モクセクジュの背中

 モクセクジュまたはモセジュ家のククまたは灰の書はマピピの山脈沿い一帯ではつとに知られたナの者であった。太陽が空で煮込まれ、草木が陽炎と交う夏の夏、ひと筋の風が街々の掛時計を揺らした。髑髏や薬草を軒先に吊るす紐が軋み音を立て、山羊たちが草を喰む顎を止める。「また一匹の蛾が生まれた」「おそろしい河が広がる」女たちが口々に噂し、男たちが口を噤む。

 モクセクジュの背にはひとつの世界が載っていた。山があり海があり星々があった。書物があり恋があり戦と悪と信仰があった。光があって、おそらくは神もあったのだろう。モクセクジュが叫ぶときに起こる風を、ベルグジェ村の者はすぐにそれと知ることができた。そのときがモクセクジュの背からこの世界に何物かが訪れたときだ。混乱や聖なる気高さ、病苦や文明が訪れたときだ。

 モクセクジュの顔にはなにもなかった。ただこの世界と同じ闇が広がっているだけだった。彼は自分の顔を探して大地を引っかいた。朝も晩も地面に掻き痕を残した。爪を生やしては剥ぎ生やしては剥いで、ついには何も生えなくなった。もしかすると彼の背の世界はその代償なのかもしれなかった。モクセクジュの母は彼を生んだ翌日に消えてしまった。彼の顔の闇に潜り込んで消えてしまったのだろうとパペムオデルの街では噂されている。

 下卑た笑い声や、世を統べる理の糸を弾いたような音色が、闇の奥から聞こえてくることがある。助けを求める声、教理を説く声が聞こえてくることがある。ある男が闇に向かって銃を何発もぶちかました。そのあと、狂ったような笑い声が陽が沈むまで収まらなかった。笑い声を掻き消すために街中の太鼓と喇叭が持ち出されたが、耳を塞ごうとどうしようと誰も笑い声から逃れることはできなかった。

 モクセクジュは、童を通じて自らの意思と叫びを伝えた。いつの間にかモクセクジュのそばにいて赤子の彼を世話していたこの童は、モクセクジュが大男になった今も童だった。

「モクセクジュ、どうか私をあなたの世界に置いてください。私はこの壊れた世界にもう耐えられない」全身から犬の頭を生やした女がモクセクジュの前に跪き、捻じくれた毛むくじゃらの手で拝んでいた。童は「それはできない。私の世界には私の世界のお前がすでにいるのだから」と答え、モクセクジュは大地を引っ掻いた。女は、自分に知ることのできる苦しみが現にあるものの半分でしかないことに慰めを見出すよりなかった。

 ある晩、酔漢が木に首を吊られた童の姿を見つけた。童は靴を脱がされていて、右足は蹄だった。このあと、木から降ろされた童の死体は街の外に放られたが、それは日が経つごとに牛の死骸に変じていった。

 いつもモクセクジュが這いずっている更地を酔漢が覗くと、背中を丸ごと削ぎ取られた男の死体があった。

 もし両手の指に一切の爪がないことに気づかなければ、男はそれがモクセクジュだとは思わなかっただろう。髭を生やした男が黄色い歯を剥いて死んでいた。

 モクセクジュの背中は見つからなかった。やがて、大地のようにごつごつした背を持つアルルエトルが現れた。

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