第31話 希ルエの過去

 沢田は周囲の触手や、人型の肉が一掃されたのを見て、それから言った。


「赤井、患者を追うぞ!」

「はい!」


 夜シルは前を行く沢田の後ろを走る。

 沢田は傷だらけで、それでも全力で走っていた。

 その脚から血が跳ねて、地面に赤い点を作る。


「沢田さん、怪我は大丈夫なんですか?」

「気にしてられないだろ。良いから走れ」


 沢田は短くそう言うと、前を走り続ける。

 確かに、今は追わなければならない。

 二人は、魚住・希ルエの後を追って彼女の住んでいたマンションに向かっていた。


――――――――――


 一方、希ルエは、頭の中が真っ白になりながらも、走っていた。

 ただただ『カレンダーの日付に、ペンでマークを付けなければ』と言う、ただのそれだけが体を動かしている。


 全力だった。

 カレンダーに印をつけるのを、決して忘れるわけにはいかない。


――『鉄仮面女』


 大学生時代の記憶が、ふいに彼女の頭の中をグルグルと回り出した。

 初めて、夫となる人と出会った時の記憶。

 受けていた講義が終わり、出された課題をまとめていてた時のことだった。


『ぎゃはははははは! お前のそれ、そっくり』

『似てるっしょ』


 何がおかしいのか、下品な笑い声を背後に聞いて、希ルエは思わず振り返った。


 数人の男と女。

 わいわいとグループで盛り上がって、何やら話をしている。

 そのうちの一人、一人の男がテープを眉間に貼り付け、何やら芝居がかかった口調で言っているのだ。


『声をかけないでください。アナタたちみたいな人と、一緒にいるなんて、耐えられないですから』

『アハハハハハ! マジ似てるし!』


 それよりずっと前、男が真似しているのは、そのグループからかけられた昼食の誘いを断った自分の言葉であると、希ルエは思い出す。


 バカにして、騒いで楽しんでいるのだ。

 悔しかったが、その気持ちをぶつける事すらも希ルエは出来ない。


『コツ教えてよ! ほんと似てる!』

『簡単だよ、自分以外を見下してるって目を作って、一緒にいたくないって言うだけなんだから』

『確かにねー、毎日、何が楽しくて生きてんだろうね、あの鉄仮面女』

『プライドばっかり高いんだろ! ほんとは劣等感ばっかりなの隠してさ!』


 劣等感。

 そうなのかもしれない。

 自分のことが好きだと、憧れていると言いながらデートの誘いをしてくる男もいたが、とても受ける気持ちにはなれなかった。


 他人に気持ちを許せない人間になってしまったのは、自分以外を敵だと思う以上に、樹ミ君のような人間が死んで、自分のような人間が生きていていいのかと、そう言う意識があるからなのかもしれない。


 希ルエはそれが分かっていたが、それでも、自分を嘲る声に耐え切れなかった。

 耳を塞ぎながら立ち上がり、講義室を出ようとする。


 が、その時、馬鹿笑いをしているそのグループに声をかけるものがあった。


『なぁ。そこまで言わなくても良いんじゃないか?』


 同じ講義を受けていた魚住君だと、その声で分かる。


『な、何だよ、魚住』

『あの人にも何か事情あるかもしれないし、さ。いや、お前らのこと悪く言うつもりはないよ。良い奴らなの知ってるから。だけど、あんまり見てて気持ちよくなかったから』

『お、おう』


 話はそれで済んだらしく、場は違う話題へと変わる。

 希ルエは、自分をかばうかのように話に入った人間を、無意識に目で追っていた。


 魚住君。

 話したことは無いが、何回も顔を見たことはある。

 同じ講義を受けているのだから、それも当然なのかもしれない。


 希ルエは、先ほどのグループとは違う、親しい友人たちと無言でハイタッチを交わしているその優しい青年を見て、希ルエは、心の中が急速にあたたかくなるのを感じて困惑していた。


 だが、廊下でばったり会った時に希ルエの口から出たのは『わざわざ庇わなくて良いから』と言う言葉だった。


『あなた、何様なの?』

『何様って?』

『とぼけないでよ! 私に構わないでって言ってるの! 私、あなたのことが嫌いです!』


 つっけんどんだったと思う。

 感謝はしていたのに、やはり自分を変えられなかった。

 酷く冷徹に返事をして、どうしようもなく、自分のパーソナルスペースにその人間を入れたくはなかった。

 だけど、その人は優しく笑って、それから言うのだ。


『……別に、仲良くならなくても良いよ。たださ、時々、悲しそうな眼をしてるの知ってたから。あんな言い方されてるの見て、ほっとけなかったんだ』

『か、悲しそうな、目?』

『何か、怖い目に遭ったんじゃない? それは昔かもしれないけど、でも』

『し、知ったぶりしないで! あの人たちが言っていたのは、本当のことなんだから! 正しいのはあの人たちの方よ!』


 思ってもいないことが口から出る。

 人を見下してなんかいないし、プライドで人を拒絶しているわけでもない。

 決して、真実ばかりではない。


 だけど、劣等感を感じていると言うのは本当だ。

 それなのに、その人は希ルエにこう言ったのだ。


『そんなの、例え本当だったとしても、重要じゃないだろ?』


 予想していない言葉が吐かれて、希ルエは固まった。


『それが『本当の事』だとか、言ってることが『正しい』だとか、そんなの、どうでも良いと思う。君が傷つくんなら、そんな『正しさ』は、ちっとも大切じゃない。だったら、君のことを心配になったって言うこの気持ちを、僕は大切にしたい。僕にとって『正しい』って言うのは、そう言う事だよ』


 変わった人間だと思う。

 何を思って、そんなことを口にするのか。

 思ったとしても、どうして口に出来るのか。


『……な、何なのよ、あなた! 気持ち悪い! もう、近寄らないで!』


 希ルエは逃げるようにその場を後にした。

 それから希ルエは、何度も、何度も彼の言葉を思い出し、自然と彼がどこにいるかを気にするようになった。


 ――これは、警戒してるだけ。何を言っていたって、あの人はどうせ私を騙しているに決まっている。


 そう思った。


 だが、希ルエから見る彼は誰にでも優しく、どんな人とも友人になってしまう、不思議な人だった。

 話す言葉もどこか変わっていて、それでいて行動力があって、優しかった。


 顔もハンサムで密かに女子からの人気も高く、彼にアプローチをかけている女の子を見るたびに、希ルエはたまらなくイラついた。


 ――女好きの、嫌な男。


 そう思うたびに、この怒りの感情は何なのだろうかと思う。

 そして、それが嫉妬であることに気づくのに時間はかからなかった。


 もう、誰も愛せないと思っていた心は、自然な彼の優しさに触れて、それを遠くから眺めているだけで、自然と柔らかくなっていく。


 しかし、原田・樹ミに対する罪悪感を感じて、素直になれない。

 声をかけられても、思ってもみない口調で拒絶してしまう。


 例え誰が相手だろうと、隙を見せる事だけは出来ないと、そう思ってしまうのだ。

 どうしようもない生き方なのだと、希ルエは観念していた。

 相変わらず人を遠ざけて、拒絶して、そうして生きていくしかないと。


 ……そう思っていたのに。ある日、投げかけられた彼の食事の誘いに、なぜ乗ってしまったのか。


 嬉しいと思ってしまった。

 だけれど、いつものように自分は拒絶してしまうのだろうなと言う予感を感じながら、口は勝手に言葉を発していた。

 いつものように、勝手に否定の言葉が出て来るだろうと、そう思っていた。

 

 だから、口から出たそれが『承諾』の言葉であったのは、希ルエ自身も驚いていた。

 ただの気まぐれだろうかとも思う。

 だけれど、彼と食事に行ったその日の出来事は、希ルエにとっての契機となった。


『何で誘ったの? 私なんかとご飯を食べても、つまらないじゃない』

『前にも言ったけど、その目だよ』

『目?』

『なんかさ、酷いことがあって、人を信じられなくなって、だけど、また信じたいって思ってるって、そう感じたんだ。そうだったら、今の状況は酷く悲しいことだと思って』

『……何なのよ、あなた』

『僕も、自分が分からないよ。何でか、君のことが気になってる』

『ど、同情なんかやめてよ』

『同情? そうかもしれないとはなんとなく思うけど、それでも。何でか気になっちゃうんだ、だから……』


 もう、自分の気持ちを抑えるのは無理だった。

 もう、独りでいたくない。

 誰かと一緒にいたい。自分を守ってくれる誰かと。


 でも、守ってくれていた樹ミはいない。

 樹ミを置き去りにして、自分は生き続けて、いずれ大人になってしまう。

 それがどうしようもなく、怖く、樹ミに対してどうしようもない罪悪感を感じてしまう。

 拒絶するしかない。否定するしかない。

 だけど、それでも。どこまでも、目の前の男は、自分を迷わせる。


『……だから、僕と友達になろう』


 希ルエは、ぐちゃぐちゃに混乱していく心と、流れた涙を止めることが出来ずに、答えた。


『う、魚住君は、私の何なの? 私を、どうして、こんなに苦しめるの?』

『ご、ごめん! 大丈夫?』


 ただただ女性の涙に驚いて、慌てて自分のハンカチを手渡してくる彼の手に触れる。


 あたたかかった。

 他人に触れられるのはどうしようもなく嫌だったはずなのに、触れていたいと思った。


 それが二人の始まりだった。

 ゆっくりと、過去のトラウマとわだかまりを解きながら、親密になって行く心。


 希ルエの心は彼の優しさに触れて、癒されて、そして……


――――――――――


 パンッ! と言う衝突音が響き、希ルエは、我に返った。


 気がつくと、住んでいたマンションの前にいる。

 そして、呼吸をすることも困難になるほどの衝撃を受けた。


 衝突音を生んだものは、すぐ近くに在る。


 血まみれの、夫。

 愛していた夫が、体中の骨を砕きながら血と肉を露出させて、死んでいた。

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