第159話 さよなら
『――……はいっ、こちら、テネシン! 聞こえますか――ジュンヤ、せんぱい』
涙をこらえるような、少年の声。確かにあいつだ。
「ああ、おはよう。心配かけてごめんな」
『生きてて……よかった、です……』
どうやら泣いてしまっているらしい。……まあ、仕方ないか。
「それより、要件はなんだ?」
『敵――先輩を狙撃した犯人の居場所がわかりました』
「おお、そうか」
軽い感嘆とともに、心臓がどくりと強く拍動する。
なんだか、嫌な予感がする。もはや止めることの叶わないような、抗いがたいもの。
早口でその「犯人の居場所」が伝えられる中、背中の寒気が収まることはなくて。
『――わかりましたか?』
「あ、ああ。……そっちは無事かい?」
『ええ、何ともありませんけど』
即席の安心感に、ひとまず息を吐いた。
「……元気で、また会おう」
「どうだった?」
「俺を殺そうとした奴の居場所が分かったらしい」
アリスに伝えた時、風が弱まっていくのを感じる。スタジアムの中央で渦巻いていた竜巻が収まっていく。
「ノア!」
俺はたまらず叫ぶ。そして呼ばれた少女は、弱弱しく「おにいちゃん」と呼ぶように、口を動かす。読唇術なんて使えやしないが……光のない瞳に映ったのが俺であることは、もはや明白であった。
力なくこちらに歩いてくるその姿は、幼い子供のようでいて、今まで以上に年相応に見える。彼女はいまだ十歳程度の子供なのだ。
「おにい、ちゃん……ぼく、やったよ……。やっちゃった……」
なにをやったのか。それを聞く気にはとてもなれなかった。
俺にできるのは、ただただ俺の胸に飛び込んだ彼女の小さく冷えた背中をそっとさすることだけ。
「……ノア。お前は――」
口を挟もうとしたのは、金色の髪をした小さな悪魔。それを俺はぐっと睨みつけ。
「すこし、そっとしてやってくれ」
「……」
同属の命を奪うことは、少なくとも人間にとっては重大なことなのだ。もっとも、悪魔にはわからないだろうが。
はるか遠い昔――この世界では日常茶飯事かもしれない――戦争の時代なら、その価値観も全く違ったのだろう。けど、俺たちは違った。違ってしまっていた。
優しすぎたと言い換えてもいいかもしれない。いちいち他人のために涙を流していては、敵を殺せない。下手な創作じゃ美談になりえるような感情でさえ、戦士には不要だったのである。
重々しいため息とともに、俺は立ち上がった。
「行かなくちゃ」
「どこに」
「決着を付けに。俺は、行かなきゃいけない」
直観が告げる。
俺を殺したやつを見つけ出せ。そして、殺すのだ。
全ての元凶が、全ての黒幕が、そいつなのだ。彼を殺せば、全てが終わるのだ。
もはや、「優しすぎる」自分ではいけないのだ。戦士にならねばいけない時が来たのだ。
俺はノアをリリスに任せ、立ち上がった。
周囲、戦場はいまだに地獄。殺し殺されの様相。喪われた命は数知れず。
さまざまな生物の動脈血の紅が支配する視界の中心に、少女を映した。俺なんかに「愛してる」と言ってくれた、一人の少女を。
吹きすさぶ一陣の風。なびく彼女の金糸の髪。
この惨状の中、彼女は、彼女だけは、場違いな美しさを放っていた。
「どうしたの、ジュンヤくん」
その声色に疑いはなく、ただ心配と不安に声を震わせていた。縋るように。
俺はうつむいた。うつむいて、絞り出すように――。
「もう、ここでお別れだ。……さよなら、アリス」
目の前の少女は、その目を見開いた。
刹那の時が、あまりに長く感じて。
「……なんで?」
やっと口を開いた彼女。その言葉に、俺は何も答えることはできなかった。
血で血を洗う様な闘争の中、俺たちの時間は止まった。
何故、わたしをおいていくの。
……危険だから。そう、きみを巻き込みたくないから。
わたし、危険でも大丈夫だよ。……あなたとなら、死んでもいい。
「だめだっ!」
俺は怒鳴った。息を荒くして。目の前が白くなって、気が遠くなるのをこらえながら。
「アリス、お前には生きていてほしいんだよ! ああそうだ。これはエゴだ。ワガママだ。だけどな、お前には未来を生きてほしいんだ」
「それなら、わたしだってジュンヤくんに生きていてほしい。願ってるよ。いつだって。どこでだって、祈ってた! ……ここに生まれ変わってよかったって、思ってほしかったの」
胸が、締め付けられた。
「……それなら、とっくに思ってたさ」
「じゃあ……」
「だから、なおさら……この世界を守るために、命を使いたい」
その少女は、俺によたよたと近づいて……抱きついた。抱きしめた。
「あいしてる」
「ああ。……俺も、だ」
しばらく、鼻水をすする声だけが響く。もはや、自分の身を守ることすら忘れていた。
――やがて。
「俺、死なないようにする。きっと、戻るから」
「……うん」
「必ず……はじまりの、あの町で」
二人は離れた。そして……しっかりと、口づけを交わした。
「ぜったい、だよ?」
「ああ。生きて、帰ってくるから。待ってろよ」
言い交わして、二人は動き出した。それぞれの、未来へと。
――それから二年、彼が帰ってくることはなかった。
次章、最終章「Two Years After」
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