第162話 ノア先生
俺は頭を押さえながら歩いていた。
ああ、もう、気が狂ってしまいそうだ。
もう一人の自分が叫ぶ。俺を支配して、俺の自我を破壊しようとする。
『壊せ。壊せ。全て、壊せ』
『殺せ。殺せ。皆殺し』
やめろ。殺すのは、よくない。
あれ、なんで殺しちゃいけないんだっけ。殺すのが悪いことなのはなんでだ。
「ああもう、考えるな!」
叫びながら俺は右腕を振り上げ、己の頬を全力で殴った。
軽い脳震盪と痛み、そして血の味が口の中に広がって、ようやく正気が戻ってくる。
口の中にたまった血を道端に吐き捨て、わずかに明るく戻った視界で以て周囲を見渡すと、ふと懐かしいものを見つける。
「……マッチョウさんの家だ」
石積みの簡素な家だ。
周囲は数年前と比べて近代化された、レンガ積みの家が主流となっていた。おそらく俺たちが出ていく前の悪魔襲来事件で壊れてしまった後、復興時にレンガで建て直されたのだろう。
けれど、その家だけ、時間が止まったかのように石積みだった。
まるで、誰かの帰還を待つように。何かの目印のように、その家は佇んでいた。
――スキンヘッドの筋肉達磨が顔をほころばせる姿が、一瞬だけ見えた気がして。
俺は軽く駆けて、その家の窓を覗き込んだ。
「……お兄ちゃん、さっきぶりだね」
そこには、銀髪の少年――あのときよりも女らしくなったノアがいた。
俺の頬に、雫が滴った。
**********
「そうか……この家は、お兄ちゃんの父親代わりの人が住んでいた家だったんだね」
ノアはそう言って顔を伏せた。
「知らなかったのか」
「うん。この家の前の主人とは、面識もなかった。僕のここでの住処を探すとき、リリスちゃんが紹介してくれた家が、ここだったんだ」
「……そのリリスは?」
「お買い物らしいよ」
悪魔って疲れ知らずなんだね、と茶化して笑うノア。そこに、一人の来客。
「ししょー、こんにちはぁー」
現れたのは幼い少年。
「こんにちは」
と笑うノア。どうやら初対面というわけでもなさそうだ。
どうしたんだ、一体。疑問に思う俺を横目に、少年は部屋の隅に置いてあった椅子を移動させて座り。
「おじさん、だれ?」
俺のほうを指さして言った。
まあ、無理もあるまい。俺がこの町を去ってから二年以上、俺のことを知らない子供がいてもおかしくはないだろう。
「あ、このお兄さんはね」
ノアが説明した。まあ、「幾つもの町を救った」なんて誇張表現のほらを吹かれて、いつの間にか増えた子供たちにまとわりつかれて……結構散々な目にあったのだが。
不思議と、悪くない気持ちだった。
「じゃ、そろそろ始めようか。みんな、席についてー」
お兄ちゃんもどうぞ、とノアは俺の分の椅子も出してくれて、俺は礼を言って座る。
それから、勉強の時間が始まった。
勉強とは言えども、初歩的な文字の読み書きを教えるような、ものすごく簡単なものではあったが。
「ししょー、これってあってる?」
「ノアせんせー、これってなに?」
「せんせー、どう? うまい?」
子供たちはとても楽しそうに勉強をしていた。
「はい、今日の授業は終わりです。また明日」
子供たちが帰っていく中で、ノアは僕のそばに寄ってきて。
「最近、学校みたいなの開いてみたんだ。今まで学んだことを生かして、無料で子供たちに勉強を教えているの」
ノアは孤児だった。
今でこそ仲間たちと行動を共にして、俺という家族みたいな存在を手にしたわけだが……同じ境遇の子供の気持ちは余計にわかってしまうのだろう。
居場所のない子供たちに居場所を。そんなやさしさが、彼女から感じ取れた。
「へぇ、偉いな」
俺は微笑んで。
「あっ、いたー!」
突然の叫び声に、目を見開いた。
「先輩、こんなところにいたんですか。探しましたよ」
「テネシンってばすごーい。一発で探し当てちゃうなんてすごーい」
「黙れくださいルミナ」
漫才をしながら入ってきたのは、テネシンとルミナの二人組。一枚の魔法陣の書かれた紙――たぶん通信魔術だろう――を取り出して。
「あ、もしもし? みつかったよ」
「はい、はい……はっ」
通話が終了したのか、機密保持のためなのか、自然発火する通信魔術の紙をさらに魔法で燃やしながら、テネシンはメガネをくいっと上げながら僕に言った。
「これから、皆さんがこちらに来るらしいですよ」
「ミナ……そういえば、何年か前にこの戦いが終わったら結婚するって言ってた奴がいたな。その妻がミナだったっけ。ミナさん元気かな」
「最近お子さんも生まれたらしくて、元気そうですよ……じゃなくて!」
そんな様子を見ながら、ノアは笑っていた。
――でだ。
「どうして俺は縛られてんだ?」
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