半島ディアスポラ、海峡世界で陶窯の煙を上げる(3)

「遠き道をはるばる、ようこそお越しくださいました」

 春山城の板葺の宿所に入り、歓迎の宴が始まる前、ひととき太上帝は春野のみを部屋に入れて休息した。

 御簾を透かして、院はそこから見える池と、ささやかな植栽を眺める。

「……こころたのしい旅であった。阿妻も、遠辺

も、つくづくと見て回ったぞ。青き田と蝉時雨のうつくしいところだった。遠辺国の……臥田も」

 湧き水を汲んだ升を取り、そっと飲む。

「都とみまごうような、立派な屋根の城だった」

「そうでしょう」

 春野はにっこりと笑った。

「その屋根を葺いた瓦は、わたしの夫が焼いたものなのです」

「……左様か」

 彼はわずかにさみしげに微笑んだ。

「……院?」

「春野には、北辺でたいせつなものができたのだな」

「都に出る前から、わたしは北辺を身の中心に据えておりましたが」

 首を傾げる春野に、院はほっほっと笑った。

「都では色恋の噂などなかったではないか。わしはこころがかりであったのじゃ。宮仕えばかりでなく、こころ安らぐときが、そなたにはないのではないかと」

「……院」

 春野は、ふふ、と笑った。

「そうですね、安らぐばかりでなく、わたしは……以前より、つよくなったような気がします」

「ほう?」

「守りたいひとが、暮らしがあると、そのためにどうしたいか、常に考えるようになります。道がわかれば、その道を突き進むのみです。行く手を阻むものがあれば、ひとりのみでなく、ほかの手を借りてでも乗り越える。それが……」

「それが?」

「院、」

 春野ははっと顔を上げ、膝を進めて院に近づいた。

「わかりました。わたしが、どう生きればよいのか」

「ほう」

 目を丸くして、彼は声を漏らす。

「……院」

 春野は眉根を寄せると、口の端をそっと持ち上げた。

「こたびにお目にかかれて、たいへん嬉しゅうございました」


 宴の終わった夜、春野は院の寝所に呼ばれた。ほかの女人が呼ばれたのならそう疑うところだったが、春野は夫のある身であることを揺るがすことが起きるとはまったく思わぬまま、御簾のそばに伏した。

「お呼びでございますか」

「うぬ」

 院がのんびりと言い、ひょいと御簾を持ち上げた。

「こちらへ来い」

「はあ」

 酒で頬を薄赤くした院は、そのせいか若やいで見えた。沈香を焚いた御帳台にそろそろと入っていく。ふわ、と圧迫感を覚えて春野は身動きを止めた。

 ――だれかいる。

 ちいさく灯した灯明台の下の暗がりに、白い影がぼんやりと見える。

「……」

 呆然と凝視する春野の肩に、太上帝は手を乗せた。

「喬子じゃ」

 春野が公職を追われるきっかけとなった、廃太子喬子――その怨霊。

 少女の髪は真っ白になり、まとう袿も白と薄紅の淡いの襲だ。

 少女は長い睫を瞬かせると、するするとこちらにやってきた。

 ――風声、春野。

「……わたしの名をご存じでしたか」

 ――知っております。端午の節会で……わたしが舞姫をしたとき、そなたは競弓で出ていた。ひときわ速くてうつくしかった。

 ふ、と持ち上げられた唇は梅の花びらのように薄く、ほろほろと震えた。

 白玉のように淡く光る彼女の、異様な美しさに釘付けになっていると、院は言った。

「春野、喬子はそなたに会って詫びたかったそうじゃ」

 ――惟明これあきを驚かせたついでに、そなたの職を奪ってしまったのでしょう。

 怨霊に俗世の仕事の心配をされるのは滑稽で、春野は笑ってしまった。

「喬子さまの責ではございませぬ。わたしは、都で立ち回るのには向いていなかったのですよ」

「――ぬ。春野、わしとともに都に戻るのではないのか」

 ついつい、と院に腕をつつかれて、春野は振り返った。

「おや、そのこころ積もりでおられたのですか。ありがたいですが、わたしは決めたのです。院が帰られたら、官位を返上いたします」

「なんと」

「院とお話していて、わかったのですよ。わたしは夫と北辺とともに生きたい。そのためであれば、なんでもする。夫が望み、自分が望んだ場所へ、何度でも移る。その繰り返しだけが、自分の人生を進ませるのです」

「春野……」

「それより、これはどういうことなのですか。院はいつ、喬子さまと仲良くなられたのです」

 ――ふふ。

 喬子は笑った。

「……今上の……むすこ惟明の宮で暴れるくらいなら、わしの枕辺に来ればよいのに、と念じていたら、ほんとうに来たのじゃ。そのときは熱を出して寝込んでいたので、黄泉に連れて行かれるかと思ったが……幼いころの話などしているうちに、熱は収まり、喬子が夜現れるようになった」

 すっと喬子は院に近寄り、院にしなだれかかった。

「院……まさか……」

 太上帝は咳払いをした。

「怨霊と枕を交わすことなどできぬぞ」

「……はあ」

「なんだ、その顔は」

「院、年下がお好みで」

「うるさい」

「行幸に皇太后さまをお連れにならなかったのも……」

顕子あきらけいこがおると、喬子が出て来ぬからな。羽を伸ばすついでじゃ。それに……」

 院は自分の顎を撫でた。

「そなたが申していた、臥田のようすを、ほんとうに見てみたくなったからじゃ」

「……それはようございました」

 院はうつむき、わずかに微笑んだ。

「そなたの申すように、移り変わることによってしか、暮らしは進まぬ。わしも、臥田城を見て、世もひとも、自分も――変わることができるのだと思った」



 七月は慌ただしく過ぎ、波麗使を迎える儀式も無事終わった。春野は院と波麗使を都に見送ると、時近を通じて太政官に辞表を提出した。春野の兄野主は血相を変えて春野の家に駆けつけ、詰問したが、春野は頭を下げ、もう二度とお会いできませぬ、兄上、と言った。

 旅立つことは別れることで、春野は都の保円にも文を送り、引き留めるひとびとが押し寄せて来る前に、宝春とともに夜、春山を去った。

 風声の氏も、環という国も捨て、何者でもなくなった春野は、角目川原に着いたとき、不思議とすがすがしい気持ちがしていた。

 宝春の手を握り、一緒に村に入っていく。

 これからはこの地で、自分の手で、生きるための城柵をつくるのだ。

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