である。名前を
父は幼いころから私を可愛がっていた。私が興味を示すと、漢字でもなんでも教えていたのである。
そんな父に、母は「女の子に漢字を教えるなんて、婿を取れなくなったらどうするんですか」といつも口をすっぱくして言っていた。
実際、母の言うことは正しかった。
女ながらに漢字の知識を身に着け、賢しくなった私は、初めての逢瀬で語らっている時分に、つい相手の男に漢詩の話をしてしまったのである。
そこでうまく返してくれれば良かったのに、あまりに意外だったのか男は閉口してしまったのだ。
そのまま彼からの手紙は途絶え、結婚の話もお流れとなった。
落ち込む私を見かねたのか、父は私に宮仕えの話を持ってきた。どうして私なんぞにそんな話が来たのかはわからないが、おおかた父が知り合いの伝手を尋ね歩いたのだろう。
「中宮の定子様は、お前と同じ十八歳でいらっしゃる。お前ならきっと良いお話し相手になってさしあげられるだろう」
私はそんな大層な仕事ができるはずもないと思って、父にお断りするように言った。
母も猛反対であった。父が宮仕えの話を持ってきたと聞いて、かなり怒っていた。
「第一、未婚の女が働きに出るなんて、ますます婿が取れなくなったらどうするんですか」
「そうは言うが、私は、今のままではいつまで経ってもこの子は結婚すらできないだろうと思うよ」
私は耳を疑った。
目に入れても痛くないというように甘やかし、いつも私の望む通りにしてきた父である。
今回も私がお断りすれば、諦めて別の縁談を組んでくれるはずだと思っていた。
「お前はよその娘に比べて賢い。だからこそ、賢いだけではいけない」
それなのに、父は珍しく、私に説教のようなことを言って食い下がる。
「だからこそ私は早く結婚して子供が欲しいのです」
この、父親であってもすぐ言い返す気の強さが件の恋人に嫌われたのだが。
「あれは、頭が悪いのが良くなかったのです。今の私を愛してくれる殿方だってきっといるわ」
もっと賢くて、漢字を知っていても嫌がらないような、心の広い人であれば、私の結婚だって上手くいくはずなのだ。
例えば、私が十歳のころに出会った「姫百合の文」の殿方とか。
その年の六月、私は父に連れられて法華経の説法を聞きにとある寺へ出かけていた。
私は初めての外出に大はしゃぎで、窓から外を眺めては、あれは何、それは何、と聞いていた。
いつもは屋敷の中でばかり過ごしているものだから、私には目に映るもの全てが新しく、眩しかった。
外には私たちと同じような物見車がたくさん停まっていて、とても活気に満ちていた。
それまで聞いたことがないほどたくさんの人たちの話し声があちらこちらから聞こえてきて、話に聞く波の音というのはこういうものじゃないかしらと想像した。
窓から顔を出さんばかりに外を覗き込む私を父は優しくたしなめた。
「外が珍しいのはわかるが、顔を出すんじゃないよ。お前は女の子なんだから」
「すみません、お父様」
「さあ、着いたみたいだね。少し知り合いの車に挨拶に行ってくるから、いい子で待っているんだよ」
そう言うと、父は車を降りて従者に何事かを伝えて行ってしまった。
しばらくはおとなしく座っていた私だったが、外のさざめきに我慢ができなくなって、再び窓を開けた。
そっと覗くと、たくさんの人と車があった。前の方にはたいそう高貴な人たちがいるのだろう。立派な車ばかりが並んでいた。
私たちの車は真ん中より少し下がったところに停めた。
このあたりにもなると普段は人が通らないのか、草や花がたくさん生えている。
山百合の香りが車の中まで入り込んでいた。
まだ始まるには時間があるからだろう。多くの殿方たちは車を降りてあちこち出歩いたり、車に乗っている女性に声をかけたりしていた。
「姫様、あまりお顔をお出しにならないでください。旦那様から叱られますぞ」
「ちゃんと隠れているから大丈夫よ。お父様から私を叱るよう言いつけられたのね」
その日は、常日頃からうるさく言われている世話係の乳母がいなかったので、気が大きくなっていた。
それで、従者の忠告も無視してひたすら人の流れを眺めていた。
そうすると、にわかに辺りが騒がしくなった。
騒ぎの方を見てみると、何やら立派な車がやってきている。
どんなに高貴な方が乗っているのかしら、と思っていると、私の車を引いていた従者たちも慌て始めた。
「何であのような車がこんな後ろに」
「いいから、早く車をどけなくては」
従者たちはそう言うやいなや、自分たちの車を動かして道を開けようとした。
私はと言えば、突然車が動かされたものだから体勢を崩して転んでしまう。
その拍子に車の後ろの御簾を押しのけて、顔が出てしまった。
私が突然飛び出てきたのを見て、後ろに控えていた従者は顔を青くする。
「申し訳ありません姫様! お怪我はございませんか?」
私は倒れた時にぶつけた頭が痛かったのと、無様に顔を晒してしまったのが情けないのとで、みるみるうちに涙が溢れてきた。
声をあげて泣きだす私に、いよいよ従者たちは焦りだす。
「姫様、どこが痛みますか?」
「姫様、そのように泣かれては可愛らしいお顔が腫れてしまいます。どうか泣き止んでくださいませ」
従者たちが数人がかりで私をなだめていると、例の車が止まった。
何事か、と人々が様子を見ていると、相手の従者がこちらの車にやってきた。
「こちらに来るぞ!」
周りの様子を見ていた従者が、他の者たちに声をかける。
「姫様、人が来ますから車の中にお戻りください」
私は後ろの従者に隠されながら慌てて中に引っ込むと、引き窓を薄く開けて隠れるように外の様子をうかがった。
先ほどまで大泣きだったのに、涙はすっかり引っ込んでしまった。
すでに痛みよりも例の車への興味の方が大きくなっていたのだ。
相手の車を見ると、きらびやかな飾りや模様がついており、子供ながらにただならぬ家の車なのだろうと感じられた。
窓は全て押し上げられており、中に風格のある男性と若い青年がいるのが見えた。
そうやって見ていると、若い方がこちらを見た。
今はもう顔は思い出せないが、その時の彼は私の方を見て微笑んでいた。
私は、目が合ったような気がして、思わず飛びのいた。しかし、好奇心に負けて再びそっと覗いてしまう。
若い貴公子はもうこちらを見てはいなかった。
なんとなく目を離せずにいると、貴公子が突然私の方を見て、再び笑いかけたのだ。
どうやら私が覗いていることを知っているような風である。
私はすっかり動転してしまって、慌てて戸を閉めた。
外からは父の声が聞こえる。騒ぎを聞きつけて戻ってきたようだ。
「姫様に贈り物です」
しばらくすると、話を終えた従者が私に一つの包みと一輪の百合を渡してきた。
白い薄様の紙に包まれていたのは、唐菓子だった。
その紙に流れるような字で何か書かれているのを見つける。
『関守に大切に隠された姫百合の露を、私の袖で拭わせてはいただけないでしょうか』
まるで一人前の女性に語りかけるかのような文句に、私は舞い上がってしまった。
「どうしよう、お父様。これって恋文というものかしら」
父は別の意味で大慌てであった。普段関わらないような上流階級の方に娘が文を贈られたのだ。当然の反応だろう。
「まだ成人前の娘だし、お前を慰めるためのお戯れだろう。でも、下手なお返事はできないぞ……」
もちろん私はこんなことは今までなかったから、自分で返事を考えることなどできない。
父が何かしらの歌をこしらえて、それを震える手で書いたような気がする。
あまりにいっぱいいっぱいだったからよく覚えていないのだけれど、よく考えればそんな状態だったら子供の私は満足に字も書けないと思うから、やはり誰かが代筆でもしたのだろう。
私は今もその時の包み紙を大事に持っている。もうその方の顔も覚えてはいないけれど、それを持っていればいつか会えるような気がしてしまうのだ。
思い出に浸っている私を見透かすように父が口を開いた。
「もしかしたら、例の姫百合の方とも宮中で会えるかもしれないよ」
「えっ!」
父の言葉に思わず身を乗り出してしまう。
「かなり立派な家の方だったろう。今頃、宮中のどこかで働いているさ」
そう言われてみればそうだ。
あれだけ大層な家の出身であれば、宮中でもそれなりの地位にいるはずである。
中宮に仕える女房であれば、出会う機会もあるだろう。
幼い頃の想い人との再会とは、運命的である。
私は急に宮仕えも悪くないような気がした。
「私、働きに出ます」
私の言葉に母はあきれた顔をしたが、父は満足そうにうなずいた。
「賢しい女は嫌われるというが、宮中じゃ教養や才能は武器になる。そういう開けた世界を知ることも、お前には必要だと私は思うよ」
「開けた世界……」
「それに、お前は私が決めた相手だとどうも合いそうにない」
父のあきれたようなつぶやきは、もはや私の耳には届いていなかった。ここに書き付けたのは、後から母に聞いたからである。
ふと庭を見ると、梅の木がつぼみを付けている。
「今年はどんな花を咲かせるのかしらね」
母が私の目の先を眺めながら言った。
「きっと素晴らしい花になるよ」
そのまま三人でまだ色の無い木を眺めていた。
ただ一つだけ、今にも咲きそうなほど膨らんだつぼみを私は見逃さなかった。
春はすぐそこにやって来ている。
宮中に初めて参上した日、庭には梅が咲き誇っていた。私を案内してくれた女房も梅が好きなようで、案内もそこそこに庭の方に見入っていた。
「ほら、ごらんなさい。梅がきれいよ」
しかし、私にはとても梅を眺める余裕などなかった。
そんな私にも満開であろう梅の香りはしっかりと感じられた。
必死に扇と着物の袖で顔を隠してうつむいていると、彼女はあきれたようにため息をついた。
「気持ちはわかるけれど、今からこんな調子じゃ、中宮様の御前でどうするのよ」
「四方八方から見られている気がします……」
「気のせいよ。みんな梅ばかり見ているから。ほら、顔を上げなさい」
頭の上からそう声がかかったかと思うと、私の片手にそっと手が重なった感触がする。
「あまり頑なだとその几帳を勝手にとってしまうわよ」
そう言うと無理に袖をどけようとする。扇まで外されそうな気がして、私はあわてて顔を上げた。
見上げた先には、薄紅色の花が美しく咲き乱れていた。
甘いにおいが風に乗って、私の顔を撫でていく。
私が見とれていると、目の前にいた彼女が笑った。
「顔を上げて良かったでしょう」
「ええ、そうですね。ええと……」
私が言いよどんでいると、彼女はすぐに察したのか、微笑んで自己紹介をしてくれた。
「清少納言よ。ここではみんなそう呼んでいるわ」
「はい。よろしくお願いします、清少納言さん」
改めて彼女を見ると、私よりはずっと年上のようだ。少なくとも十は離れているだろうか。一つ一つの所作がとても落ち着いていた。
正直なところたいそうな美人ではないが、笑った口元が可愛らしくて好きだと思った。
そのまま廊下を進んでいくと、部屋についた。
「ここが女房の部屋よ。今日は疲れたでしょうし、中宮様も参上は明日からでいいとおっしゃっていたわ」
部屋には何人かの女房たちが集まって話していたり、寝ていたりした。
私は中にいた人たちに挨拶を済ませ、届けられていた私物の整理にあたる。
色々と出したりしまったりしていると、文具入れにいくつか手紙が入っているのが目に留まった。
ほとんどは両親が私に宛てたものである。「体に気を付けて」とか、そういうこまごましたことが書いてあった。
その中には例の「姫百合の文」も入っていた。これは私が持ってきたものだ。
せっかく宮中までやってきたのだ。手掛かりはこの文だけである。
きっと、見つけ出して見せるわ。
初めての宮仕えの不安をかき消すように、自分に言い聞かせた。
「ねえ、こっちでお話しましょうよ」
声をかけられて振り返ると、集まって話していた女房たちが手招いていた。清少納言もそちらの輪の中に加わっていた。
「なんとお呼びしたらいいかしら」
「お父上は式部少輔なのでしょう」
「ええ、菅原敏則と申します」
私の返事に、清少納言が考えるような素振りを見せた。
「それじゃあ、菅式部というのはどうかしら」
清少納言の言葉に、周りの女房たちはうなずいた。
「そうね、分かりやすくていいわ」
「じゃあ、あなたは今日から
菅式部、菅式部、と口々に呼ばれる。
ずっと家にいて、他人を関わる機会などほとんどなかった身である。
当然、他人から名付けられたのはこれが初めてで、不思議な感じがした。
ようやく、私も外に出たのだという自覚がわき上がってくる。
女房菅式部、誕生の瞬間であった。
翌日。まだ日も昇っていないような時、私を揺すり起こそうとする者がいた。わずらわしく思っていると、清少納言であった。
「菅式部、起きなさい。今日のような朝に寝過すなんてもったいないわよ」
寝たふりをし続けることもできずに起き上がると、彼女は部屋を出て私を手招きした。周りを見ると他の女房たちはまだ眠っている。
「どうして私だけを起こされたのですか」
「一番寝起きが良さそうなのがあなただったからよ」
あんまりな理由である。清少納言には悪びれる様子は一切ない。
私が部屋に戻ってもう一度寝てしまおうかしらと考えている間に、清少納言は梅の咲いた庭のところまで歩いて行ってしまった。仕方なしについて行く。
「このような時間に起きだしてどうなさったというのです」
「春はあけぼのだと昨日話したばかりでしょう。あなた熱心に聞いていたじゃないの」
そう言われて前の晩にそのような話をしていたことを思い出した。
周りの人々が春は眠りが深いという話をしていたのに、清少納言は一人わざわざ早起きをするなどと言いだすものだから、面白くてつい色々なことを尋ねてしまったのだ。まさか自分が付き合わされることになるとは思わずに。
色々なことを話しながら歩いていると、もう日が昇りかけていた。清少納言はたいそう嬉しそうな顔で遠くの山の端を指した。
山はすでに白みがかっていた。朝焼けは空を指した着物の袖をも紫に染め上げ、うっすらとたなびく雲は天女が落とした藤の羽衣のようであった。
私たちはしばらく何も言わずに山から日が顔を出すのを眺めていた。
日が昇り、辺りがすっかり明るくなったころ、清少納言はようやく私に声をかけた。
「あれこれ聞くよりも自分で見た方がよく分かるでしょう」
「確かに、春眠暁を覚えずとは言っても、これは覚えておきたい景色ですね」
私がそう言うと、彼女は笑いながら部屋に戻っていった。私はもう一度山の方を眺めてから彼女の後を追いかけた。
「さて、今日からあなたも中宮様の御前に参上するのよ」
部屋に戻る道中、その言葉を聞いて、私は急に気が重くなる。
「やはり私のような者が高貴なお方の前に出るのは気後れいたします」
私の弱音を聞いて、清少納言は苦笑いをする。
「誰でも初めはそんなものよ。中宮様はお優しい御方だから、大丈夫」
そうやって励まされながら、身支度を整えるべく部屋に入った。
日はもう昇りきっていて、薄紫だった空も今はすっきりとした青色をたたえていた。
清少納言という人は、なかなか面白い方だった。宮仕えを始めたのは私より二か月ほど前だという。そのわりにはっきりと物を言う、肝の据わった人だ。
漢文などの知識にも長けていて、彼女の言葉には殿方すら舌を巻くこともある。
私が宮中にやって来て、少し経った頃。私はまだ人前に出ることが恐ろしくて、中宮様のお部屋でも後ろの方に引っ込んでばかりであった。
その日は、中宮様の兄君でいらっしゃる藤原伊周様が来られていた。伊周様は、若くして大納言という役職についておられた。才色兼備で非の打ち所がない貴公子である。そのうえ、私たちのような女房にも丁寧に言葉を尽くしてくださった。
そのような素晴らしい方であるから、若い女房たちの憧れの的であった。皆、遠巻きに眺めてはしゃいでいたが、お声掛けしようというほどの度胸のある者はいなかった。落ち着いて話すことができるのは、やはりある程度年のいった女房ばかりである。
伊周様は桜がさねの直衣に、濃い紫の袴といった春らしい装いだった。直衣の下から除く鮮やかな赤色が殿上人らしい高貴さを表している。
「おや、そこに隠れているのは誰だい? 見ない顔だね」
ふと、伊周様がこちらに向かって声をかけたので、私は慌てて清少納言の後ろに隠れた。
「清少納言でございます。私の顔をもうお忘れだなんて、悲しいですわ」
清少納言は私の行動にあきれた顔をしたものの、代わりに返事をしてくれた。
「いやいや、あなたのお顔を忘れるものか。初めて出会った頃から私に熱心に声をかけてくれたというのに」
伊周様の言葉に、話を聞いていた女房たちがおかしそうに笑った。
「初めてお会いした時からそういう意地悪なところはお変わりありませんね」
「おや、怒らせてしまったかな。ねえ、そこの山吹の君。君は清少納言がここに来たばかりの頃の話を聞いてみたくはないかい?」
山吹の君、というのが私の着物を指していると気付いて、飛び上がった。
相手は中宮様の兄君である。これ以上知らん顔をすることもできない。
それに、清少納言が出仕したばかりのころの話というのは、とても興味深かった。
おずおずと顔をのぞかせると、伊周様は私に向かってにっこりと笑いかけた。
「あなたは清少納言よりもずっと素直だね。清少納言も前はあなたみたいに奥に隠れていたのだけれど、彼女はなかなかしぶとくてね、私がなんと言っても出てこようとはしてくれなかったよ」
「私が何度お断りしても前に出させようとする伊周様も似たようなものでしょう」
自分のことをあれこれ言われて気を悪くしたのか、清少納言はそっぽを向いてしまった。
それを見て、伊周様はおかしそうに笑うのだった。
私はというと、清少納言にも人前に出ることを嫌がる時期があったというのに驚きながらも、幾分安心していた。
いつか、私も彼女のように人前に堂々と出ていけるようになるのかしら。
そうなった私を見たら母などは目を丸くしてしまうかもしれない。そう考えると、少しだけ愉快な心持ちになった。
そのようなことを思いつつ、伊周様のお話を伺っていると、廊下の方から人払いの声が聞こえてきた。
「天皇様、昼餉のご用意ができました。母屋においでください」
蔵人という天皇の世話係の役人が参上して、奏上すると、帝が中宮様と一緒に奥のお部屋から出てこられた。
「いつもより早い気がするのだけれど、時間を間違えてはいないか?」
帝が少し不機嫌そうにおっしゃるので、蔵人は苦笑いで答えた。
「いえ、いつも通りのお時間にございます」
「楽しい時間は早く過ぎてしまうものです。また、お食事が終わってからいらっしゃってください」
別れを惜しまれる若い帝に、中宮様は優しく声をかけられる。ただそれだけのことでも、お二人の互いを思いやる様子がしみじみと感じられるのだった。
「私がお見送りをいたしましょう」
伊周様がそう言うと、帝は名残惜しそうにご退室なさる。
この日、中宮様と伊周様は一緒にお食事をとられた。
部屋には大きな青瓶に立派な桜の枝が挿して飾られていた。桜の木は五尺ほどの大きさで、部屋を仕切っている御簾の外にまであふれ出ている。外にこぼれた桜の隣に座られた伊周様の美しいこと。
食事が終わり、蔵人が御膳を下げに来るよりも早く、帝が再び中宮様の元にいらっしゃった。
あまりに早いので、中宮様も驚かれていた。
しばらく他愛ない話をされていたが、中宮様が思い立ったようにおっしゃった。
「誰か、墨を擦ってくれないかしら」
墨と白い色紙を受け取られると、それを丁寧にたたんで近くにいた清少納言にお渡しになる。
「これに皆で一つずつ古い歌を書いてごらんなさい。頭に浮かぶものだったらなんでもいいの」
その場にいた女房全員の空気が張りつめた。言うなれば、中宮様による腕試しだろう。
皆、どういう歌を書けばいいのか困ってしまって、なかなか書き始めない。
長いこと勤めている女房でさえこのように気後れしてしまっているのだから、ついこの間やってきたばかりの私に何が書けるというだろう。
何でもいい、というのが一番困るのだ。
頭の中では数多の偉大な歌人たちが自分の歌を使えとせっついてくる。全員が一斉に歌を詠みだすものだから、結局何も聞こえない。
しばらく先代たちの大合唱を聞いていた私にもついに色紙が渡ってきた。
書かれたものの中には、字が震えていたり、書き損じしてしまったものまである。他の女房たちの気負いが感じられて、私の緊張も限界だった。
ふと、一つの歌が目に飛び込んできた。
『年経れば齢は老いぬしかはあれど 君をし見ればもの思いもなし』
年月が経って私は老いてしまったものの、あなたを見れば悩みごともなくなってしまいます。藤原良房の歌だ。
ただ、本当なら「花をし見れば」と書くところを「君」と書き換えてあった。
これは、中宮様に宛てた歌だ。
筆跡を見れば清少納言が書いたものだということは明らかだった。
改めて周りを見回してみた。正解はもう出てしまったのだ。これ以上私に書くことがあるだろうか。
「私にはとても書けません」
できるだけ恥じ入るように、気おくれしてたまらないというようにか細い声で言った。
「まあ、あなたは来たばかりだし仕方ないわね」
年上の女房が私から紙を受け取って、他に渡した。
間もなく、中宮様の元に色紙が戻った。
案の定、中宮様は清少納言が書いた歌を見て、たいそう喜ばれた。
「私が見たかったのはこういう機転の利かせ方なのよ。優秀な女房たるもの、いつでも機転が利かないといけないですもの」
周りの女房たちも、清少納言にそれはそれは感心していた。
その日、女房部屋に戻ると、清少納言が声をかけてきた。
「菅式部」
「清少納言さん、どうかなさいましたか」
「あなた、色紙に何も書かなかったでしょう。何故?」
「何故って、私は先日来たばかりの新参者ですよ。気後れして当然でしょう」
清少納言は私の答えに納得しなかったようで、食い下がる。
「嘘。色紙を受け取って、一度周りを見たでしょう」
「誰か助けてくれないかしらと思っただけです」
「気づいたんでしょう」
清少納言を見ると、満面の笑みをたたえていた。色紙を受け取ったときの中宮様のような笑顔だ。
ちょうど、自分が出したなぞなぞの答え合わせをする子供のような表情である。実際、問題を出したのは中宮様ではあるのだが。
「ねえ、何で書かなかったの。あなたが何に気づいたか聞きたいの」
どうせ答えを知っているのに、あえて私に言わせたいらしい。
私はため息を一つ、答え合わせを始める。
「古今集の良房の歌には、『染殿の后の御前に、花瓶に桜の木が挿してあったのを見て詠んだ』という詞書がありましたよね。中宮様はその再現をなさりたかったんでしょう。お部屋に立派な桜までご用意されていたのですから。それなら、わざわざ同じ歌を書く必要はありません」
的外れな歌を書いて、下手なことをしたと思われるのも癪だ。
加えて、清少納言はその歌を書き換え、中宮様に贈る歌として完成させた。私にはあれ以上の答えは見つけられなかった。
「それに、あの歌は年を取ったと詠んでいるから、中宮様と同じ齢の私が書くわけにもいかないでしょう。若者向けのお題じゃないわ」
「私のことを年寄りだと言いたいの?」
「あら、そうじゃありません。私が若いだけで」
そう言って笑うと、清少納言は眉根をよせた。
「かわいげがないこと」
得意げな様子だった顔を崩すことができたのは、少しだけ面白かった。
しかし、清少納言はなかなか根に持つ性格のようで、しばらくは年齢についていちいち嫌味を言われる羽目になった。
機知に富んで素晴らしい方だと思ったのだけれど、こういうところは普通の人らしい。それがまた面白く、清少納言という人間についてもっと知ってみるのも悪くないと思ったのだった。
そんな折、中宮様の腕試しから数日が経った日のことだ。
父から手紙とともに、たくさんの紙が送られてきた。
『宮中の暮らしはどうだい。楽しくやれているかい。この間、とある伝手で良い紙をいただいたから送ります。何かあったら手紙を寄越すんだよ』
「とある伝手」と書いてあるのは、賭け事か何かだろう。宮中でも、紙やら香やらを賭けて遊んでいる殿方をたまに見かける。それでたまたま紙が手に入ったから、手紙を書けという意味で送ってきたのだ。
伝手がどうであれ、紙は紙である。せっかくもらったのだから使わない手はない。
私は少しだけ実家への手紙用に紙を分けて、あとは日記を書くことにした。
ただの日記ではつまらない。宮中にいる面白い人たちについてたくさん書くのだ。
例えば、清少納言のような。彼女が見ていて飽きない人だということは今まで見てきてよくわかった。
これから、まだ知らないことや知らない人とも出会うだろう。
そういったことをたくさん書きとめるのだ。想像するだけで、愉快な気持ちが湧き上がってくる。
初めは嫌々だった宮仕えだが、少しだけ楽しさがわかってきたような気がした。
その日は夜遅くまでいろいろなことを書き散らすうちに、寝てしまっていた。枕にした紙の束の跡が頬についたのを、周りの女房たちに笑われた。
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