第21話 忌々しい記憶
「離れ、ろ、だと?」
肉は、もはやどこが顔かもわからない首を持ち上げて、夜シルに言った。
「……な、何者、だ。お前はァ。僕を、殺すぅ、もの?」
瞬間、表面に二つの亀裂が走った。
亀裂は夜シルの見ている前で、濁った油と腐った体液をダラダラとこぼしながら、ぱっくりと開く。
一つはまつ毛を生やしたまぶたで、もう一つは唇だった。
「……それは、銃か?」
目玉が夜シルを見つめた。
そして、唇の中からは歯と舌を覗かせて、静かに笑い出すと言うのだ。
「お前、そんなもので僕を殺せると本当に思っているのか?」
次第にはっきりとしていく言葉。
肉は唇の口角を上げて、今度はゲラゲラと体を揺らして笑った。
爆笑だった。
「しかもその距離かよ。お前はその距離で、僕みたいに巨大な標的にも当てられないのか? そんな射撃の精度で、何をすると言うんだい? 大体、それを持っているお前自身が、銃を怖がってるじゃないか」
その言葉は真実だった。
夜シルには、銃を使うと言うことに精神的な躊躇いがあったのだ。
汗が夜シルの顔を伝い、落ちる。
銃を撃った時の反動は想像以上で、発砲の音と煙は夜シルに、かつて自分が体験した悪夢のことを思い出させていた。
部ノに撃ち殺された白村・遊ヒト。
それが例え、作り物の親友だったとしても、あの時に流れた血を夜シルは忘れることが出来ない。
それはどうしようもなく、夜シルの枷となり、その攻撃の意志を鈍らせていた。
「全く、イレギュラー続きだった。僕を、殺せる者だの、希ルエの心の奥底にいて守るために現れただの……全くなぁ!」
口から泡を飛ばし、肉塊はさらに膨れた。
一回りも、二回りも肥大化し、肉の一部を分離させると、それは大きな腕となった。
分かりやすい異形の化け物。
「ば、化け物……!」
夜シルは再び攻撃を加えようと銃を構えたが、寸前で気づいてしまった。
銃の射線上。肉の後ろに、希ルエと少年がいる。
さっきは気が回らず、襲われているのを見てとっさに撃ってしまったが、間違って当たらなかったのは幸運だったのかもしれない。
だが、希ルエの手を持った少年は叫ぶのだ。
「気にしないで撃て! ここで倒さないと、どのみち希ルエは殺されてしまう!」
「邪魔するな、小僧!」
肉塊が体から肉の一部を分離させた。
それは細く、長い植物のツルのような物。先端に爪のある指を多数に生やしている、触手だった。
触手の指が樹ミ少年の胸倉をつかみ、持ち上げる。
「うっ……ぐ」
少年を掴む触手が膨れて、一回り大きくなった。
苦しむ原田・樹ミだったが、もはや人の力でどうこう出来る相手ではない。
「小僧……樹ミとか言ったな。何が『心の底に残っていた』だ。お前なんて、僕に比べたら、希ルエのこと、何も知らないだろ? 夜、ベットでの彼女のことは知ってるか?」
「ベット、だって……?」
顔をゆがめた樹ミに、肉塊が体を揺らして言葉を叩きつけた。
「お前は知らないよなぁ! だって希ルエは、僕とするまで処女だったもんなぁ」
「や、やめて! そんなこと樹ミ君に言わないで!」
たまらず希ルエは肉塊の触手を掴む。
どろどろとした肉に、希ルエの繊細な指がずぶずぶと沈んだ。
だが、触手の、希ルエの触れている部分が、怒張した筋肉のように膨れて固くなった。
ぬるりとした液体が分泌されて周囲の腐った肉が流れて落ちると、その表面が明らかになる。
それはゴムのような分厚い皮を持ち、あたたかく、太い血管を浮かばせてビクビクと脈打った。
「なんだ。手でしてくれるってのかい? 希ルエ」
「ひっ……」
思わず手を離した希ルエに、肉塊は言った。
「離すなよ。もうちょっと強く握ってくれても良かったんだぜ? くくく、触るだけのことに、そんなに怯えて。初めての時のことを思い出すなぁ、希ルエ」
「あ、あなた……!」
夢魔は憑りついている者の記憶と感情を読む。
希ルエの知らないこと以外は夢魔は読み取れないが、だからこそ、この経験の暴露は効果的であった。
肉塊は希ルエの知りうる、彼女の夫とのエピソードを語り始める。
「出会った頃の君は警戒心が強くて、近づく人間に片っ端から噛みついていく猛犬みたいな女だったなぁ。今からじゃあ、想像も出来ない。大学でも孤立してて……でも、それは怖かったからなんだろう? そこの原田・樹ミが死んで、守ってくれる人間がいないってことに不安だったんだよなぁ。見知らぬ誰かに襲われるかもしれない……見知っていても、突然襲われるかもしれない、なんて毎日考えて、誰も信頼できなくて、人を遠ざけて。でもさぁ、本当は毎日寂しかったんだろ? こんな僕みたいなプレイボーイの猛アタックであっさり落ちるんだから、まったくチョロい女だぜ。まぁ、体を許してくれたのは、卒業してからだったけど……最高だったなぁ、希ルエ。今でも覚えてるよ。あの時の、震えていた君の体も、怯えていた君の声も、熱い体温も、感触も、何もかもねぇ」
声が彼女の夫の物だったのが、余計に希ルエの混乱を誘った。
希ルエの顔は羞恥を超えて、もはや蒼白だった。
肉塊はいよいよ勢いづいて、今度は樹ミ少年に向けて言った。
「小僧。大学で、希ルエが男たちに何て呼ばれてたか教えてやろうか? 冷血冷酷。難攻不落。美人なのに、誰も笑った顔を見たことがない『鉄仮面女』だぞ? その鉄仮面女がコロッと落ちたら、毎晩、毎晩、ベットの上で僕の相手をしてくれるんだからたまらねぇぜ。で、結婚してからも、色んなこと教えてやったら、今はどうだい? 今じゃ、僕が出張に出ただけで、ずっと家で独り遊びさ。夢見マシンに制限解除プログラムも入れて、毎晩、夢の中で作り物の僕相手に、頑張ってくれて……とんだ淫乱じゃないか! ククク、あっはっはっはっは!」
希ルエは目に、涙を浮かべながら、必死に訴えた。
「あなた……もう、やめて……!」
本当の夫なら知り様のない出来事も混ざっていた内容だったが、混乱した希ルエには、それを夫が知っていると言う矛盾を突くことは出来ない。
肉は再び笑った。
「やめて? なんでさ。僕はね、お前の夫なんだよ。愛を見せつけて、言い聞かせて、妻に言い寄る悪い虫は残らず殺さないといけないだろ? それとも希ルエ、こいつと浮気でもするつもりか? ……怪我をするかもしれないから離れていなさい。後で、ゆっくり喰ってやるから」
「あっ……!」
希ルエは触手に振られて転んだ。
そして、それは銃を構えたまま動けなかった夜シルにとって、攻撃の機会となった。
「やめろ!」
夜シルは叫び、衝動に駆られて銃を撃った。
希ルエや少年に当たるかもしれなかったが、希ルエが攻撃されたとなれば、もはや撃たなければならないと、引き金を引いていた。
そして、何の幸運なのか、弾丸は樹ミ少年を捕らえている触手の根元を捉え、触手ごと肉の一部を吹き飛ばした。
樹ミ少年が地面に落ちて、必死に起き上がる。
のたうつ触手はすぐに動かなくなり、肉塊が笑った。
「……当たったね。痛いじゃないか。で、それで、どうする? もう一発撃ってみるか? やってみろよ。当たったところで、そんな小さな口径の銃では何もできないだろうがねぇ?」
「くっ……!」
夜シルは再び撃たなければと狙いを定める、が、引き金を引くよりも早く、肉塊の攻撃が開始された。
肉は再び異形の触手を分離させて、持ち上げると振り回す。
それは先ほどの物より長く、鞭のようにしなりながら、夜シルに向かって伸びた。
「……ッ! うおお!」
夜シルは吠えながら避けた。
体を逸らして横に飛び、受け身を取って起き上がると、再び銃を構える。
触手が触れた地面がシュウシュウと煙を上げながら溶解していた。
土がドロドロに溶けて、くぼんでいく。
その光景に冷や汗をかきつつも、夜シルは一瞬、呼吸を止めた。
顔を上げた今、射線に魚住・希ルエも、彼女の手を引いている少年も入っていない。
触手をかわして動いた夜シルの位置、そして、この一連の動きの中で樹ミ少年が、かつて部ノの銃撃から玖ユリを庇った夜シルのように、希ルエの体を押し倒して守っているのだ。
夜シルはそれを一瞬のうちに確認し、銃口を肉塊に向けると、引き金に指をかける。
――遊ヒト! 木村! 力を貸してくれ!
夜シルは、未だに躊躇っている自分を勇気づけるために、親友達を想った。
そして、それで十分だった。
夜シルは努めて冷静に、正確に照準を定めると指に力を入れて、引き金を引いた。
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