第20話 心の中の守護天使

 魚住・希ルエは公園のベンチに座り、こめかみを押さえてなにやら考え事をしだした夫を気づかっていた。


「どうしたの? 大丈夫?」

「いや。ちょっとがやって来たみたいでね」

「異物?」


 希ルエは、自分の聞き間違いかとも思った。

 言っている意味がまるで分からなかったからだ。

 それでも気にしないことにしたのは、ひたすら夫が心配だったからだったが。


「ねぇ、家から頭痛のお薬、持って来ましょうか?」

「……いや。今は家には行かせられないな。大丈夫だからさ、それより、ここ、すごく良い公園だよなぁ。入っても、文句言ってくる人が近くにいないみたいだし」


 2098年の公園には、遊具は一つもない。

 遥か昔に「遊んで怪我をしたらどうする?」と言う理由で撤去され、それからも設置されずに、ほぼほぼ何もないただの広場と化していた。

 公園は子供が遊ぶ場所ではないと言うイメージすら定着し、子供の姿はない。

 かと言って、大人の姿もほとんど見えない。

 何をしてもクレームが来るので、誰も立ち寄らないのである。


 現在ではその存在意義が誰も分からない土地、と言うのが現状であった。


「そうね。静かで、良い天気で……ふふ、ごめんね。急に入って見ようだなんて言って」

「こう言うのもスリルあって良いと思うよ」

「うん。でも、ちょっと寂しいかも」

「寂しい?」

「ううん。あのね。私、ここが地元でしょ? だから、子供の頃の思い出とか、思い出しちゃって」

「ふぅん?」

「子供のころから、仲の良い友達がいて……」


 そこまで思い出しかけた希ルエは、それ以上は良くないと思った。


「……昔の話はやめようか」

「どうして? 僕は希ルエの昔のことも興味あるなぁ」

「でも、ほら、思春期の話よ? あなたの知りたくないこととかあるんじゃないかしら」


 いたずらに笑う希ルエに、夫は大胆不敵に笑った。


「言ってみなよ。僕が嫉妬するかどうか」

「じゃあ、言うけど」


 希ルエはぽつぽつと、一人の少年のことを話し出した。


「仲が良い男の子がいて、この公園でもよく遊んでいたの。ただ、ここ、ボールで遊ぶのも禁止だったし、子供だけで来るのも禁止だったから、こっそり入って」

「で、怒られた」

「そうなの。なんだか、見張ってる暇なおじいちゃんとかたまにいたりしてね。うるさいぞ! とか、公園で遊ぶな! とか怒鳴られたりして。それなのにその子、それを面白がっててね。私も面白くなって、一緒に笑ったわ。けっこう、無茶なことする子供だったなぁ、私たち。本当に仲が良くて、その、14歳の時だったかな。恋人同士になろうよって、その子が。それからも公園に忍び込む遊び、たまにしたりして」


 そこまで話して良いものだったかは正直分からなかった。

 たぶん、話してはダメな事だろう。


「……その子の名前は?」

じゅミ。原田・樹ミ君。でも、15歳の時……」


 希ルエは後悔した。

 何よりも、自分が思い出したくなかった。

 その少年は自分とのデート中、いちゃもんをつけて絡んで来た数人の男たちから自分を守るために、殴られて死んだのだ。


 死ぬまで殴られると言うのがどう言うことなのか。

 卑猥な言葉を投げかけられたのが自分だと言う事は覚えている。

 少年が怒り、その大人たちに「やめてください」と抗議したのも覚えている。

 そしてその後、自分を逃がすために盾となった少年を、その男たちは殴り続けた。


 通行人はだれも止めてくれなかった。

 少年は暗がりに連れ込まれ、必死にそこから逃げだせた自分は、警察を呼んだ。


 そして、自分が警察を連れて来た時は、すでに遅かった。


 男たちの一人はむしゃくしゃしていたと言った。

 取り調べの結果、適当に見つけた女の子に性的暴行をするつもりで声をかけたと言う供述もとれたと言う。


 いつだったか、『ずっと、僕が守るよ』と自分に言った、少年の言葉を希ルエは思い出す。

 その言葉の通り、少年は守ってくれたのだ。

 希ルエの尊厳と、命を。


 だが、その少年は死んだ。

 いなくなってしまった。

 その時の喪失感は、今思い出しても辛い。


「希ルエ」


 夫が希ルエの頬に触れる。


「大丈夫だよ、希ルエ。僕はいなくならないから」

「……うん」


 希ルエは、夫とキスをした。

 静かな、触れるだけのキスだった。


 かつて、自分を愛してくれた人間を失って、何もかも無くなってしまった自分を、こんなにも愛してくれる。

 それがうれしくて、仕方がなかった。


 キスが終わり、顔を赤らめた希ルエは、ふと、公園の外に学生服の少年がいることに気づいた。


「やだ。あの子、こっち見てる」

「見せつけてやろうよ」

「だめだよ、もう!」


 見られるのはさすがに恥ずかしいと思う。

 希ルエは夫の体を優しく押しのけると、言った。


「ちょっと、飲み物か何か買ってくるね」

「自動販売機? あるかな」

「うーん、近くにあれば良いけど。探すより、スーパーマーケットに行った方が近いかも」


 しかし、そうしている内に、学生服の子供はこちらに走って来る。

 どうやら自分たちに用事があるらしい。

 そんな顔つきをしていた。

 全くの謎だった。

 一体、何の用なのだろうか。


「希ルエ!」


 希ルエは少年に名前を呼ばれて戸惑った。

 どこかで聞いた声だったからだった。

 そして、どこかで見た顔だった。


「希ルエ! その男から離れて!」


 嘘だと思った。

 信じられないと思った。

 その少年は、今さっき夫に話した、原田・樹ミだったからだった。


「樹ミ、君?」

「そうだよ。俺だよ、希ルエ。原田・樹ミだ。こっちに来てよ」


 忘れもしない。

 かつて、自分のすぐそばにいてくれて、守ってくれた人。


「で、でも、そんな。あなた、死んだはずじゃあ」

「ずっと守るって言っただろ? だから、今、君を守りに来たんだ。その男、君を殺すつもりだよ! いや、もう、何度も殺されてる。殺されるたびに忘れて、希ルエの心はもう限界なんだ。多分、あと一回か二回で、本当に死んでしまう」


 夫がフッと笑むと立ち上がる。

 希ルエはその光景を見て、ゾッとした。

 今まで見たことのない、酷く冷めた顔をしていたからだった。


「お前、何だ? ぞ?」


 グッと立ち上がると、樹み少年の襟首をつかんだ。


「やめて!」


 希ルエは思わず、夫の手を掴む。


「なんだ? どうしたんだよ、希ルエ。僕は君の夫だぞ?」

「でも、だって、そんな」


 フラッシュバックだった。

 過去、自分を守ろうとした樹ミ少年が、男たちに襟首をつかまれている光景がよみがえって来ている。

 醜悪な顔をした、自分達よりも大きく、力の強い大人。

 それが夫と重なり、希ルエはもう一度言った。


「やめて。あなた、その子から手を離して」

「なんだ、希ルエ。僕に、指図するつもりか?」


 夫は少年から手を離すと、希ルエに迫った。

 今まで聞いたことのない、険悪な声の様子だった。


「全く! ……もう、良いや。めんどくさくなった。全くイレギュラーが多いよ。すんなり喰われていればいい物を。異物も近づいてきているしね。ああ、そこの少年の見立て通りだよ。あと、一回か二回。そうすればお前は本当の意味で死ぬ。楽しみだなぁ。最後は、どんな顔をして死ぬのか」

「え?」


 希ルエは、夫の顔がぐじゅり、ぐじゅりと腐っていくのが分かった。

 耐えようのない腐臭と、目から垂れる血。

 眼球がドロドロと溶けながら外へ流れ出し、肉が膨れて皮膚が破れた。

 ぼたり、ぼたりと肉が落ちる。


「い、いや! あなた! そんな、どうして……!」

「希ルエェェェェ! 早く、お前を、喰い殺したいなぁ!」


 その時になって、希ルエは思い出していた。

 自分が、何度も夫に殺されていることを。

 肉の塊に、押しつぶされ、細やかな歯で噛まれながら、喰われていることを。

 そして、殺されながらも意識が消えることなく、終わりのない痛みと苦しみを、ずっと感じ続けてしまう事を。


 痛みを思い出して、希ルエは震えた。

 体は再生されて、記憶は消される。

 それを何度も繰り返して、今、ここにいるのだと言う事が、実感として彼女の中に現れたのだ。


 希ルエは叫んだ。

 夫は、ぶくぶくと膨れ上がり、すでに肉の塊と化して、希ルエを押しつぶそうと立ち上がり始めている。


「希るぇぇェェェェぇェェェェ!」

「い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 だが、動く事の出来なかった希ルエの手を、しっかりと掴んで走るものがある。

 樹ミ少年だ。

 希ルエの記憶の中にあった、原田・樹ミが、手を引いて走っている。


「これ以上……希ルエを、傷つけさせやしない!」


 樹ミ少年は肉塊から距離を取り、希ルエを後ろに庇うと、言った。


「希ルエ。確かに、現実での俺は死んだ。君を守るために死んだんだ。だけど、原田・樹ミは、君の心に残っていたんだ。約束のこと、思い出してくれただろ? だから、こうして出てこれた。ずっと一緒だよ、希ルエ。俺は絶対に君を守る」


 しかし、肉塊は、すでにどこが顔かもわからない体を揺らして笑うのだ。


「お前が何者かは知らないが、お前ごときに何が出来るんだ?」

「出来るさ! だって、お前を殺すものがそこにいる」

「……何?」


 バンッと言う破裂音がした。

 同時に、肉塊のすぐ近くの地面の土がえぐれる。


「ば、化物! その人たちから離れろ!」


 ようやくたどり着いた赤井・夜シル少年が、銃を構えて、肉塊を睨みつけていた。

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