第5話

自分に降りかかる不条理や困難を乗り越える時の解決策は大きく二つに分けられる。


それは『世界を変える』か、あるいは『自分を変える』かという二択だ。


もう少しわかりやすく述べるならば、『世界を変える』という選択は問題に正面から挑み、周りの人や社会の思想や価値観や行動を変化させ、問題を根本から変えようとする方法。


もう一つの『自分を変える』という方法は自分の価値観や思想、行動を変化させ、問題に順応、あるいは妥協する方法だ。


具体的にいうのならば、いじめという困難に遭遇したとしよう。いじめっ子を殴り返し、暴力で相手をねじ伏せ行動を抑制したり、あるいは言葉で相手を説得し、価値観を変化させる。このような方法は前者の『世界を変える』という解決方法だ。


方や『自分を変える』というのは自分がいじめられている理由、あるいは自分の落ち度、あるいは相手の事情などを考慮し、『自分がいじめられるのも無理はないか』と自分を納得させ、いじめられることへ順応する価値観に変化させるといった方法。


僕がお勧めするのは断然後者だ。なぜならばそちらの方が断然楽だからだ。


一見すると、後者の方法では問題が解決されておらず、なんの変化もないと思うかもしれないが、案外納得してしまえば多少の困難や理不尽など気にならないものだ。精神衛生は全然違う。解決はできなくても妥協できれば問題ないのだ。


その一方で前者の『世界を変える』という方法は茨の道だ。自分以外の他の人を…世界のほんのちいさな一部でも変えることは難しい。なぜならば相手にも事情というものがあるのだ。そしてその事情を紐解いて行くと、今度は別の事情に行き着く。しかもそれが一つとは限らない。その全てを根本の根本的なところまで紐解こうとすると、その事情はねずみ算のように増えていき、やがて変えるべきはこの世界そのものになる。


もちろん、相手の事情など気にせずに暴力や権力に訴えて無理やり変えることも可能だろう。…まあ、それほどの力があればの話だが…。


それに比べて『自分を変える』という方法はどうだろうか?。


自分のちっぽけなプライドや、価値観、あるいは時間や労力を費やせば大体のことは順応できる。妥協できる。納得さえできれば『まあいいか』と思える。


世界を変えることにくらべれば楽だ、圧倒的に楽だ。


そう思えるようになってからは些細なことでイライラしなくなった。寛容的になった。生きやすくなった。


正直、この楽さを知ってしまえば、もう『世界を変える』という馬鹿らしい選択には戻れない。


だから自分を変えられない人は愚かだ。


あの時の姫浦だってそうだ。


小学校の取り壊しを解決するんじゃなくて、取り壊されてもいいと思えるようになればよかったんだ。もう通わなくなった学校がなくなったってなにが困る?。思い出の場所が消えたって記憶には残る。同じ学校に通ってきた人と共有することもできる。写真や動画に残せばまた思い出せる。


だからあの時、必死になって頑張って、無駄に足掻いて世界を変えようとした姫浦は…問題を妥協できずに滑稽に走り続けた姫浦が…誰にも理解されずとも負け戦に挑み続けてきた姫浦が…


愚かが、バカらしくて、滑稽で、浅墓で、阿呆で、拙くて、頓馬で、軽率で、間抜けで、迂闊で、無闇で…








羨ましかった。
















僕の目の前で姫浦は神妙な面持ちで佇んでる。


四人がけの大きめのテーブルを挟んで僕と姫浦は向かい合って座っていた。


この状態でもうすぐ1時間経とうとしていたが…姫浦は一度たりとも僕に向かって顔をあげなかった。


やっぱり嫌われてるのかな。


なんとなく僕は姫浦と距離を感じていた。


今は家庭科の時間で家庭科室にいる。授業を受ける場所が変われば当然教室の席とは変わってくるわけで…同じクラスの人間ならばいつしかこうして面と向かい合うことになるのだろうけれど…その機会は僕が思っていたよりも早く来たというわけだ。


ちなみに僕と同じテーブルに座っているのは…。


「まさかここでも櫻井の近くになるとはな」


毎度お馴染みの加藤と…。


「それにしても…姫浦ちゃん、本当に可愛くなったよねぇ」


品定めするかのように姫浦をジロジロ見つめる少しキャプキャピした感じの垢抜けた女子生徒の星野であった。


星野は一応は同じ中学だったのだが…接点という接点もなく、僕も加藤も会話をした記憶すらなかった。


「こんなに可愛くなるなら中学時代からもっと仲良くしておくんだったぁ」


そういって星野はベタベタと姫浦にスキンシップを図った。


「えっ…なに?星野さん」


姫浦も姫浦であまり星野と仲良くなかったのか、いきなり距離感を詰めてくる星野に対して怪訝な顔を向けた。


「そんな顔しないでよ、姫。ただ単に私は友達は顔で選ぶタイプなだけなんだよぉ」


姫とはおそらく姫浦のあだ名なのだろう。…っていうか、星野、さらりと凄えゲスいこと言ったね。


「顔で友達選ぶのなら、俺はもう友達だよな?」


その顔で自信満々で加藤はそんなことを宣った。


「ごめーん、私は類人猿とは種族を超えて友達になれないタイプなのぉ」


そもそも加藤は戦いの舞台にすら上がれていなかったようだ。


家庭科は自習になっていたので僕達はこんなかんじの会話を続けて来たのだが…一度として姫浦とは直接会話が出来てなかった。


姫浦は僕のこと嫌っているかもしれないが僕は姫浦のことが別に嫌いではないし、同じクラスの人に嫌われたままでいるのも居心地悪いのでなんとか仲を取り持つことが出来ないかと僕は考えていた。


とりあえず…話しかけてみるか…。


そう決意した僕は話の流れに乗じて姫浦に声をかけた。


「でも姫浦、本当に変わったよね。よく似合ってるよ」


出来るだけ自然に、嫌らしくなく、爽やかさを心がけてそんなセリフを口にしてみた。


だがしかし、特に返事もなく、姫浦の視線すら僕に向けられることもなく、行くあてをなくした僕のセリフはフワリと宙に舞って弾けて消えていった。…つまるところ無視されたというわけだ。


これは…完全に嫌われている。


睨むとか、悪態付くとかそういうレベルではなく、存在を認められていないほど嫌われている。


そこまで嫌われているなら、わざわざ仲良くなる必要もないか…っていうか、仲良くなれる気がしないし、こんな分厚い壁を乗り越えてまで仲良くなろうとする気力もない。


そういうわけで、僕は姫浦との関係の修繕をさっさと諦めることにした。


姫浦との関係を除けば、僕の高校生生活は滞りなく進んでいる。


勉強も高校生になってから格段に難しくなったというわけでもなく、あくまで中学の延長線上に過ぎないし、人間関係も友人…とまでは呼べずともそれなりに仲良くなったクラスメートもチラホラいるし、クラスで一人ポツンと浮いているとかもない。…っていうか、その辺は加藤が割りかしいつもそばにいたのでスムーズにことが進んだ。


あとは部活だが…軽音楽部の練習場所という場所は校内の中庭にある小さなプレハブ小屋しかなく、軽音楽部が使える音響素材もそこしかない。で、場所が限られている関係上、一つのバンドグループがその場所で練習できる時間は限られている。


3年生から順に優遇され、長めに練習できるのだが、僕達一年生がその練習場所を使えるのは週に一度、30分だけと決まっている。


これ自体には納得しているし、一年生でも借りられるだけ有難い。それでも時間が足りないという自体に陥ったのならば最悪どこかの練習場所を借りればいい。だから特に問題はない。


いや、それでもあえて一つ不安な点を挙げるとするならば…僕達と同じバンドメンバーになった谷口のことだ。


別に嫌な奴というわけではないのだが…あまり口数も多くなく、同じバンドメンバーにしては未だに微妙な距離を保ったままだ。


まぁ、それでも僕と姫浦の関係くらい仲が決別しているわけではないし、これから関わっていくことで時間が解決してくれるだろう。


うむ、順風満帆でモウマンタイな高校生生活のスタートだ。


そして今日は待ちに待った僕達のバンドが始めて練習場所を使える日だ。


まだバンド名もどんな曲をやるかも決まっていないが、僕はその時が来るのを少しばかり心待ちにしていた。


「櫻井、バンド名どうするよ?」


昼休み、加藤が僕にそんなことを訪ねて来た。


「まだまともに練習すらしてないのに、いきなりバンド名かよ」


「いや、大事だろ、バンド名。これがあるのとないのとではバンドらしさが違うだろ?」


僕は口では悪態吐きながらも内心は加藤と同意見だった。


名前があるのとないのとではやはり何かが違う。


なんと言えばいいのだろうか…まだ結成の自覚が足りていないフワフワとしていたところにようやく実感が湧くようになるというか…バンドという目に見えるわけではないものに名前をつけることによって、ようやく存在を認識できるようになるというか…。まぁ、なんにしても名前は大事ということだ。


「シンプルなタイプにするか、それともカッコいい系にするか、あるいは奇をてらった印象のあるものにするか…」


「意味深な感じのが個人的に好きだな」


「よし、ここはレジェンドオブカトウなんていうとはどうだ?」


「やべえな、近年稀にみるダサさだな。なんにしても俺たちだけで決めるわけにもいかないだろ。谷口にも相談しないと」


「もちろん相談はするが、いろいろ案を予め考えておいてもいいだろ。今日の練習終わりにでも考えようぜ」


そんな感じに僕達は昼休み中ウダウダとああじゃない、こうじゃないとくだらない会話を交わしていたとさ。








後になって考えてみると…もしもこの時、バンド名を練習の後ではなく、練習の前に考えていたら今頃は……。まぁ、そんな話をしても仕方がないか…。






そして時は流れ、とうとう待望の僕達のバンドが練習場所を使える時間になった。


「おっほ、こうしてみるとここも広いな」


このプレハブ小屋に来たのも軽音楽部の新入生歓迎会以来だ。


ボロそうな木製の作りで、大きな地震でも来れば崩れてしまいそうな風貌をしていて、壁の作りも薄く、防音のボの字も感じ取れなかった。おまけに中も綺麗というわけでもなく多少のチリやホコリや砂が待っているのが見て取れた。


少しでも綺麗に見せようとしているのか、絨毯の代わりのように床には申し訳程度にブルーシートが敷かれていた。


まぁ、はっきり言ってただのボロ倉庫。それでも今の僕らには十分すぎるほど充実した練習場所であった。


「とりあえず…時間が許す限りいろいろ弄ってみるか」


そう言って僕達はずっしりと存在感を露わにするアンプなどの音響機器を嬉々として弄り始めた。


「そういえば谷口は?」


「さあ。時間は伝えてるんだし、そのうち来るだろ」


そんな感じで僕達が適当に機器を弄っていると、のそりと谷口がやってきた。


「おう、やっと来たか、谷口」


「…ごめん、遅れて」


そう言って谷口は無表情なまま軽く謝罪の言葉を述べた。


「そういえば、谷口ってドラム叩いたことあるのか?」


「えっと…初めて…ほとんど」


「じゃあ、今のうちに叩いて慣れておかないとな!」


そう言って加藤は谷口をドラムの席へと促した。


加藤に案内されるがまま、谷口はドラムの席へとのそりと座った。


「んん?これどう使うんだ?」


そんな谷口を尻目に僕は目の前に鎮座しているアンプと呼ばれる黒い立方体に四苦八苦していた。


「確か使う時は電源を切ってからコンセントに繋ぐとか先輩が言ってたな」


「えっと…電源電源…これだよな?」


僕達は探り探りでなんとかアンプを起動させようと奮闘していた。


「えっと…コンセントに繋いだから…とりあえずベースを繋いでみればいいかな?」


そう言って加藤が自分のベースとアンプを繋げようとした時…。


「ま、待った!」


口数の少ない谷口が突然大きな声を上げてそれを制した。


「それ、ギター用のアンプだから…ベースはこっちのアンプ…」


「お、そうなのか?いやぁ、知らなかったわ」


そうして加藤は谷口に言われた別のアンプを弄り始めた。


『もしかして谷口ってバンド経験者?』…って言う質問を僕はしようとしたけど、いまは目の前の黒い箱に手がいっぱいで後回しにしてしまった。


結局僕達はアンプの扱い方を学ぶだけに貴重な30分費やし、全く練習することなくプレハブ小屋を後にした。


「全く練習出来なかったな」


「まぁまぁ、いいってことよ。練習は各自家ででも出来るだろ?。ちゃんと練習場所でしか出来ないことを学べたんだからいいじゃないか」


僕の発言に加藤は前向きにそう言って答えた。


「それはそうとバンド名なんだけどさ…」


そんな風に加藤がバンド名の話を持ち出そうとしたその時…。


「見つけたー!!えっと…君は確かベースの加藤くんだよね!?」


新入生歓迎会にいた軽音楽部の3年生の女子生徒が加藤に声をかけて来た。


「ええ、あなたのベーシスト、加藤ですとも」


「なんだよ?あなたのベーシストって…」


女性の先輩に声をかけられたのが嬉しかったのか、加藤は上機嫌にそう答えていた。


「ちょっとお願いしたいことがあるんだけど…いま時間あるかな?」


「えっと…」


突然の出来事に加藤が困った顔をしながら僕達をチラリと見てきた。


「あ、じゃあ僕たち先に帰るよ。バンド名はまた明日にでも決めよう」


僕は気を使って、谷口を連れてその場を後にした。


二人っきりになった僕達は特に何かを話すでもなく、そのまま真っ直ぐ校門の方へと歩いて行った。何も話さなかったのは、何を話せばいいのか分からなかったのもあるけど、あの先輩のお願いとやらが気になっていたからだ。


あの先輩は『ベースの加藤くん』と言っていた。となると…用があるのはベースを弾ける誰かというわけか…。


僕がそんなことを考えていると、谷口が突然口を開いて声をかけて来た。


「ごめん、用があるから教室に戻るわ」


「あ、おう、わかった」


そう言って僕は去りゆく谷口の背中を見送ろうとした。


だけどその時、なにか悪い予感が頭をよぎり、僕はかけるべき声を探った。


『明日、バンド名決めようぜ』


何故だかそう声をかけたくなったけど、すでに谷口との距離は離れおり、声をかけるのには遠かった。


それでも声を張り上げれば届くし、少し早足で追えばつぐに捕まえられる。


だけどそれをしなかったのは…また今度でもいいかと思ってしまったから。『まぁ、いいか』って妥協してしまったから。


こんな些細なことでどうにかなるわけでもないし、なんの危機感もなかった。


そう、別にこの選択はほんの些細な問題…だけどその妥協がいつかツケになって帰ってくることを、僕はまだ知らなかった。

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