第4部 最終章 Two Years After編

第160話 邂逅前夜

 ――いつになったら、帰ってくるんだろう。

「アリスっ!」

「あっ」

 そうだ、ここは森の中。魔物に襲われている。

 思い出した瞬間、オオカミの魔物がわたしの喉元を掻っ切ろうと爪を向けた――小柄な影が間に入り。

「はっ」

 どすっと肉の突き刺される音とともに、オオカミ魔物は動かなくなった。


「……僕がいなきゃ、どうなってたことやら」

「あはは、ごめん」

 魔物の死骸解体を別の仲間に任せて、私はさっき助けてくれた恩人に叱られていた。

「ありがとね、ノアちゃん」

「ちゃんづけで呼ばれるのはなんか気恥ずかしいんだけど」

 ……確かに、まるでさわやかな少年剣士の見た目をしている彼女には、ちゃん付けはあんまり似合わなかったかな。

 少しだけ笑ってから、一転。ノアちゃんは口を開いた。

「――お兄ちゃんのこと?」

「うん」

 この子がお兄ちゃんと呼んだ人。私の愛してる人。

「ジュンヤ君、なんで帰ってこないんだろ」

 私は茶化して言った。


 ――二年前のある日。

 地獄みたいな戦場に、私たちはいた。

 この世界でたった一つだけある、学園都市という場所。世界の英知が集結した町。

 研究所に閉じ込められていた魔物が解き放たれたことによって、そこは悲鳴ひしめく戦場になった。

 異世界から来たっていう私の恋人は、何の力も持ってないくせに、奮闘した。私と背中を合わせて。

 そして――

『……この世界を守るために、命を使いたい』

『死なないようにする。きっと、戻るから』

『必ず……はじまりの、あの町で――』

 ――そのまま彼は、どこかへ消えた。


「お兄ちゃん、いまはなにしてるのかな……」

 ノアの不安そうな声。大事に思ってるのは彼女も同じだ。

 私は、なだめるように、ぼそりと。

「大丈夫だよ。きっと帰ってくるから」

 そう言い続けて、何年たっただろうか。

 もう子供だって産める。あの時みたいな子供じゃない。時は残酷に過ぎた。

 ……けど、あきらめきれない。好きで、好きで――ずっと、心の中は空白で。

 あの日、あの時、引き留めてたら……どうなってたんだろう。

 何度も考える。けど、きっとそうしていたら――みんな死んでたんだろう。私も、ジュンヤ君も。

 憂鬱に飲み込まれそうになって……勢いよく首を振った。

 悪魔とかは暗い雰囲気に寄ってくるっていうし、こういうことは考えないほうがいいはず!

「アリス、あとノアくんも。帰りますよー」

「そうだな。町に戻ったら取った肉で焼き肉パーティーでもして機嫌を直そう」

 ラビとリリスが私たちに呼びかける。ノアちゃんは「はーい」と返事をして。

「……今は、考えても仕方ない、から。行こう、アリス」

 私たちは町へと歩を進めるのだった。


 **********


 この二年、散々だった。

 俺は俺と戦った。

 かつて俺を殺そうとしたのは、果たして俺だった。

 一年間そいつを追って、各地を旅してまわっていた。

 俺は猫を拾っていた。猫を旅に連れていた。

 その猫は殺された。魔族の狂信者に首をはねられた。

 俺は殺戮した。猫を殺した狂信者たちを、皆殺しにした。

 冒険者の集落にも行った。王国にいいように使われていた冒険者たちがクーデターを起こして独立した、いわば小さな国のような集落。

 その滅びを目の当たりにした。

 内乱による最終戦争で、女も子も関係なしに殺しあう光景を目にして――精神が錯乱した最後の一人を、俺は殺した。

 俺の心はだんだんと摩耗していった。

 もう一人の俺。俺のもう一つの可能性と言える、俺を殺そうとした俺と対峙したとき、俺は壊れかけた心を自覚した。

 正義の暗殺者になっていた俺に、敵うはずもなかった。

 もう一人の自分にすら嘲笑われて見放された時、俺は感情を失った。

 傭兵として隣の国との戦争に駆り出され――ざっと千人以上は殺しただろうか。一日数十人は流れ作業で殺していたので、何時からか数えるのを忘れて。

 ある日、ふと俺を好いてくれた少女を思い出した。ようやくのことだった。

 二人が別れたあの日から一年半以上が経過していた。

 レベルはとうに百を超えてしまっていたと思う。もはや、人をやめかけていた。

 疲弊して壊れた精神は、ただ一つの救いを求める。

 自分が自分でなくなってしまう前に。せめて、あの子の元で死にたい。

 俺は夜逃げした。引き留めた友人は殺していった。

 再び旅を始めた俺に、もはや迷いなどなかった。

 最期だ。終わり。

 何もかもをあきらめた。投げ出した。

 楽になった思考。すっかり変わってしまった俺は、ただ足を進めた。


 **********


「なにか、聞こえる」

 クエストの帰り道、草原でノアちゃんが口にした。シルフの力で常に聴力が上がっているノアちゃんなら不思議なことではない。

「……ああ、なにか……気配を感じるぞ。禍々しい……強力な気配だ」

 リリスもそんなことを言って。

 瞬間、ぞくりとした気配。圧倒的な強者の気配。

 ラビがぶつぶつとつぶやく。

「……ノアくんとリリスさんの探索範囲の差はおよそ二キロメートル。およそ一秒程度の差があったと仮定すれば――秒速二キロメートル。危ない!」

 その考察が、あまりにも長かった。否、その怪物が、あまりにも速すぎた。

 ――それは、汚い人影だった。

 伸びきったヒゲ、長く伸びたぼさぼさの黒い髪、かろうじて恥部を隠す布切れ。

 しかし、その黒と赤にまみれ汚れた身体は、引き締まった筋肉で彩られ、圧倒的な実力を感じさせる。

 両腰に下げた片手剣は、どこか見覚えがあった。

「……まさか」

 信じられなかった。もしそれが本当だとしたら、あまりにも変わり果てていた。

 そのとき、咆哮が聞こえた。

「あれは……ウルヴェン!? しかも、かなり強力な……群れを率いるクラスの……」

 突如現れた、巨大なオオカミの魔物。それを、ラビが分析した。たぶん、さっき討伐したオオカミ魔物の群れのリーダーだ。

 いままで見たことないくらい大きなウルヴェン。普通の個体でも倒すのに一苦労するのに……それの大型の個体。いまの私たちじゃ、きっと束になっても勝てるかどうかだろう。

「逃げて! ここは僕とリリスちゃんで足止めを――」

 ノアちゃんが剣を構えたそのとき。

「……下がれ。殺すぞ」

 殺気。目の前の男からだった。

 ――それは、一瞬のことだった。

 揺らめく黒い気配。鋭い黒の瞳が捉えたのは、圧倒的強者の獲物となった哀れな狼。

 両腰に下げた二本の剣がその手に取られ、硬直するそれを引き裂くように――。


 はじけ飛ぶように血飛沫を上げて絶命したそれを一瞥すらせずに、彼は剣を一振りし返り血を飛ばす。

 両腰に剣を吊り下げなおした彼は、こっちに顔を向けて、鋭い瞳で私たちを睨みつけて――そのまま何もせずに、ただ息を吐いた。

「あ、ありがとうございます!」

 ラビがお礼を言って。

「……変わらんな」

 ぼそりと男は口にした。

 私は確信した。

 ここから去ろうとする男の腕を、私はつかむ。

「なにを――」

「あなた、ジュンヤ君でしょ」


「――なんで、俺の、なまえ……を……」


 男は絶句した。

 見開いた眼は、明らかに「彼」のものだった。

「やっと、会えたね」

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