浅霧家のひとりずつ

キジノメ

次男:和白 ~黒猫が鳴くから~


 唸るような、猫の声がする。

 ぼくの手を握る人は、黒色がぐるぐると渦巻いていた。やめてって手を引くけど、あまりの力強さに手首の骨がぎりぎり痛んだ。

 真っ暗な中、ぼんやり光るその人だけが伸びたり歪んだり、ぐにゃぐにゃと動いて見える。ちか、ちか、と遠くで赤い光が瞬いていた。なんだろう、夕日みたいに安心する赤じゃない。あそこには行っちゃいけない。サイレンみたいな、きーきー音のしそうな赤。

 嫌だ、行きたくない。

 もう一回力を込めて踏ん張ると、人が足を止めて振り返った。ぐるぐる、顔も黒色が渦巻いている。また周囲がぐらぐら、揺れている。

 うるさい、と言ったのだろうか。その人が何か言った気がしたけれど、耳が水を吸ったように、もわりとしていて音がよく聞き取れなかった。

 足に込めた力を緩めないで、手を引く。嫌だ、あの赤い所、行きたくない。

 ――と、


 ばきんっ


 左手が燃えるように熱くなって、なんだと思って見てみたら、人差し指が九十度真横に曲がっていた。

 ひっ、と喉の音から悲鳴が漏れた。いや、いや、痛い痛い痛い!

 耳が詰まったようなのに、猫が鳴いているのは妙に甲高く響いた。周囲は黒くて歪んでて、人がぐるぐる渦を巻いている。赤い光は、何重にも黒いフィルターのかかった向こうから、ちかちか光っていた。

 嫌だ、嫌だ、痛いよ、怖いよ、

 夢なら覚めてっ。

 早く覚めて!




「――っは」

白い蛍光灯が目に入って、慌てて跳ね起きた。ここはどこ、今のは現実? 指が痛い気がする、手首も、抑え込まれたように動かない気がする。

 慌てて左手首を擦った。そこには掴まれていたような跡は何も無かった。人差し指も曲がっているけれど、ひどい角度で曲がっているわけじゃない。

 なんだ、今の、夢……。

 落ち着いたら部屋が寒いと気が付いて、背筋に寒気が走った。今日は……そうだ、十一月。の、五日。ここ最近気温がめっきり下がり、家の前の気は丸裸になり、毛布が欠かせなくなってしまった。震えながら無意識に枕元に置いていたスマホを付けて時間を見ると、まだ五時だ。もう少し寝ようと思って布団を被り直す。

 毛布はまだ温もりが十分にあって、とても暖かかった。お風呂に浸かっているようで心地良く、早鐘のように鳴っていた心臓が少しずつ落ち着く。心臓の音がうるさいと思う暇もなく、すぅっと意識が無くなった。




 ピピ、ピピピピ、ピピピピ……


 どこか遠くで目覚ましが鳴っている。まだいいじゃない、起きたくない、布団が暖かくて気持ちいいんだ。ここは安心……まだ、まだ……


 ピピピピ、ピピピピ


 うるさい、うるさい、うるさいっ! 耳が痛い!

いきなり大きくアラームが鳴りだし、慌てて飛び起きた。スマホを止めようと枕元を探るけれど、見つからない。警告音に焦らされるように枕をひっくり返したら下に滑り込んでいた。叩くようにタップして音を止める。頭の下で鳴っていたんならうるさいはずだ。

 静かになって安心するとまた眠気が襲ってくる。誘われるように倒れ込むと、設定していたスヌーズが始まった。


 ピピピピ、ピピピピ……


 起きよう……。

 さっき跳ね起きたのが嘘みたいに重たい身体を持ち上げる。スマホを睨みつけながら、アラームを解除した。時間は七時半。あと三十分で出ないと学校に遅れる。

 すごく暖かくて安心する布団からどうにか身体を抜いて、ベッドから降りた。さあっと血が下がる感覚をどうにかやり過ごして、壁をつたいながら部屋を出る。そうだ、電気を消していかないと怒られる。叩くように電気のスイッチを押したら、ぱちんと部屋が暗くなった。今日は曇りなのかカーテンから光が漏れていない。暗いのが嫌で、慌てて明かりの点いた階段へ向かう。

足を滑らさないようにゆっくり降りていると、下から玄太が上ってきた。僕と違い、朝――というかいつの時間も眠くなさそうな彼は、目線が合うとじろりと睨んできた。

「ねえ、夜中うるさかったんだけど」

「な、なにが?」

「なんか唸ってた。夢でも見てたの?」

「夢……?」

言われて回らない頭で考えるけれど、思い出せない。なんか見たっけ。そういえば、なんか。黒くて赤くて、にゃあって。

 ちぎった絵の一部を見ているみたいで、全体は思い出せなかった。指を擦りながら俯く。

 玄太が舌打ちをした。

「あのさぁ、はっきり答えてくんね? なんでそうやっていつも俯くんだよ」

「あ、ごめん、覚えてない……」

「あっそ」

またもや舌打ちをして、階段を上り始める。僕はそっと横に寄って道を開けた。

 と、たたたっと軽やかな足音と共に、階段下から翠姉さんが顔を出した。

「ちょっと玄太!」

玄太は足を止めず階段を上る。姉さんは呆れた顔をした。

「朝ごはん食べなさい!」

「うっせえな、いらない、お腹空いてない。あと、玄太って呼ぶな!」

吐き捨てるように言って、振り返りもせず玄太は足早に上っていく。取り残され、気まずく顔を合わせる。

「お、おはよ……」

翠姉さんが怒ってたら嫌だな。そう思いながら遠慮気味に声を掛けると、姉さんはにっこり笑ってくれた。

「和白、おはよう」

ご飯食べましょ、と姉さんが背を向ける。ロングの茶髪がふわりと動いた。

「うなされてたみたいだけど、大丈夫?」

後を追って階段を下りていると、姉さんにも言われて驚いた。でも、そうか。僕の部屋は姉さんと玄太の部屋に挟まれている。玄太が聞こえたってことは、姉さんも聞こえてるってことだよね……。

「ご、ごめん。うるさくて」

「そんな睡眠妨害みたいにぎゃんぎゃん声上げてたわけじゃないわよ。ほんと、うーんって呻いてる感じ。なにか夢見た?」

「玄太にも聞かれたけど、覚えてない……」

「あら、そう。まあ記憶に残らなくてなによりじゃない? 多分うなされるほど嫌な夢だったんでしょうし」

リビングに行くまで足を動かすのだけで疲れて、椅子にとすんと座った。あ、でも姉さんの手伝いしなきゃ。朝食の。

「なんかしんどそうだから、座ってていいわよ。はい、今日はパンです!」

立ち上がろうとした僕を止めて、姉さんが大皿に載せた輪切りのフランスパンを持ってきた。それをテーブルに置いて、更にマーガリンとマーマレードを持ってくる。

「サラダと、お母さんが作っといてくれたスープあるけど、飲む?」

「じゃあ、スープだけ……」

もう温まってたのか、言って一分も経たずにスープが出てきた。ありがとう、と言って飲む。コンソメスープのようで、黄金色の液体は透き通っていた。やけどしそうなくらい熱いスープが喉を通るのを感じて、じわりと身体が温かくなった。

「母さんは?」

「もう出かけたわ」

母さんは、父さんと同じ会社の事務職に就いている。ただ最近任された業務が忙しいらしくて、ここ最近、出る時間も帰る時間も遅い。

「大変だね……」

「でも昨日会った時楽しそうに笑ってたから、多分大丈夫よ」

フランスパンにマーマレードを塗りながら姉さんがそう言った。姉さんはマーマレードが好きだ。僕はオレンジがそんなに好きじゃないから、マーガリンを取ってフランスパンに塗る。

「あ、何枚かフランスパン置いといて。そうねー、三枚くらい」

「なんで?」

「玄太が食べてないから。置いといたら食べるでしょ」

「……お腹空いてないって言ってたよ」

「あれはここで食べたくないだけよ」

すらっと怒りもせず言う姉さんに驚いて、ちょっと見つめる。それに気付いて姉さんが笑った。

「別に、反抗期くらい何も思わないし。私、お母さんじゃないし。身体さえ無事である程度顔が見れたら、それでいいと思うわよ」

「寛容……」

「普通、普通」

僕が一個のフランスパンを食べる間に、姉さんは二個食べていた。それを見てたらお腹がいっぱいになったので、スープを飲んで立ち上がった。

「ごちそうさま」

「もういいの?」

「うん」

「あ、お昼さ、お母さん弁当作り忘れたみたい。適当に何か買って食べたら?」

「分かった。姉さんは」

「私は今日午後からだから。もしかしたら帰り遅くなるかも。なんか作って食べてていいよ。多分、お母さんも帰るの遅いと思うし」

姉さんは大学三年生だ。高校二年の僕から見ると、大学というのは非常に緩そうに見える。

 いいな、と思っても僕は午前も午後も授業。重たい頭をこつこつ叩いて、自分の使った皿をキッチンに運んだ。



 もうブレザーが欠かせない季節になってしまった。緑色のそれを羽織って外に出ると、北風が顔にびたんと当たってきた。とても冷たい。マスクもすれば良かった。

 襟を寄せながら玄関を出ると、タイミング良く黒い物が横切った。

 物じゃない。猫だ。

 黒猫がしっぽをゆらりゆらりと動かし、目の前を横切る。あまりにものんびりした足取りに思わず見惚れていると、ふいっとこちらを向いた。

 金色の目が、じっと僕を見ていた。怖いくらいに見つめて、目を逸らそうとしない。

 頭がずきりと痛む。

 猫、黒猫、にゃあって、赤くて黒くて、黒猫。

 千切り絵の一枚がまた目の前を漂う。なんだっけ。思い出せない。黒色が、僕に、なにかを……。言葉にしようとすればするほど千切った一部が逃げていく。思い出せない何かはそれでも何かあると主張するから、引っかかって気持ち悪かった。

 突然、ふいっと猫が顔を背ける。ちょうどその時、ポンと肩を叩かれた。

「うわぁっ!」

肩をがたんと上げて、後ろを振り返る。きっと僕はすごい目を見開いていただろう。彼は僕の顔を見て爆笑した。

「なんだよその顔! オレんちの猫みてぇ!」

後ろから驚かすと目ぇ見開くんだよなー、と言葉を続けた彼は、クラスメイトの草壁双一だった。今日も金髪の髪が元気に立っている。

「おはよー浅霧」

「お、おはよう、草壁」

「ん? あ、猫」

僕の背後を見て草壁が呟く。にゃーって言いながら黒猫に近寄っていったら、黒猫は顔をしかめて走り去ってしまった。

「逃げた」

「猫も、怖いと思う」

「仲間って思わない? 鳴いてたら」

きらきらした笑顔でこっちに聞いてきたから、はっきり否定するのも申し訳なくなった。

「いや、それは……」

「そっかー」

草壁が歩き始める。軽く諦めるな、と思いながらも僕も彼の隣をぽてぽて歩き出した。

「でも、きれーな猫だったな! 飼われてる猫かな」

「そうだね……。でも、黒猫って前を通ると不吉って言うよね」

じっと見つめていた黒猫がどうしても綺麗という印象より怖い印象があって、僕は翠姉さんのゴシップ話を思い出していた。

『黒猫は不吉って言われてるのよね。前を横切ると、その日は不幸な事が起こるって!』

あまり、噂や都市伝説を信じるほうじゃない。でも、あの猫の目と黒い色が、どうしても頭から離れなかった。嫌な感じ。黒い猫。黒い、そして赤、手が、にゃあって。

 目を伏せると草壁が肩に手を回してきた。

「そんなの気にしない! 猫が通ったくらいで不吉になるわけないじゃん」

「うん……」

「そんな気になる?」

「……なんか、気持ち悪くて」

「だいじょーぶか?」

「うん……」

「無理すんなよ~。それか帰る? 今日一日サボっちゃえ!」

「う、ううん、学校は行く」

行かないと、最近遅刻も欠席も多いから担任に怒られそう。家に電話されて、母さんに心配そうな顔をさせるのは嫌だ。

「でも呪われんならオレだろ。声掛けちゃったからな!」

「う、ううん……?」

喉の裏にへばりつくような怖い感じは消えないけれど、草壁につられて僕も小さく笑った。



 確かに、放課後まで何も無かった。だから僕は授業を受けているうちに猫の事も忘れて、そのまま帰ろうと思っていた。

 ホームルームが終わり生徒がぞろぞろと出ていく中、先生が大声を出す。

「浅霧ー、ちょっと話あるから来い」

そういえば六限の先生の授業、数学でノート出し忘れたっけ。それのことかな。結局鞄を探ったら見つかったから、今出してしまおう。

 ノートを手に持って先生の元に向かう。向かうと言っても僕の席は前から二番目で、ちょっと歩くだけでいいんだけど。

「はい」

先生は学級簿を睨んでいた。その目がイライラしているようでちょっと怖い。そう思っていると先生が僕をじろりと見て、口を開いた。

「お前さ、今の時点でだいぶ休んでんだけどさ。なんで?」

「な、なんでって、あの、体調とか、悪くて」

「体調悪くて休むにしても、もうちょっと来れるだろ。毎日なにしてるんだ」

呆れるような口調で先生が言う。

「あ、あの……」

数学の話じゃなかった。休みの話? でも今日は来たよ。ちゃんと朝から来たのに。

「毎日ちゃんと最初っから授業に来いよ。そうじゃないと置いてかれるぞ? お前のためを思って言ってるんだからな」

「は、はい……」

「で? なんでこんなにも欠席理由が多いんだ」

「だ、だから体調、悪くて……」

「まさか真夜中までゲームをやっているとかじゃないよな? お前、休み時間もしょっちゅうスマホを見てるじゃないか」

違います、と言いたかったのに、声が詰まって出なかった。

 手先が信じられない程冷たい。知らないうちに身体が震えてる。黒いスーツを着た先生がぐわっと僕を飲み込むほど巨大になっている気がして、怖くて仕方が無かった。

 嫌だ、嫌だ、ここから出たい。

 先生を見ていたくなくて思わず俯く。ほら、と先生が嘲笑った気がした。

「疚しいことがあるから下を向くんじゃないか。そんなので将来どうするんだ? ちゃんと時間通りに来ない人間は捨てられるぞ」

でも、どうしても辛くて。布団から体が起こせなくて。だから休んでるのに。熱も出るのに。

「甘えるなよ、学校だからって」

ほら、頑張れ、と先生が僕に言って教室を出ていく。僕は先生の言葉に突き刺されたように、その場を動けなかった。

 甘い。僕、甘いんだ。だから休んじゃうんだ。だから、何にも出来なくて、きっとこのままどうにもなれなくて、甘えてるから、甘えてるから、学校だけじゃなくて全部に、もっと頑張らないと、もっと、甘えてるんだから、

 おい、と肩を叩かれる。嫌だと思った。強い言葉は言われたくない。怖い。

 震えながら恐る恐る振り向くと、草壁がそこにいた。

「顔、真っ青」

「だ、大丈夫」

「大丈夫じゃないって、帰れる? 送ろっか?」

「い、いい。部活、あるじゃん。迷惑、かける」

「でもお前、道で倒れそうだって」

「大丈夫だから……」

笑えばきっと心配しない。そう思って笑って、席に置いてあった鞄を掴む。結局渡せなかったノートが滑稽で、鞄に突っ込み外に出た。何か言いたそうな草壁は無視した。悪いと思いながらも、今は彼に何の言葉も言えない気がした。



 電信柱に激突する。さっきから眩暈がしてしょうがなかった。すごく寒くて手足が思うように動かなくて、ぐわんぐわんと耳が変な音を立てていた。

 夕日で影が伸びている。早く、帰らないと。夜は嫌だ。暗い中、真っ黒な中で帰るのは、なんだか分からないけれどすごく嫌だ。早く、早く。ぐらっと傾く身体を持ち直して足を進める。

 家に着くと、誰もいなかった。仄かに薄暗い部屋は生活の臭いも音もしない。急かされないのをいいことに、のろのろと靴を脱ぐ。

姉さんは遅いって言ってた。母さんも、遅いんだっけ。霞がかった頭でそんなことを思い出して、その方が都合がいいや、と思った。

 寝ていたかった。

 全てを忘れるまで、寝ていたかった。

 部屋に入ったら既に日が暮れていたから、慌てて電気をつける。ぱっと明るくなったのにほっとして、鞄を放り投げて制服のまま布団に入った。

 途端、身体が動かなくなる。全部の行動を許さないかのように、手足が重たくてぐったりと沈む。

 早く寝てしまいたい。何も考えたくない。分かってるから。僕が出来ない人間だって分かってる。分かってるよ、甘えなんでしょう。今寝てるのも甘えなんでしょう。ごめんなさい、許してください。ごめんなさい。でも、眠たくて。身体も動かしたくなくて。ごめんなさい。頑張るから、お願い、誰も声を掛けないで、ごめんなさい……。……






 猫が、いる。黒猫が座っている。黄色の目が爛々と光って、こっちを見つめている。にゃあ、と一声鳴いた。

 目の前の人が、掴んだぼくの手首を捻じっていた。痛い痛い痛い、離してよ。泣いていると、ぶんっと腕が勢いよく飛んできて、がつーんと頭が揺れた。声が詰まってぐらっと視界が揺らぐ。手の痛みも分からなくなって、ただ黒い世界がぐらぐら、気持ち悪く揺れた。

 離して。怖いよ。

 赤い光がさっきより近い。あそこに連れていかれるの? そこでぼくはなにをされるの?

 止めてよ、止めてよ、と手に力を込める。人差し指がずきずき痛くて、もう嫌だって思った。暗い、真っ黒。ぐるぐる渦巻いている黒色、嫌だ。

 怖いよ、怖いよ、痛くて怖いよ、ここは嫌!






 め、目の前が白い。なんで? 黒い場所のはず、真っ黒な、怖い場所に僕はいたよ、そこで手首を掴まれて、痛くて痛くて怖いのに、

「大丈夫、大丈夫よ。落ち着いて」

ぎゅうっと誰かが抱きしめてくる。嫌だ、傷つけないで、痛いのは嫌だから、お願い、

「私は傷つけないわよ。大丈夫、ねえ和白、私よ、翠」

かずしろ? かずしろは、僕の名前。みどり。みどりは、姉さんの名前だ。

 ここは? ……部屋だ。

 気付けば全力疾走の後のように喘いでいた。呼吸を落ち着かせるため深呼吸をして、目を瞬く。僕を抱きしめていた姉さんがどいたから、僕も身体を起こした。

「ね、姉さん」

「落ち着いた?」

左手がじりじりと痛くて、思わずさする。まだ黒い人間が目の前をうろついている様だった。夢、それは夢だから。姉さんだっているし、ここは白い部屋だから、あれは夢なのに。

「帰ってきたら唸り声が聞こえるからさ、慌てて部屋に飛び込んじゃった」

見ると姉さんはコートも着たままだった。

「ご、ごめん」

「別に私はいいのよ、私は。落ち着いたようね」

僕がこんな変な夢にうなされてるから、姉さんの手も煩わせてしまった。そうだ、こんな夢が何だっていうんだよ。ただの悪夢なのに、どうしてそれだけで僕は、泣きかけたりうなされたりしてるんだよ。

 平気、平気、平気、これは気にする程のことじゃない。

「大丈夫、ごめん」

「だから私は良いんだって。どうする? 夕飯、作るの面倒だし出前にしよっか」

「ごめん、僕が作るべきなのに」

「いいんだって、そんな状態で頑張らなくていいのよ。お寿司食べる? ピザ食べる?」

「……ごめん、いらない。食欲ない」

喉が詰まって何も食べたくなかった。そうだ、食べなければ僕の分の食費も浮くんだし。食べる気が無いなら食べなければいい。

 身体を起こしているのも面倒になってきたから、姉さんに笑いかける。お願い、部屋を出て。

「大丈夫だから、寝てる」

「……そう。簡易スープとかならあるから、後でそれくらい食べなさいよ」

小さく姉さんは笑って、部屋を出た。明るい蛍光灯の下、部屋にひとりになって倒れ込むように布団に入った。

 まだ身体が動かない。目を瞑れば暗闇が広がるのが嫌で、目を瞑る気にもならなかった。

 このまま意識が飛んでしまえばいいのに。そう思っていればすぅっと意識が遠くなり始めた。このまま、このまま……。

 突然、がちゃりと部屋のドアが開く。覗き込んできたのは玄太だった。

「……なに?」

身体を起こしたくなくて、顔だけ彼の方に向けた。横向きに見えるその顔は、馬鹿にするように歪んでいた。

「もう寝るわけ?」

「……うん」

「はっや。高校生がそんなんでいいのかよ」

玄太は今、中学三年生だ。帰って来たばかりなのかブレザーを着ている。口は悪いけれど顔立ちはまるでウィーン少年合唱団にいそうで、誰に似たんだろうってよく思う。

 玄太が去り際に電気を消そうとする。僕は慌ててそれを止めた。

「電気、消さないで」

「なんで。無駄じゃん」

「お願い」

「……気色わりぃ」

舌打ちをして玄太が出ていく。僕だって無駄だとかそんなことは分かっている。でも、付けていないと落ち着かないから。ごめんなさい、わがままで、そうか、甘えか。

 眠って全部忘れてしまいたくて、早く意識を手放そうと躍起になった。





 ぐるぐる回る黒色。まるで墨汁の波紋、いいや、そんな綺麗なものでもなく、もっとぐちゃぐちゃとした、ヘドロに物が落ちて起きた飛沫の様な、ぐるぐると回る黒色。黒色の向こうに赤いランプ。目に刺さるような強い光の、赤色。あ、手が痛い。手が痛いよ。ぐるぐると回る黒色、赤色が目をつんざいて、お願いお願い、その手を放してっ、

 にゃーん。





 慌てて飛び起きた。カーテンから光がにじみ出ていて、いつの間にか朝になっていたようだ。付きっぱなしの蛍光灯を見つめて、呟く。大丈夫大丈夫、ここは光がある、黒くない、怖くない、大丈夫大丈夫、ここは光、明るい光、どこにも黒は無くて、安全な場所。大丈夫大丈夫。

 手先が異様なほどに冷たくて、少し擦り合わせる。ベッドから降りて、階下に向かった。

 もう全員家から出たようで、何ひとつの物音もしない。壁にかかった時計を見ると八時前だったから、家を出ないとと思った。無理やり動かす身体が重たい。



 あ、と思ったのは生物の授業の時だった。

「今日はビデオを見るから。窓際の人達、カーテン閉めてくれる?」

カーテンのじゃばらが動いて光が消えていき、さっきよりも部屋が暗くなっていくにつれ、訳も分からず怖くなった。暗いと言っても辺りは見渡せるし、隣の眠そうな草壁の顔はよく見えた。うっすら暗くなり、みんなの頭が、制服が、黒く見える、たったそれだけなのに。

嫌だ、嫌だ、カーテンを開けて下さい。ここは安全、安全? 嘘だ、だって暗い、さっきよりも暗くて光が無いもの、ここは危ない、いや大丈夫大丈夫大丈夫、でも暗いよ、黒、黒がなに? でも黒、黒は嫌だ。止めて下さい、カーテンを開けようよ、どうして、どうして、どうして、

 怖いよ。

「おい、大丈夫か?」

肩を叩かれて、痛いことをされる、と瞬時に思った。

 ぎょっとして左を向く。そこには心配そうに眉を寄せた草壁がいるだけだった。

「また顔が真っ青」

「だ、だい、だいじょう、ぶ」

「大丈夫じゃないだろ。せんせー! ちょっと浅霧、気分悪そうなんで保健室連れてきます!」

「い、いいよ」

「駄目だって、真っ青だって」

足が硬直して立てない僕を、草壁が引っ張る。思わずよろめいて、草壁の方に倒れ込んだ。

「だ、大丈夫? 浅霧くん」

「やばいっすよね、先生。連れていきますね」

「頼むわね」

ほら、こっち、と外に引っ張られる。止めて、引っ張らないで、痛いことをしないで、ぼくを赤い、赤い所に連れていってどうするの?

 がらりと草壁がドアを開けて外に出た途端、窓から入り込む光が目に入って安心した。ここは黒じゃないから、大丈夫……。

「浅霧、大丈夫?」

「……ごめん。ちょっと、落ち着いた」

「そうか? でもまだ青いし、取り敢えず保健室行こうぜ。今日はもう帰っちゃえ」

「でも」

「あんな状態にまたなったら大変だろ?」

にかっと笑う草壁を見てると、もう疲れた、帰ろう、と思って素直に頷いた。荷物取っといてやるよ! という草壁の申し出にも頷き、保健室に向かう。

 ほんの少し、心はもやもやとしていた。曲がった人差し指をさすってしまう。何を、怖がっていたんだっけ? それすらはっきり言語に出来ない。けれど、確かに黒が怖かったと思う。今も、今も? もう大丈夫、もう怖くない、もう……。

 保健室で訳を言い、草壁から荷物を受け取る。まだ午前中だけれど僕は家に帰り、また眠りについた。





 赤色は目の前で光ってて、瞑らないと目が焼かれてしまいそうだった。背けた先に猫がいる。赤色に負けないくらい光る目で、ぼくを見ている。どうして動かないの? 助けてよっ。

 手が痛い。折れた指と、捻じられ跡が出来ていそうな左手首が、焼けるように熱かった。どろどろした掴む手はぼくの手すら真っ黒に染めて、自分のものじゃないみたいだった。

 やめてよって、言ったつもりだった。でもその人の歩みは全然止まらなくて、足も疲れて踏ん張れない。

 後ろを向くと、猫がいる。黒い猫が、爛々と目を光らせて、ぼくを見ている。

 にゃーお。

 鳴かないでよ、じゃあ助けてよ。

 にゃーう。

嫌だ、怖い、ぼくに何するの? 手を放してよ、痛いよ。

 にゃーん。

 赤い光が包み込むように目の前にあった。あ、笑ってる。真黒い人が歯を見せて笑ってる。全然楽しそうじゃない、これからぼくに何するの。痛いことはしないで、放してよ、もう嫌だよ!

 にゃーお。



 黒猫は何もしない。鳴き声で微かに黒い闇を動かし、その黄金の瞳で今から起こることを見つめるだけ。







 「――っひ」

目を見開いて蛍光灯を見つめる。あれ、なんで、付いてない、電気が消えてる!

 慌てて立ち上がって、立ち眩みを我慢しながら電源スイッチを押した。ぱちん、ぱちんと何度押しても明るくならない。あれ、あれ、なんでなんでなんで、明るくなってよ!

 そうだ、と慌ててカーテンを開ける。けれど太陽は既に沈んでいて、光がどこにもない。

 完全に、部屋は真っ暗だった。

 どこにも光が無かった。

「……や、止めて、黒は嫌だ、嫌なんだっ、お願い連れていかないで、何もしないから! 違う、大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫ここは現実!」

部屋を飛び出して、隣の玄太の部屋に飛び込んだ。一瞬驚いた顔をした玄太は、すぐさま嫌そうに顔をしかめる。

「なに」

「お願い、暗くて、いたくないから、ここにいさせて」

「は? 意味分かんね」

「お願いだから、お願い」

「暗いのが嫌なの?」

「え?」

言われて虚を突かれた。さっきまで怖かったのは、なんだっけ、えっと、なんで、

 そうだ、暗闇はぼくを取り囲むから。黒色はぼくを助けないから。誰の助けも無くて、黒色がみんなぼくを無視して、それが怖くて怖くて。

 黒色はぼくを無視するから。黒色が全部悪い。黒が無ければ、黒の無い世界だったら!

「黒が、怖い」

「色の黒?」

「うん、黒は、ぼくを、無視する」

「うっせえ、じゃあ白ペンキでも被ってろよ」

あっ、と思った。そうだ、そうすればぼくから黒色は消える。周りも全部白くなる。そうすれば誰もぼくを無視しない。助けてくれる、痛い思いはしなくて済む。

 そうだ、白ペンキがあれば。

 玄太の部屋を出て、一階に降りて玄関に向かう。外には倉庫がある。そこに確か、ペンキがあった。

「ちょっと和白? 大丈夫?」

大丈夫だよ、もう大丈夫。白いペンキさえ被れば、ぼくは世界一安全な場所にいられる。黒色がぼくを助けないことはない。だから、大丈夫!

 倉庫に行くまでの外は暗闇で、足が震えるほど怖かった。どんどん濃くなる闇がぼくを包む。止めろって手で振り払いながら、前に進む。あとちょっと。もう少しで、一生怖くないところへ行ける!

 倉庫のドアを開けると、ぶわりと暗闇がぼくを包んだ。慌ててペンキの缶を探す。あった、これだ。

 明るい場所へ戻るのももどかしくて、その場で缶を開けた。だいぶ固かったけど力を込めたらばりばりと外れた。これで、これでぼくは、もう黒色がなくなって、怖くない、怖くないんだ!


 重たいけれど缶を持ち上げ、頭からペンキを被った。


「あはははは! あいつ被った!」

「ちょっと和白! なにしているの!」

刺激臭に目を瞑ると、そこは真っ暗で慌てた。

 ぼく今、白いペンキを被ったよね、なんで黒いの? 黒が嫌で白いペンキを被ったのに!

 そうか、目を開けてないから、目を開けないと白いペンキが見えない!

 懸命に目を開ける。それでも目の前は真っ暗だった。

 どうして……?

 曲がった人差し指が痛み、手首が熱を持つ。連れてかないでよ、その黒色の中の赤いところ、嫌だよ、怖いところに行きたくないのに。

 ねえ、誰か白色を。黒は嫌だよ。黒い手はぼくを無視するんだ。黒い猫はぼくを見るだけなんだ。白色さえあれば、ぼくは大丈夫だったのに。

 白色を、白色を被っているのに、白色、白色は、白色、どこ?


 どこかで猫が鳴いていた。きっとそれは、黒い猫だっただろう。黄金の瞳でぼくを見て、ただ鳴いているんだ……。



 にゃーお。

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