第6話

バタフライエフェクトという言葉がある。一匹の蝶の小さな羽根が巻き起こした微弱な風が、大陸の裏側で大きな嵐を巻き起こすという話から生まれた言葉で、ほんの些細な出来事がのちに思わぬ形で身を結ぶという意味だ。


日本にも風が吹けば桶屋が儲かるという諺があるように物事の因果関係とはほんの些細な出来事で変化してしまうものなのだ。


物事の顛末はほんの些細な言動や出来事で変わってしまうから、人は『もしもあの時こうしていれば』と考えずにはいられない。


だけど人生にタラレバはないから、そんなことを考えてもどうしようもないことは分かってる。


分かってる、分かってるんだ。


だけどそれでも時々考えてしまう…もしもあの時こうしていればっていう自分に都合のいいあるはずのないifストーリーを…。












「すまん!櫻井」


あの日の翌日、加藤は僕に会うなり両手を合わせつつ、深く頭を下げて謝罪をして来た。


「…え?なに?」


あまりにも唐突な平謝りに当然のごとく僕も困惑した。


「実はだな…」


話はどうやら、昨日の先輩に呼び出されたことのようだった。


聞けばどうやら先輩は自分たちのバンドのベースが突然次のライブに出られなくなったらしく、その代役を探していたらしい。


もちろん加藤は初心者ということもあり、その代役が務まる自信がなかったことと、自分のバンドを差し置いて代役を務めることに抵抗があったようで、初めのうちは頑なに断っていたようだ。


しかし、先輩達はどうやらその次のライブが高校生活の残り少ないライブらしく、どうしてもベーシストが必要なのだと涙ながらに加藤に訴えて来たそうだ。


「で、加藤はそれで了承したってわけか?」


「女の子の涙を拭き取ることが俺の使命だからな」


加藤はそう言うが、本当のところはその場と雰囲気と勢いに乗せられてノリで承諾させられたのだと僕は思う。なんというか…加藤は場の空気のためならば自らの身を滅ぼしてでも盛り上げようとする献身的な道化師の一面があるし…。


「それにさ、言い訳に聞こえるかもしれないけど、先輩達に直接教わる機会が出来るのはいいことだと思うんだよね。ほら、なにすればいいか分からない俺たちだけじゃ、昨日みたいにまともな練習にすらならないだろ?」


「…それもそうだな」


確かに、烏合の衆のまま貴重な練習時間を昨日のように無為にするわけにはいかないし、加藤が経験を詰むことでバンドのレベルアップにも繋がるだろう。


「俺たちのバンドも疎かにはしないし…だから許してくれ」


そう言って加藤はまたまた僕に頭を下げた。


「…まぁ、いいか。そこまで言うなら断る理由もないし…。谷口にもちゃんと話しておけよ」


「さすが櫻井、お前なら分かってくれると思ったぜ」


こうして加藤は6月の初めにある先輩達の次のライブまで僕達のバンドと先輩達のバンドを掛け持ちすることとなった。


そしてその日の昼休み早速加藤は練習のために先輩達に呼び出され、どこかへ行ってしまった。


なんとなく僕は遠ざかる加藤の背中をぼんやりと見つめていた。


その時の僕には、なんで遠ざかる加藤の背中から目を離せなかったのかが分からなかった。


なぜならば…僕の胸にポツリポツリ、ジワジワと溜まっていく不安の水たまりに蓋をして、見て見ぬ振りをしていたから…。







昼休みの終わり頃、加藤が珍しく難しい顔をして帰って来た。


「おう、おつかれ、加藤。難しい顔してどうした?」


「いや、まぁ…ちょっと初心者にこれはなぁ…」


そう言って加藤は僕にa4紙に描かれた直線とオタマジャクシで彩られた記号が並んでいた。


「これはなんだ?暗号文か?」


「どうやらこれは世間ではガクフと呼ばれているものらしい」


「ほう、これがガクフなるものか…」


そういって訝しめに楽譜を見つめるその姿はとてもじゃないが軽音楽部に所属している人間のものではなかった。


「よく分からないが難しいそうということだけはわかった」


「俺もよく分からないが難しいということだけはわかった」


「大丈夫なのか?それは」


「正直かなりきつい。でも引き受けたからにはやるつもりだ」


「さすがは献身的なピエロだ」


そしてその日から加藤は毎日のように昼休みや放課後、先輩達に教わりながら必死でベースを練習し始めた。


中学時代に同じ卓球部に所属していた頃、加藤は適度にサボりながら上手いことのらりくらりとやりくりしていた。


僕はそう言う加藤の一面を見て来たから、正直ここまで加藤がバンドに入れ込むことに驚いていた。


よほどバンド活動が楽しいのか、はたまた役目を引き受けたことへの責任か、それとも必要とされたことに意義を感じているのか…。


なににしても珍しく頑張る加藤の姿に感心しつつ、置いてけぼりにされたかんじはするが、やはりここは友として素直に応援したいところ…なのだが…加藤が忙しくなったことにより、僕に思わぬ試練が訪れた。


というのも、僕は普段昼休みは加藤とともに二人で昼食を食べていたのだが…その加藤が昼休みにいなくなると…必然的にひとりぼっちになる。


つまるところ…一人で飯を食う羽目になるということだ。


…いや!別にいいんだよ!。別に一人でご飯を食べてはいけませんなんてルールはないし!別に一人だと寂しいっていうわけでもないし!。むしろ気楽にご飯をゆっくり味わえて幸せっていうか!むしろラッキーみたいな!?。


ただ一人で食べてると周りの人から『あの人友達いないんだ』とか思われそうで嫌っていうか、そういうイメージを植えつけられる困るというか…。


でもだからって一緒に食べるほど仲のいいやついないし、そもそも昼食を食べるグループが確立された時期に割り込むのもめんどくさいし、それをやるくらいなら昼食くらいひとりで食べるし…。


とにかくアレだ、僕は一人でも気にしない。『皆さんどうぞ僕なんて空気だと思ってお食事を楽しんでくださーい』と声高らかに訴えたいだけだ。


しかし、一人でご飯を食べるのはなにか新鮮だった。


家ではいつも家族と食べる。父はちょくちょく欠けていたが、少なくとも姉か母のどちらかはいつもいた。中学では給食だったから班を作って食べていた。人並みに友達もいたから校外で食べる際も少なからず誰かが側にいた。いつもいつも当たり前のように誰かと食べていた。


だけど高校生になって昼食も弁当や購買、学食と選択肢が広がり、誰と食を囲んでもいいという自由を得た。その結果、僕のように一人で食を強いられるボッチが生まれてしまうというわけだ。


自由には代償がつきもの。そう考えてみると給食というのは偉大なシステムであったな。


だけど…だけどひとつ…これだけは言いたい。それは例えば一人でも、ボッチでも、教室の隅で縮こまりながら食べても、逃げるように便所の個室で引きこもっていたとしても…



ご飯はおいしいということだ!!。


僕はそんなことを考えながら朝早く起きて、栄養バランスに気を使いながらこの美味しいお弁当を作ってくれた母への感謝を噛み締めつつ、お弁当を咀嚼するのであった。


と、まあこんな感じに悟りを開きながら僕は一人飯を乗り越えることが出来たから、結局一人でも『まあいいか』と妥協してしまうのであった。


そうやって僕は大体のことを妥協で片付けて来たのだが…世の中には妥協だけでは流すことのできない出来事がある。


いずれ迫り来る妥協のツケがその片鱗を見せたのは加藤が代役を引き受けて大体一週間後、僕達のバンドの二度目の練習場所を使える日のことだった。


「悪い、櫻井。俺今日の練習行けないわ」


最近になってよく見る加藤の平謝りが再び炸裂したのである。


「実は先輩達は校内の練習場所が使えない時は外の施設で練習しててさ。今日もそこで練習があるんだよ。正直今はベースの代役で手一杯でさ、そっちに顔出せる余裕がなくて…」


加藤がそういうのも無理はない。初心者の加藤が3年生の演奏に喰らい付こうものなら、それ相応の努力と覚悟が強いられる。実際、加藤は暇さえあれば楽譜を眺め、音をなぞるように指を動かしていた。


そりゃあこっちでわちゃわちゃやる余裕もないわな。


加藤にこれ以上負担をかけるのは酷だし、ここはいっそのこと…。


そう考えた僕は加藤にこんな提案をした。


「加藤、先輩達のライブまではこっちのバンドのことは気にするな。今はそっちのバンドに集中しろ。俺たちは俺たちで細々と練習してるからよ」


「いいのか?。すまん、櫻井。恩にきる!!」


「谷口には僕から話しておくからさ、加藤は先輩達のところに行ってこいよ」


「お前は粋なやつだよ、櫻井…俺が女だったら惚れてるところだったぜ」


「悍ましいことに口を動かしてないで足を動かせ」


「おう、めっちゃ上手くなって必ず戻って来るからな!櫻井!」


去りゆく加藤の背中を見送った後、僕は一人で練習場所であるプレハブ小屋へと向かった。


僕はそのまま使用できる時間まで一人で待機し、時間が来たので前のグループと入れ替わり一人で入って行った。


あいも変わらず、中は寂れた倉庫のような風貌をしていたが、それでも自由に使える開放感に一人胸が高鳴った。


「…よし、僕も頑張るか」


自分の武器とも言えるマイギターを一週間ぶりにケースから取り出し、弦を弾いた。


張りのない気の抜けた音が小屋に響いた。


「とりあえず…チューニングするか」


慣れない手つきで音を合わせつつ、僕は谷口が一向に来ないことに気がついた。


『まあ、そのうち来るだろ』


そんな風に一人でコードを練習していると、10分遅れで谷口がのそりとやって来た。


「おう、やっと来たか」


「…ごめん」


谷口はそれだけ口にして、ゆっくりとドラムの前まで進み、躊躇うように腰をかけた。


「あ、そうだ…加藤は次の先輩達のライブまでそっちに集中することになったからさ、しばらくは来られなさそうだ」


「…わかった」


僕の言葉に谷口は覇気のない返事を返した。


それからは僕は貴重な練習時間を無駄にしないために谷口と会話を広げるわけでもなく、コードの練習に励んだ。


だが、その一方で谷口は一切ドラムを叩くことなく、スマホを弄っていた。


さすがに僕もそれが気になって、練習中、一度だけ谷口に問いただした。


「叩かないの?」


「…いま、叩き方調べてるから…」


「そっか」


結局、谷口はドラムを一切叩くことなく、練習時間の終わりを迎えた。


僕も僕で上手くなっているのはどうなのかがわからず、前進を感じることのできない練習と一向にドラムを叩かない谷口にモヤモヤしていた。


とりあえず…もう少し谷口のことを知る必要がある。


そう考えた僕は帰りの途中で谷口とどこかに寄ることを考えた。


中学時代は校則も厳しく、下校中に寄り道などなかなか出来なかったが、高校生になってその枷が外れた僕は少々そわそわしながらどこに寄るかを考えていた。


うーん…やっぱ軽音楽部らしく寄り道するならカラオケとかか?いや、でもそんなに仲良くないのにいきなりカラオケとかちょっとハードル高いかな…いや、でもお互いの音楽の趣味を知るためにもここはやはりカラオケを…。


「この後さ、カラオケにでも…」


「ごめん…ちょっと用事あるから…もう行くわ」


校門近くに差し掛かり、僕が提案しようと話しかけたその時、谷口がそんなことを口にした。


「あー…そっか…んじゃあまた来週な」


また来週にでも誘えばいいし…まあいいか。


そう思ってしまった僕は結局妥協してしまったのであった。


だから僕は中庭の方へと去りゆく谷口の背中をただただ見ていることしかできなかった。

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