第32話 さよならをあなたに

「い、いや! あなた!」


 希ルエは慄き、思わず駆け寄る。


 だが、夫は完全に死んでいた。

 呼吸をしていないのは見ても分かるし、血だまりは広がり続けている。


 希ルエは絶望しながらも嫌な気配を感じて上を見た。

 屋上に、夫がいる。

 まだ生きている夫だ。


「……なッ!」


 その夫が飛び降りようとしているのが分かって、希ルエは叫んだ。


「あ、あなた! やめて! 死んじゃだめ! 死なないで!」


 夫は遠く、高いところにいたにもかかわらず、にっこりと笑うのが希ルエには分かった。

 そのままの表情のまま落下を始める。


「い、いやああああああああああ!」


 希ルエは叫んだ。

 夫は地面に衝突すると、死んだ。

 首があり得ない角度に折れ曲がり、上半身の肉がひき肉になっている。


 だが、希ルエはショックを受けている場合ではなかった。

 また、新しい夫がマンションの屋上から顔を出し、にっこりと笑っている。


「やめて! やめてぇぇぇぇ!」

「カレンダーに! チェックを!」


 落下する夫から目を背け、希ルエはマンションに入った。


 こんなの、嘘だ。

 あり得るはずがない出来事の、連続だ。


 だが、希ルエは混乱していた。

 夢魔の仕業だと言う事すらも、もう、分からずに、ひたすら走っていた。


 希ルエは階段を駆け上がり、自分の暮らしていた部屋へと飛び込んだ。


「か、カレンダーに、チェックを……! チェックを、いれないと!」


 希ルエは息を切らしながらペンを持ち、カレンダーに向かった。


――『海外出張だなんて言うけど、すぐに帰って来るよ。そしたら、また希ルエが作ったカレーが食べたいな』


 夫の、優し気な声が聞こえた気がして、思った。


――そ、そうよ。すぐに、帰って来るんだから。また、一緒に、料理したり、出かけたり……!


 4月28日。チェック……

 その瞬間、希ルエのウォッチがニュースを伝えてきた。


『……発……行きの……航空機が消息を絶っている件で、航空機は太平洋に墜落したとみられています』


――いや! やめて!


 希ルエは取り乱しながら、カレンダーの日付を見た。


 4月は、全ての日付が埋まっている。

 めくれば3月も。

 さらにめくれば2月も。

 だが、2月の最終日には、特別なマークと共に矢印が引っ張ってあり、辿ると文字が書いてあった。


『出張から帰って来る予定日』


「あ、ああ……あなた、どうして……何で、あの飛行機なの!」


 夫は死んだわけじゃないのね、と言った、自分の言葉を思い出した。

 この夢の中で、夜シルと初めて言葉を交わした時のことだ。


 死んだわけじゃない。

 これは夢なんだから、死んだわけじゃないのだ。

 絶対に、死んでない。

 必ず、私の元に帰って来てくれる。


 しかし……


「希ルエ、思い出したかい?」


 夫の声が聞こえて、希ルエは振り返る。

 そこには、夫がいた。

 空港で出迎えに行っても姿を現さず、ニュースで飛行機が落ちたかもしれないと聞き、それからずっと、暗い部屋で会いたいと想いながら、待ち続けていた日々。


 希ルエは、全てを思い出した。


 数少ない、夫との共通の友人に励まされても、結局は部屋に引きこもってしまっていたこと。

 夢見マシンに、制限解除プログラムを入れられていて、『励まし』の手段の無神経さに腹が立ちながらも結局使ってしまったこと。


 寂しくて、泣き続けた数か月。


「あ、あなた……!」


 だが、その腹部に大きな穴が開いていて、床を血で汚していた。

 顔は青ざめていて、死人の形相だった。


「悪いけどね、僕は君の夫じゃない。姿を借りているだけさ。君を喰い殺そうとしている存在さ。でもな、最後に、良い夢を見せてやろうと思ってね。……会いたかったんだろ? それでずっと、待ってた。もう、会えないのに。だから、こうして会わせてやってるんだよ。優しいだろ?」

「あ、あの人は、死んでない! 必ず帰って来るわ! だって……!」

「そうだね、死体はまだ見つかってない。飛行機の残骸も、何もかも。正式発表もまだされてないよなぁ」


 夢魔。

 希ルエに絶望を与えようとしている邪悪な存在。

 希ルエの、あまりの取り乱しように、夢魔はニタリと笑った。


「でも、もう無理だよ。どっちにしろ、お前は夫には会えなくなるからなぁ! 僕に、今から喰われるんだからねぇ!」

「ひっ!」


 飛び掛かって来た夫の顔は、かつて、原田・樹ミを殴り殺した男の物に変わった。


「最後に、良い目に遭ってもらうぜ。絶望して、死ね」

「い、いやあああああああ!」


 手を押さえつけられ、覆いかぶさって来る重い体。

 顔は、いつか希ルエを嘲笑し、バカにしていた大学生の顔に変わる。


「鉄仮面女! お前だって、ほんとうはこうされたいんだろ?」


 希ルエの服が、強引に脱がされていく。

 上着が捲れられて、その腹部が露わになった。


「たまんねぇなぁ! ほら、もっと喘げよ! 僕を、興奮させてみろよ! もう、これで最後なんだからぁ!」

「い、いやあああああ!」

「怖がってんじゃねぇぞ! 朝起きて、隣に夫がいないって分かるたびに死にたいって思ってただろ? 原田・樹ミが死んだ時はどうだ? だったら、それを思い出せ! 絶望を思い出して、そうして死ね!」


 柔らかな肌に指を這わせていた夢魔の右手は醜悪な形へと変える。

 それは鋭利な刃物に似ていた。

 生々しい肉の質感を浮かばせながらも鋭い、殺意の形状だった。


「もう、お前を守ってくれる奴はいないんだよ。原田・樹ミも、お前の旦那も、誰もいないんだ! 一気に突き入れるぞ、オラァ!」


 だが、夢魔が振りかぶったその瞬間、部屋のドアが開かれ、その右手を吹き飛ばす弾丸が発射されていた。


「守る者はいるさ。ここにな」


 沢田だった。

 その後ろに、夜シルもいる。

 右手を破裂させられた夢魔は、のけ反って希ルエの上から転がり、とっさに距離を取っていた。が、残った左手を凶器に変えて叫んだ。


「く、くそったれが! 夢魔殺し共が何で、こんなに早く、ここに来れたんだ! 動きは封じていたのに!」


 沢田は走って玄関を抜けると、夢魔に向けて銃口を向ける。


「撃たせるか! その前に殺してやる!」


 夢魔は、左手を伸ばしてきた。

 圧倒的スピードで、恐ろしく鋭い刃の先を、希ルエに向けて。


「僕の勝ちだ!」


 沢田が放ったM9の弾丸は、その刃先をかすめて、夢魔に命中する。

 だが、その手は止まらない。


 肉に、刃が刺さる音は静かだった。


「あ、ああ……」


 滴る血。

 希ルエは震えながら、傷を見る。


「どうして! どうしてなの? 私なんて、どうでも良いって言ってたのに!」

「……これが、俺の仕事だ」


 希ルエを庇った沢田の胸に、夢魔の左手が突き刺さっていた。


「し、仕事って……! 死ぬなら死んで良いって、言ったのに、何で!」

「……こう言う生き方しか出来ねぇんだ。それに、な、真っ直ぐで青臭い、甘ちゃんの新人のせいで、全く、俺も、おかしなことを考えちまう。な、なぁ、酷いこと言って、悪かったな、魚住・希ルエ、さん」

「そ、そんな! 何か、手当をしないと……!」


 希ルエが傷に触れようとしたが、沢田は力なくその場に崩れ落ちると、口から血のあぶくを吐き出しながら、言った。


「あ、赤井、歌え!」

「はい!」


 タフな男だったが、流石にそれ以上戦うことは出来ないのか、沢田は力なく夜シルに道を指し示す。


「う、うおおおおおお!」


 夜シルが、ギターを弾き、叫んだ。


「な、なんだその音は! ギター?」


 夢魔が沢田の胸から手を引き抜き、再び希ルエに向ける。


「ふざけているのか! そんなんじゃ、僕の勝ちだろ!」


 だが、夜シルの体が光り輝き、その場に在った全てを照らす。

 希ルエも、沢田も、夢魔も、全てが光の中に包まれて行く。


『希ルエ……!』


 光の中から、希ルエを呼ぶ声が響いた。

 原田・樹ミの声だ。

 夢魔ではない。

 夢魔の悪意に満ちた響きは、そこには無い。


『君を守り続けたい。だけど、君を縛り付けたりはしたくないんだ』


 夫の声も、希ルエに聞こえた。


『君も、前に進んで良いんだよ。僕たちは、ずっと、君を守っていく。いつだって会える。だから』


 荒々しいエレキギターの音色の中で、声は優しく響く。


『だから、さよならだよ。希ルエ。君の幸せを、願ってる』


 希ルエは、光の中で立ち上がる。


「あなた! 樹ミ君! 私……! 私!」


 命の輝き。生きたいと、他人に生きていて欲しい願う、希望の光。

 夜シルの音は、どうしようもなく、それを聴いた者の心に『生』を呼びかける。

 もはや、希ルエの心に絶望は無い。


「その音を、止めろぉぉぉぉぉ!」


 夢魔の叫びに、夜シルは歌で応えた。

 光は、夢魔の姿をかすめて、外側の肉をかき消していく。


 やがて、醜い、とても小さな物だけが残った。

 醜悪な顔。手足は短く、しわだらけで、何の力も無さそうな、ちっぽけな存在に。


「それが、お前の本当の姿か」


 ぐったりとした沢田の声が響いた。


「ち、違う! 僕は、強くて、誰も適わないような存在なんだ! 強いはずなんだよ! 女を、数えきれないほど絶望させて、喰ってきたんだ! だから!」


 キーキーとした甲高い声でわめき散らす夢魔に、沢田はM9を向けると、撃った。

 夜シルのギターと歌で強化された弾丸は正確に夢魔の小さな体を撃ち抜く。


「ぎいやあああああああああああああああ!」


 断末魔が響いた。

 瞬間、その場に、夢魔に喰われた少女たちの面影達が飛びだす。


 喜んで笑う声、悲しみに泣く声、怒りで叫ぶ声。

 悦びに、喘ぐ声。


 様々な声と共に、様々な顔が浮かび上がって、光と共に天井を突き抜けて昇っていく。


「あ、あああ! 僕が、喰ってきた魂が……! 記憶が……! 抜けていく……!」


 夢魔が、言いながらドロドロと溶けていく。


「い、いやだ、死にたくない、消えたくない。これからも、もっと、女を喰うんだ、僕は……!」


 トドメの弾丸を沢田は発射した。

 夢魔は、それを受けると、もう、何も喋れずに消えていくことしか出来ないようだった。


 残っていた魂の記憶が、解放されて天に昇って行く。

 死んだ少女たちの、感情と、命の記録。

 それは騒がしく、混沌に満ちていて、酷く悲しい光景だった。


「木村……!」


 玖ユリの面影がその場に出て来ると、夜シルは歌うのを止めた。


「木村! ああ……!」


 笑い、泣き、叫び、悦び、怒り、そうした様々な感情がぐちゃぐちゃに混ざりながら、玖ユリの形が消えていく。


 そうして、夜シルは、目に見える全てがグニャグニャと歪んでいくのが分かった。


「赤井。俺たちの勝ちだ。帰るぞ。早くしないと、俺が持たない」


 帰る?

 でも……


 夜シルは、そっと希ルエを見た。

 涙を流し、そうして、呟くようにして言っていた。


「さようなら、あなた。さようなら、樹ミ君。二人とも、ありがとう……私、……」


 夜シルはその言葉の続きを待った。

 だが、夜シルの意識は待つことが出来ず、静かに消えていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る