枕式部日記

佐藤香

序章

 何でもない平日の午後。清原凪は特に何の目的もないまま、見知らぬ商店街を歩いていた。

 普段ならこの時間はまだ大学で講義を受けているはずだ。

 しかし、突然の休講によって、午後の時間を持て余すことになった。

 このまま家に帰っても良かったのだが、凪はいつもとは反対方向の電車に乗っていた。一人で部屋にいると余計なことを考えてしまいそうだったからだ。

 凪は現在絶賛就活中である。六月も終わりに差し掛かっている今、周りの友人は徐々に内定が決まりつつあった。

 そんな中、凪だけは仲間内で一度も内定が出ていない。今朝来た「お祈りメール」で、記念すべき(本来この表現は不適切であるが、ヤケクソだ)不合格十件目である。

 両親はまだ焦るような時期ではない、ゆっくりでいいとは言ってくれているが、凪としてはすでにこの就職活動にうんざりしていた。

 エントリーシートや面接で強制的に文章化される自身の特徴や体験がすべて嘘くさく思えてならなかった。凪はもう自分が何をしたくてこんなことをしているのかさえわからなくなってきているのだ。

 こんな状況で家に籠る気分にはなれない。そういうわけで、凪は今、知らない電車に揺られているのである。ウォークマンのプレイリストが進むたびに、景色は知らない顔に変わっていった。

 今は梅雨だが、幸い今日は晴れていた。気分転換に散歩するにはいい日である。

 学校の最寄駅から四つほど離れた駅で降り、駅前の商店街をふらふらと歩いた。

 雑貨屋や青果店など、色々な店を冷やかした。ただ一つ、人通りもない路地にあったこぢんまりとした本屋だけが凪の足を留めた。

 店内にはたくさんの本が並んでいるのが見える。入口のところにある「営業中」の張り紙が、かろうじてここが店であるということを主張していた。

(こんな本屋はもう絶滅しているものだと思っていたけれど、まだ残ってるところもあるんだ)

 本屋と言われれば、駅ビルの中に入っている大型書店くらいしか見たことがなかった。

 個人経営の本屋というのは、凪の中ではもうフィクションの世界のものになっている。

 店は古めかしい木造の建物で、小屋を改造して本屋にしたというような風であった。

 いかにも店のようではあるが、店の名前を記した看板などが見当たらないのが気になった。

 本は好きだが、学生身分でお金もない。大抵は近所の図書館で間に合わせている凪である。普段なら気にも留めないような店だ。しかし、今日は違った。

 凪は元々好奇心旺盛な性格であった。それが知らない土地に来たということで、冒険心によって助長されたのである。

 外から店主のような人は見えないが、中は明るい。営業中と思って間違いはなさそうだ。

 しかし、気軽に入るのはためらわれる。こういう店の主人は気難しい老人だと相場が決まっているからだ。冷やかしの客など、「はたき」で追い返されてしまうかもしれない。

 第一、凪は知らない人間と話すのは得意ではない。就職試験でも、毎回面接やグループディスカッションというものに四苦八苦しているのだ。

 他の就活生たちの元気な受け答えや、はじけるような笑顔を見ると気後れしてしまい、自分が言うべきセリフが出てこない。

 それと同時に、彼らの能面のように張り付いた笑顔が気味悪く感じられるのだった。

 そんな自分が狭い店の中で気難しい店主と会話できるとは思えない。不快にさせて気まずく店を出るのがオチだろう。

 店の前で思考を巡らせていると、突然激しい雨が降ってきた。

(うそ、今日雨降るなんて言ってたっけ?)

 店の前に申し訳程度にあったひさしが、凪を雨から守っていた。

 夕立だろうか、と思っていると凪の視界が真っ白に染まった。

 同時に空をびりびりと破いたかのような雷鳴が轟いた。

「きゃあ!」

 思わず悲鳴をあげる。どこか近くに落ちたようだ。

 今外に出ていくのは賢明ではない。

 凪は意を決して、ガラス張りの引き戸に手をかけた。

 木造の戸は立て付けが悪く、つっかえる度に戸もガラスもガタガタと音を立てた。

「いらっしゃい」

 格闘の末店に入ると、店主と思われる女性に声をかけられる。張りのある、瑞々しい声だと思った。思わず声のした方を見て、凪は度胆を抜かれた。

 声の先にいたのは、小さなおばあさんだった。パッと見、自分の祖母よりも年のように見える。しかし、先ほどの声は老婆のものとは思えない、若々しい響きがあった。

「こ、こんにちは」

 やっとのことでそれだけ言うと、店主はにこやかにうなずいた。凪は少しほっとして、店内をぐるりと見回した。

 いかにも個人経営らしく、店内は狭かった。店主が座るカウンターを除けば、お客は二人が限界だろう。四方の壁がすべて本棚になっていて、隅の方に脚立が畳んで置いてあった。

 本棚を見始めてすぐ、凪は何か変だという気がした。

 本棚を眺めても、視線が背表紙をいたずらに滑るだけで、何も目に留まらない。本は確かにそこにあるのに、別の場所に視線を移せば、もうタイトルすら思い出せなくなっているのだ。

 なんとなく気味が悪くなってきて、濡れることを覚悟で店を出ようかと思っていると、数冊の冊子が平積みされているのが目についた。他の本とは違い、紙を紐で綴じただけの手作り感溢れる冊子だった。表紙には黒いミミズのような文字が躍っていた。墨で書かれた崩し字のようだ。

 凪はその冊子を思わず手に取っていた。かなり古いものだろうと思われたが、意外にも紙はしっかりしているようだ。中を見ると、表紙と同じような文字が並んでいる。

 内容こそさっぱりわからなかったが、くるくると踊るような筆跡は見ていて楽しかった。

 いったいどんな人が書いたものだろうか。

「それが気になるのかい?」

 突然声をかけられて、凪は心臓が口から飛び出るかというほど驚いたが、幸いにも彼女の心臓はまだ左胸で大きく脈を打っている。

 カウンター越しのおばあさんは、凪よりも一回りほど小さく、地味な鈍色の着物を着ている。肩のあたりで切り揃えられた髪はまっすぐで美しかった。

「ええ、ちょっと……」

「それはね、ある人の日記なんだよ」

「日記?」

 古い冊子をもう一度見る。日記だと思うと、先ほど中身を見たのが後ろめたくなった。

「誰の日記なんですか?」

「そうねえ」

 おばあさんは少し考えてから、いたずらっぽく笑って言った。

「名もなき一介の女房、ってところかね」

「女房?」

 日常会話ではめったに聞かない単語に、思わず聞き返す。

「そうだね……中宮様のお世話係って言えばわかるかい? ああ、中宮様っていうのは天皇陛下のお后なのだけれど」

 ここまで言われて、凪は高校時代の古典の授業を思い出した。

 たしか、紫式部や清少納言とかが「女房」と呼ばれていた気がする。

 凪は古典の授業が苦手だった。同じ日本語なのに、単語から覚えなくてはいけない。

 そのうえ、様々な活用形が高校生の凪を苦しめた。

 しかし、古典を読むこと自体は好きだ。昔の人が考えていたことが知れるというのは面白い。

 紙と文字を発明した人はとても偉大だと思う。

 それに、今では考えられないような生活や文化がかつての日本にあったということを想像するのが好きだった。

 例えば一夫多妻制とか。一人の男がたくさんの妻を持つだなんて、浮気や不倫が離婚の大きな原因となる現代では考えられない。

 日記をしげしげと眺める凪に、店主はにこやかに笑んで、隅の脚立を手で示した。

「そこにお座りなさい。気になるのなら読んでいったらいい」

 店主の申し出に凪は慌てて首を振った。元々ちょっとした雨宿りにと入っただけだ。

 最初から冷やかしのつもりではあってもそう図々しくはなれない。

「いえ、でも、私こんな難しい字読めないです」

「おや、じゃあ私が読んであげましょうか」

 凪がどう断ってよいものかと考えているうちに、店主は彼女を小さな木製の脚立に座らせた。

「どうせお客さんはあなたくらいのものだし、あまり時間は取らせないから、ね?」

 ふと、その様子が親しい友人を見つけた少女のように見えて、凪は断ることができなかった。

 それに、この店主の声は耳によく、もう少し聞いていたいとも思ったのだ。

「じゃあ、お願いします」

 凪がそう言って小さく頭を下げると、店主は嬉しそうにうなずいて、古びた表紙を指でめくるのであった。

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