第46話
『頑張れ』という言葉に値するものを、英語で表すならなんと言えばいいのだろうか?。
恐らくは『good luck』か『Do Your Best』といったところが妥当だろうか。
だけど、『good luck』ではどこか他人事のように思えるし、『Do Your Best』では努力を強いることが酷なように思える。
僕らはこの『頑張れ』という言葉にどんな意味を込めているのだろう?。
これから治療室へと搬送される姉を前に、僕はかけるべき言葉を探していた。
僕が今、どんな言葉をかけようとも、これから姉が味わう痛みを分かち合うことは出来ないだろうし、望のネームレスを食い止めるようなものにはならないだろう。
それでも、何か伝えなきゃいけないっていうこの気持ちを表現するには、どんな言葉を告げればいいのだろうか。
どうしても努力が報われて欲しい誰かに向けて、僕はどんな言葉を伝えればいいのだろうか。
誰かに己の希望を託すこの思いを、どう謳えばいいのだろうか。
例え力になれなくても、一緒になって戦いたいというこの願いを、どう叫べばいいのだろうか。
この気持ちを、この想いを、この祈りを、この願いを、この希望を、全部詰め込むには『頑張れ』では拙過ぎる。
母や父や姉の旦那さんが黙り込む僕を尻目にそんな思いを伝えようと姉にあれこれ話していた。
姉が津波のように押し寄せる陣痛に顔を歪めながら、そんな僕に気がついたのか、僕のほおへと手を伸ばし、か細い手のひらで僕に触れながら僕に言ってきた。
「バカ…『頑張れ』で十分だよ」
せめて僕は、胸に秘めているものの片鱗でも伝わるように、姉に強く、ハッキリと叫んだ。
「頑張れ!!姉ちゃん!!」
「おうよ、いっちょやったるわぁ!!」
姉はそう雄々しく吠えて、治療室へと消えて行った。
それに続いて、医師達が僕らの前に現れた。
「瑠美さんのご家族とお会いするのは初めてですね、私は対ネームレス専門の国家チームのリーダーを務めてる立花と申します」
オペのための衣装に身を包んだ医師団の1人が僕らに自己紹介を始めた。
「ご家族の皆様のご協力、心より感謝します」
そして立花は僕らに頭を下げた。
そんな立花に僕は一言だけ想いを告げた。
「姉と…望をよろしくお願いします」
「はい。尽力させていただきます」
立花は僕らに真摯な振る舞いを見せてくれた。
おそらく彼は国から選抜された選りすぐりの名医なのだろう。
ネームレスに関して、彼以上の知恵や知識を有する者はきっとそういない。
しかし、そんな彼でも『お任せください』とは言ってくれなかった。
当たり前だが、人類を滅亡へと導く原因不明のネームレス現象に対して、保証など誰もしてくれない。
分かってはいたけど、それを実感してしまうと余計に不安が募ってしまう。
姉の力になりたい…だけど、ここから先は僕にはどうしようもない。
だから、僕がここで『頑張れ』なんて叫んでも意味はない。
少なくとも、すぐさま結果につながるような努力ではない。
それでもこの『頑張れ』は…決して無駄になんかならない。
「頑張れ!!姉ちゃん!!」
無駄になんかさせなくない……なにもかも。
姉が出産という人類の存亡をかけた戦いに挑み始めて数時間が経過した。
本来ならば出産の際は子宮が赤ちゃんが通れるようになるまで大きく開いてから分娩室へと運ばれ、出産する手順なのだが、コウノトリ制度を申請した姉は大事をとって陣痛の段階で集中治療室へと運ばれたのだ。
それでも夫は陣痛の段階ならば集中治療室へと同伴できるのだが…姉の旦那である上原拓哉は病院に設置されてある自動販売機の前に、飲み物を片手に一人で佇んでいた。
僕はトイレに行った帰りに、その様子を目撃していた。
「…どうかしたんですか?」
姉の旦那さんとは頻繁に面識はあった。姉が家で安静にしていたので、旦那さんは頻繁に様子を見に来ていたし、最近ではいつも姉の隣にいたからだ。
だけど、僕と旦那さんはあまり二人で話したことはない。そういう機会もなかったし、必要もなかったからだ。
僕が旦那さんに話しかけたのは…なんとなく、としか言いようがない。
もしかしたら、募る不安をなんでもいいから少しでも払拭したかったからかもしれない。
なんにしても、僕は珍しく旦那さんに声をかけたのだ。
「あぁ…光輝君か」
旦那さんは心ここに在らずといった顔をしていた。
「…姉ちゃんの隣にいてやらないんですか?」
「そう…してやるべきなんだろうね」
旦那さんは僕の質問に曖昧な返事を返した。
「前々から思ってたんですけど…拓哉さんは姉の出産に反対だったんですか?」
旦那さんは、たしかに少しでも姉の支えになれるようになるべく隣にいられるように尽力していた。
仕事もあっただろうけど、きっと姉のために出来るだけ調節しただろうし、職場から決して近くはない我が家へ可能な限り姉に会いに足を運んでくれていた。
それでも、僕の目には彼が姉の行いを快く思っていないように見えたのだ。
「反対かどうかと問われたら…難しい質問だね。…光輝君、何か飲む?」
「え?…じゃあ、メロンソーダをお願いします」
「はいはい、メロンソーダね」
そう言って旦那さんは僕にメロンソーダを奢ってくれた。
「ありがとうございます」
僕がお礼を言うと、旦那さんは近くにあったベンチに座って、僕に隣に座るように促した。
僕がそれを察して隣に座ると、旦那さんは淡々と語り始めた。
「ネームレスが始まってだいたい17年…その間、人類は誰一人として子供を無事に出産出来ていない。だからって可能性はゼロではないけど、無事に子供を産める確率はゼロに等しいほど低い。…出産なんてやったって、ただ苦労して悲しみに行くようなものだ。…反対しないわけがない」
「そうですね。僕の家族も最初は反対でしたよ。でも、姉は言い出したら聞かないから…」
「ほんとね、瑠美は言い出したら聞かない…でも、そこが好きになったんだけどね」
旦那さんはそう言って嬉しそうに少し笑った後、急に真面目な顔をして僕にこう語ってきた。
「それでも、今回ばかりは僕も必死に反対した。必死に抵抗して、反対し続けた。わざわざ苦労して瑠美を悲しませるような真似はさせたくなかった。たくさんたくさん喧嘩もした。それでも僕は今回ばかりは折れなかった。今だって、本当は反対してる…」
「…じゃあ、なんで姉ちゃん妊娠させたんですか?」
僕の何気ない質問に、旦那さんはバツの悪い顔をした。
そして、申し訳なさそうに、僕にこう告げるのだ。
「恥ずかしながら…性欲に負けました」
そんな旦那さんの回答に、僕は唖然としてしまった。
「いや、ちゃんとやるべきことはやってたんだよ!?。でも瑠美が色々小細工してきて…」
旦那さんはせめてもの言い訳をしつつ、最後にはため息混じりに観念したかのようにこう呟いた。
「それでも…孕ませたのは僕だけどね…」
少なくとも、性欲に負けた旦那さんを理解するにはこの時の僕にはまだ経験値が足りなかっただろう。
「孕ませちゃったからには…僕がとやかく言う権利は無いかなって…」
「そうですね」
僕は冷めた目で旦那さんを睨んでいた。
「結局のところさ、僕が瑠美を支えているのは自分の行いに対する罪悪感と責任感によるただの償いなんだ。瑠美のような人類の滅亡に立ち向かう気概もないし、光輝君のように世界を変えようと言う志もない。そんな僕には、瑠美の隣にいることすら烏滸がましい」
旦那さんが言ってることが、僕にもわからないでもない。
相手との熱量の差を感じて、自ら身を引いたことが僕にだってある。
でも、そんなものは所詮、自分が傷付かないための予防線でしかなくて…。
人は誰だって過ちを犯す、生きてるだけで誰かに迷惑をかける。
でも、それを恐れて何もしなかったら…誰も与えてなどくれはしない。
失敗して、間違えて、恥かいて…でも、そうしなければ見えないものがある。
…まぁ、そんなことは初めから分かりきってることで、結局のところ、誰かに背中を押してもらいたいだけなんだろうけどね。
「それでも、姉ちゃんの隣にいてやってください。ああ見えて姉ちゃん、意外と寂しがりやだから」
背中を押すくらいなら、謹んで引き受けましょう。
結局、旦那さんは僕の後押しに押されて、姉の元の隣へと駆けつけてくれた。
それから数時間、治療室からは時折、姉の痛々しい叫びが響いていた。
僕は姉のその叫び一つ一つに心配になって過剰に反応してしまっていた。
「落ち着きなさい、光輝」
「いや、だって…」
おどろおどろしくビクビクする僕に反して、母は凛として佇んでいた。
流石は二人も産んだこともあってか、こういう場には慣れているのだろう。
「ねぇ、母さん…出産って…やっぱり痛いの?」
僕はそんな分かりきった質問を躊躇いながら母へ尋ねてみた。
至極当然の質問に、母は僕をキョトンと見つめながら真顔で僕にこう答えた。
「いや、痛いっていうレベルじゃなかった。例えるなら…拷問?」
「ご、拷問?」
「うん、拷問。考えてもみなさい、自分の尻から人が出てくるのよ?。どう考えても拷問でしょ」
「たしかに、考えただけでもゾッとする」
「でもそれだけじゃ飽き足らず…まず陣痛、この痛みはなんというか…定期的にハンマーでぶっ叩かれたような痛みだった」
「ハ、ハンマー?」
「それが何時間も定期的に続くのよ。で、いざ産むっていう時は赤ちゃんが出口に近づくたびに『無理無理無理』ってなるほどとてつもなく大きいものが出てくるわけよ。…まぁ、必死過ぎてそんなこと考える余裕すらなかったけど」
「うーん…もはや想像を絶する」
「そもそも、妊娠した時から戦い始まってるのよ。妊娠初期は身体の調子が慢性的に悪いし、つわりもひどい。機嫌も悪くなるからよく父さんに苛立ちをぶつけたものよ」
母の言葉に父も黙って頷いていた。
「で、大きくなって安定しても重いし、ぶつけたりしないように常に気を張っていなきゃならない。心身ともに負担が大きいのよ」
「大変なことだらけだね」
「でも、それを分かってて私は光輝を産んだんだけどね」
そして母は照れ臭そうに笑いながら僕にこう言って来た。
「そういうものよ、出産って」
しかし、その直後、僕からそっぽを向きながらどこか陰りのある声で一言付け加えた。
「…少なくとも、私の場合はね」
そのあとは姉の怒号のような叫び声だけが、ひたすらにこだましていた。
『私の場合はね』
僕の頭の中で母の先ほどの言葉を反芻していた。
母は姉を産んで、姉が元気に育って…その過程で産むまでの苦労よりも産む喜びや育てる喜びが勝ったのだろう。
だから、僕を産む結論に達した。
姉の場合はどうなんだろう?。
望がネームレスとなってしまったら…姉は再び産もうだなんて思うだろうか?。
その悲しみから立ち上がって、また前を向いて歩いていけるだろうか?。
また産もうと思うだろうか?。
産んだことを…後悔しないでいてくれるだろうか?。
そんなのは嫌だ、姉にはそんな後悔は似合わない。
いつもみたいに愚直であって欲しい…例え今日が、どんな結果であろうとも…。
その時、姉の雄叫びが止み、病院には静寂が漂った。
さっきまであれほど騒がしかった声が止み、気になってふと治療室の方へ視線が行った。
もしかして…。
そんな僕の予感に答えるように、命が産声をあげた。
「…望!?」
僕らが治療室の方へ駆け寄ると、医師が僕らを中へ招いてくれた。
治療室の中は小さな命の大きな叫びで溢れていた。
僕は手招くような鳴き声が響く治療室の中に入り、そして…待望の望と対面した。
こうして出会えることを待ち焦がれていたはずの産後間もないグシャグシャな姿の望をいざ前にすると、僕はなんて声をかければいいのか分からなくなった。
望に会ったら…言いたいことはいっぱいあったはずなのに…。
不思議と、僕の頭は真っ白になっていた。
「おめでとうございます、元気な男の子です」
看護師の一人が僕らにそう告げてくれた。
その後、旦那さんや父や母が順に望を抱っこして、望の誕生を祝福した。
やがて、僕が抱っこする番になった。
看護師さんが望を優しく僕の胸元へと運んでくれた。
僕は触れたら折れてしまうんじゃないかと思うくらいに小さい体に、思わず何かの拍子に僕の腕からすり抜けてしまうんじゃないかという不安に駆られた。
こんなにも小さくて、こんなにも軽くて、こんなにもか細くて…そんな望に、僕らの希望を託してもいいのだろうか?。
「ほら、光輝も望に何か声をかけてあげて」
僕は産後間もなく、憔悴仕切った姉に言われてようやくハッと我に帰り、望にかけるべき言葉を捜した。
だけど、探しても探しても僕の気持ちを表現できる言葉は見つからない。
それでも僕は、この想いの片鱗でも伝わることを願って、この言葉を望に捧げるのだ。
「頑張れ!!望!!」
…本当に、こんなことしかしてやれないのが悔しかった。
その後、望は自らの母の胸元へと返された。
「ふふ、ようやく会えたね、望。これから毎日お前を呆れるほど抱っこして、毎日うんざりするほど話しかけて、毎日参るほど愛してやる。だから…覚悟しておけよ?」
その声には喜びと期待と…そして精一杯の祈りが込められていた。
そしてこのわずかな短い時間でできる限りの愛を望に注ぎ込んだ後、姉は対ネームレス専門機関のリーダーである立花へ告げた。
「どうか…望をお願いします!!」
「力の限りを尽くさせていただきます」
立花は姉と望に対して深くお辞儀をした後、望を別室にある専用の検査装置の中へと運んだ。
僕らは望のいく末を部屋の外の窓ガラスから見守ることとなった。
「頑張れ……頑張れ!!望!!」
結局僕には、そんなことしかできない。
それでも僕は叫ぶ。叫ばなければいけないから…例え、今は報われなくとも…。
僕の応援に同調して、母や父や旦那さんも…憔悴仕切っているはずの姉も声を上げて望にエールを送った。
しばらくの間、望に変化は見られなかった…しかし、事態は急激に動き出した。
「立花先生!!心拍数、低下し始めました!!」
「…いよいよか」
病室内は慌ただしくなり、立花先生は見慣れぬ機械を使い、望に対して処置を始めた。
だが、立花先生がどんなに手を施そうが、病室にある心電図が示す心拍数の低下を食い止めることは出来なかった。
心拍数が下がるにつれ、病室から聞こえてくる望の鳴き声が小さくなっていく…。
「立花先生!!心拍数が危険水域に突入しました!!」
「装置の電力を最大まで上げろ!!」
慌ただしく動き出す医師達を前に、僕らの心の奥底では半端諦め気味になってしまっていた。
だげど…だけどそれでも…。
「頑張れ!!!望!!!」
この叫びを絶ってはいけない。
叫び続けなければいけないんだ…例え…例え…。
僕の叫びに反して、望の鳴き声はどんどん小さくなり…やがて、その叫びが途絶えた。
「立花先生!!!患者の呼吸が停止しました!!!」
その言葉を聞いた立花先生の表情に、どこか陰りが見えた。
国の選りすぐりの名医達が尽力して、必死に出来ることをするために動き回る中、その中央に静かに佇む望に僕は目が行った。
心拍数もわずかで、呼吸も止まって…いつ死ぬかもわからない瀬戸際にも関わらず、望は満足いくまで遊び切って、疲れ果ててぐっすり眠る子供のように安らかな寝顔を浮かべていた。
「…なに、満足そうな顔してるんだよ…」
呼吸すら出来ず、苦しい状況に置かれているはずの望のやり遂げたかのような安らかな寝顔に、僕は思わずそんな言葉が漏れてしまった。
「もっと、ちゃんと泣いてくれよ…叫んでくれよ…」
もう完全に鳴き声が途絶えてしまった望に、僕はそんな言葉を投げかけた。
「お前はまだ、なにもやり遂げてなんかいないだろ!?なに満足そうな顔してんだよ!?。まだ生まれたばかりなんだろ!?なに平気そうな顔してるんだよ!?。まだこれからなんだろ!?もっと生きたいだろ!?」
僕は悔しさで思わず掌をぎゅっと握りながら、望に向けてそんな言葉を叫んでいた。
「頼むから…ちゃんと叫んでくれよ。何言ってるかもわからなくてもいい…みっともなくてもいい…それでも精一杯叫んでくれよ!。ちゃんと僕らに分かるように叫んでくれよ!!」
僕は目の前に立ちふさがる窓ガラスをぶち壊すような剣幕で叫び続けた。
「死ぬことが『別にいい』みたいな顔すんなよ!!!そんな安らかな顔しないでくれよ!!!馬鹿みたいに泣き叫んでくれよ!!!!。ちゃんと…ちゃんと…」
僕は目の前の窓ガラスを強く叩きつけながら望に向かった叫んだ。
「ちゃんと…『生きたい』って、叫んでくれよ!!!!!」
そうじゃなかったら…そうじゃなかったら…僕らは誰も報われない。
だけど…現実はいつだって非情だ。
望の命の灯火を示す心電図が、僕らの努力をあざ笑うかのように、みるみるうちにか細くなって行く。
それなのに、成すすべもない僕らはただ指を咥えて見ていることしかできない。
ただ、己の無力さを痛感させられるばかりで、何も出来なかった。
そして時はいたずらに過ぎて行き、命の終わりを奏でるデジタル音が病室に鳴り響いた。
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