第23話

我が家の姉が子供を産むと宣言した。


ネームレス化が起きてから、世界中のどこを探しても、この16年間に誰一人として子供を産み、育てる偉業を成し得た人間はいない。


そんな世界で、姉は子供を産むと言うのだ。


無謀な挑戦だってどんなバカでもわかる。でも我が家の姉は言い出したら止まらない。


あの後、姉ちゃんの旦那さんが家にやってきてそのことについて僕の家族に説明をしたのだが、どうやら旦那さんにも躊躇いはあるようだ。


しかし、その程度の躊躇いは姉の前には風前の灯火にも等しい些細な抵抗に過ぎない。


結局話は姉のゴリ押しで子供を産むという結論で幕を閉じた。


それでも僕の生活が劇的に大きく変わることはなく、特筆するような出来事もなく、日々は矢の如く進み、カレンダーは2月14日を指していた。


世間ではお菓子会社の陰謀でその日をバレンタインデーなどと呼称して、特別扱いしているが、僕にとっては、毎年ただの平日だと声を高らかに叫びたくなる普通の1日だ。


しかし、今年はどうやら様子が違うようだ。


バレンタインデーの一週間前くらいの昼休み…僕は愛里といつものようにお昼ご飯を共にしていると、愛里が僕にこんなことを尋ねてきた。


「櫻井君って、チョコ好き?」


2月、女の子、チョコ…この三つのワードからバレンタインデーを連想しない男子高校生などこの世界には存在しないだろう。


…もしや…チョコをくれるのか?。こんな僕に、チョコをくれるというのか?


当然、そんな期待が脳裏をよぎる。


だがしかし、そんな期待を表に出すのは恥ずかしいので、僕は平然を装って平常心で答えた。


「チョ、チョチョチョチョチョコ!?べ、べべべ別に好きじゃないし」


めっちゃ動揺してんじゃねえか!?。


どうやら表情は隠せても僕の口は正直なようだ。


そんな様子を見ていた愛里はくすくすと笑いながら『じゃあクッキーでも作って来るね』と言ってくれた。


そういうわけで、俗世がバレンタインデーと称するこの厄日を僕は柄にもなく心待ちにしていたのだ。


そしてそわそわしながら授業を受けていると、時刻はお昼休みの時間を迎えていた。


「お一人ですか?」


いつものように愛里がそう言って僕に話しかけてきた。


「お、お一人ですよ」


嫌でも頭の中にはバレンタインデーという単語が呪いのようにチラついてしまい、どうしてもそれを意識してしまうためか、声に動揺が表れていた。


そして彼女といつものように食事を囲み、食べ始めようとしたその時、彼女が何かを思い出したかのように可愛らしくラッピングされた袋を取り出した。


「そうだ、これ、ハッピーバレンタイン」


そういって僕の目の前に差し出された宝箱のような袋を僕はわなわなと震える手で受け取った。


「あ、ありがとう…」


「お口に合うといいのですが…」


彼女はそう言って謙遜した。


…っていうか、これ食べなきゃダメなの?。僕的には家に家宝として飾って未来永劫保存しておきたいんですけど?。


そんな風に僕が食べるのを躊躇っていると、愛里がこんなことを口にした。


「バレンタインはいつもはサクラちゃんとお菓子を交換してたからさ…今年も誰かに渡せてよかったよ」


サクラちゃんとは、1学期に転校してしまった愛里の親友の槇原のことだ。


そんな親友がいなくなってしまっても、こうしてバレンタインデーにお菓子を渡す相手がいることに彼女は安堵していた。


「あ、ごめん。僕お返しとか用意してなくて…」


「いや、別にいいよ。誰かに渡しておきたかっただけだし」


「じゃあホワイトデーにお返しするよ。何か欲しいものとかない?。ブランド物のバッグとかでもいいよ」


使い道もないのにバイトで汗水流して、無駄にお金を貯めていた僕は今こそ溜め込んできた成果を使う時だと思い、10万くらいなら余裕で出す意気込みでいた。


女子高生の手作りお菓子にはそれほどの価値があると僕は信じて疑わなかったからだ。


「いや、そんな高い物とかいいよ。そんなに興味もないし、貰っても困るし…」


「そう言わずに、何か欲しいものはないの?。この際だから物じゃなくてもいいよ」


どうしても何かしらの形でお礼がしたい僕は愛里にしつこく問いただした。


「うーん…欲しいものは特にないけど…物じゃなくていいなら東京ディスティニーランドに行きたいかな?」


彼女は悩ましげにそんなことを口にした。


「よし、東京ディスティニーランドだね!。それならチケットとかがいいかな?」


「う、うん…チケット貰えるのは嬉しいんだけど…えっと…私1人で行くのかな?」


彼女は視線を泳がせながらそんなことを尋ねてきた。


「あ、そうか、1人で行ってもつまんないし…チケット1枚だけじゃ足りないか。じゃあ2枚あげるよ」


「う、うん…それは嬉しいんですけど…私はいったい誰と行けば良いのでしょうか?」


「それは…」


ここで僕はようやく思い出した、彼女もまたボッチであることを…。


そんな彼女が一緒に行く相手など限られて来るわけで…。


「えっと…親友の槇原とかは?」


「サクラちゃんはもう転校して遠くに行っちゃったし…春休みも忙しそうだし…」


「じゃあ…家族とかは?」


「そんなことしたらこの歳にもなって『一緒に行く相手すらいないのか』って心配されちゃうよぉ!居た堪れなくて途中で泣くわ!」


「え…え…じゃあ…」


他に思い当たる節もない僕は観念したかのように、とうとうこの言葉を口にするのだ。


「じゃあ…僕と行く?」


あまりにも自然過ぎる流れに愛里も断る理由もなく、当然承諾してくれる…と、僕は踏んでいたのだが、予想に反して彼女の反応には躊躇いが見られた。


「えっと…やっぱり僕とじゃ嫌?」


「いやいや、嫌なんてことは全然ないんだけど……姫浦さん、大丈夫なの?」


「…姫浦?なんで?」


愛里の口から突然出てきた姫浦という言葉に僕は当然のように疑問に思い、そう口にした。


「いや…ごめん、やっぱりなんでもない。…一緒に行ってくれる?櫻井君」


彼女はそう言って誤魔化すように笑ってみせた後、僕を誘ってくれた。


「それはもちろん構わないけど…僕、あんまりそういう経験ないから楽しませる自信なんてないからね」


「大丈夫だよ、櫻井君となら面白いって」


彼女はそう言って僕に笑ってみせた。











その日の放課後、僕らはいつディスティニーランドに行くか話し合いながら下駄箱へと向かっていた。


春休み中だと人が多くなるから早めにするか、それでも平日の方がやはり人が少ないだろうから春休み中にするかとか…念密に話し合っていた。


やがて下駄箱にたどり着き、僕は自分の下駄箱の蓋を開けると、そこには僕の靴以外に神の悪戯な計らいが施されていた。


僕の靴の上には市販の板チョコと幾度となく目にした柄の手紙が添えられていた。


「ほぅ、モテモテですなぁ、櫻井君」


側にいた愛里はニヤニヤしながら僕を見ていた。


「いや、多分そういうのじゃないよ」


変なところを見られてバツが悪そうに言いながら、僕は手紙とチョコを手に取った。


言わずと知れた手紙の相手は当然ながら姫浦だ。


おそらくはいつもの手紙のやり取りと、ついでにチョコを添えておいただけなのだろうけど…。


僕が手紙とチョコを前に固まっていると愛里が気を利かせたのか、僕にこんなことを言ってきた。


「一応、手紙は今のうちに読んでおいたら?。もしかしたら…今回は業務連絡じゃないかもしれないしね」


その後、愛里は『ついでにトイレ行ってくるね』と言って一時的にその場を離れた。


愛里を見送った後、僕はコソコソと手紙の封を切り、中身を読み始めた。


もしかしたらバレンタインデーの今日は少し違う毛色の内容かもしれない…などと期待してはみたものの、内容はおおよそいつものと大差はなかった。


内容をまとめると、NPO法人の設立は予定より早めの4月には出来そうであることと、署名やデモとは違った方向性の今回の方法に対する彼女の意気込みが書かれていた。


どんな小さなもしかしたらでも全力を出せる彼女が新たな可能性に意気込んでいないわけがない…手紙は相変わらず彼女の熱意に満たされていた。


別の可能性が生まれたことでより一層、彼女がやる気になったようでやはり僕は姫浦に話してよかったなどと思っていた。


唯一、いつもと違った点は最後の一文、思い出したからついでに書いておいたかのように添えられた追伸であった。


『P.S チョコはいつものお礼、良かったらどうぞ』


まぁ、予想通りこのチョコに深い意味はないようだ。


それでもチョコはチョコ、姫浦からも貰えるとは思っていなかった僕は素直に姫浦の好意が嬉しかった。


そうこうしていると愛里がタイミングよく僕の元に帰ってきた。


「どうだった?手紙の内容」


「まぁ、いつも通りだったよ。チョコはついでみたいなものっぽい」


「そっか…つまらんなぁ」


愛里はどこか不満そうにそんなことを口にした。


その後、愛里は何事もなかったかのように靴を履き替え、僕に行った。


「じゃあ、帰ろっか」


結局、僕らはいつものように2人で学校を後にした。


その道中、僕はふと気になったのでこんなことを愛里に尋ねた。


「姫浦へのホワイトデーのお返し、何がいいかな?。ブランド物のバッグとかがいいかな?」


「重いからやめときなよ」


結局、愛里の提案で携帯のキーホルダーなどの小物にすることにした。












その日、いつものようにバイトへ赴いた僕にパートのおばちゃんがこんなことを言ってきた。


「ねえねえ、櫻井ちゃん聞いた?。坂本君、今月いっぱいでここのバイト辞めるそうよ」


「え?サカもっちゃん辞めるんですか?」


突然の先生の退職に僕は当然ながら驚いた。


「そうらしいわ。なんでも就職が決まって4月から働くそうよ」


「就職って…どこに?」


「さぁ、そこまでは聞いてないけど…」


サカもっちゃんがバイトを辞める…いや、いつかはそうなるだろうとは思っていたし、それが前向きな理由ならば僕も喜ぶべきだ。


だけど…中学を卒業してからここで改めていろんなことを教えてもらって、いろんなことをお世話になって…だから、別れは少し寂しい。


教師と生徒として関わってきた中学の時よりも、同じ職場で働く先輩として関わってきた今回の方が、不思議とこの寂しさは強く感じられた。


「今度、坂本君のお別れ会やるけど、櫻井ちゃんも来る?」


「はい、行きます、もちろん」


僕に断る理由などあるはずなかった。


そして大体一週間後、サカもっちゃんが最後のバイトのシフトが入っている日、お店の閉店作業を素早く終わらせ、飲食店でサカもっちゃんのお別れ会が行われた。


未成年の僕がいたということと、お酒をそんなに飲む人がいなかったためか、送別会はファミレスで行われることとなった。


主役であるサカもっちゃんにおばちゃん達があれやこれよと質問をしていた。


サカもっちゃんは質問されるたびに親身になって答えていたが、なぜかどこに就職したのかだけは頑なに答えなかった。


おばちゃん達も気になってしつこくなんども問いただすのだが、サカもっちゃんはそのどれも上手くスルーして話題を逸らして乗り切っていた。


やがて、おばちゃん達の興味を尽きたのか、おばちゃん達は主役を差し置いて勝手に盛り上がり始め、次第にサカもっちゃんは会話の輪の中から外れていった。


「僕が辞めても、櫻井はまだバイト続けるのか?」


「まぁ、続けますよ。辞める理由もないですし」


自然にフェードアウトしたサカもっちゃんは初めから蚊帳の外の僕の隣へと座って、そんなことを話しかけてきた。


「先生って、結局、どこに就職したんですか?」


「そのうちわかるよ。今はまだ秘密」


そう言ってサカもっちゃんは人差し指を立て、いたずらに口元に当てた。


あのパワーの有り余っているおばちゃん集団ですら聞き出せなかったサカもっちゃんの就職先を僕なんぞが聞きだせるわけがないと思った僕は、これ以上それについて探求することを諦めた。


「でも酷いですよ、突然辞めるだなんて…一言くらい言ってくれてもよかったのに…」


「悪いね、サプライズが好きなんだよ、僕は」


「薄々勘付いてましたけど、先生、性格悪いですね」


「今更気がついたのかい?」


サカもっちゃんは僕に向かってしれっとそんなことを言った。


ほんと、性格悪い…中学の時はそんなことすら気がつけなかった。


こんなにちゃんと僕と向き合ってくれて、取り繕うことなく物事を教えてくれるような人が先生をしてくれていたのに、あの時は全然教わることが出来なかった。


僕がそんな風に考えて俯いていると、それに気がついたのかサカもっちゃんがこんなことを聞いてきた。


「なんだ?僕がいなくなって寂しいのか?櫻井」


「べ、別にそんなんじゃありませんよ」


本当は、少し寂しい。


だけど、それを口にするのは悔しいから、僕は強がってそう言ってみせた。


それでも、それ以上に伝えておきたいことがあったから、僕は小さくこんなことを呟いた。


「でも…もっといろんなことを教えてもらいたかった…です」


僕の言葉にサカもっちゃんは一瞬、驚いたような表情を見せたがすぐにそれを裏に隠して、意地悪に言葉を返してきた。


「その言葉は、中学の卒業式で聞きたかったんだけどなぁ」


「中学の時は、なんていうか…差し障りないことしか教えてくれなかったっていうか…あくまで教師の立場としてしか教えてくれなかったというか…」


僕自身、なんでかよくわからないから、なんて言えば伝わるかわからない。だからはっきりと伝えることは出来なかった。


それでも先生は意図を汲み取ってくれたのか、珍しく優しい口調で僕に言葉を返してきた。


「ごめんな、櫻井。あの時は立場が頭によぎって本当に教えたかったことはこれっぽっちも教えてやれなかった。でも…」


そして隣にいる僕に聞こえるか聞こえないか微妙な大きさの声で呟いた。


「…今度こそ、上手くやるからさ」


「…先生?」


サカもっちゃんの言葉の意図が分からず、その言葉の意味を問いただしたかったが、サカもっちゃんは僕を突き放すようにこう言ってきた。


「さぁ!そろそろ高校生は帰る時間だ!。補導なんてされたくないだろう?」


サカもっちゃんの言う通り、時刻はすでに11時を迎えようとしていた。


先生がこうやって話を逸らす時は何を聞いてもこれ以上は教えてくれない。そのことが分かっていた僕はそのことについてこれ以上追求しようとしなかった。


残されたわずかな時間をそれにかけるよりも他に聞きたいことがあったからだ。


僕はそれを聞くために、最後の去り際にサカもっちゃんに質問した。


「先生!また会えますか!?」


僕の最後の質問に、サカもっちゃんは笑ってこう答えた。


「会えるさ…君が思っているよりもずっと早く、ね」


こうして、僕は恩師との二度目の別れを果たしたのであった。

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