フチドーとアトリの湖

 生暖かい。羊水というのはこういう感じかな、と何となく思わせる、重たい水だ。歩みを進めるたび、ずっと遠くで鳴っているようにも聞こえる鈍い水音が立つ。あたりは静まり返っていて、じっとしていると、飛ぶ小鳥の翼音がやけに大きく聞こえる。濃い桃色の、膝までの深さの水。大きな湖というか、水たまりだ。

 遠くに、昔見た女が立って、淵堂を見ている。自分は今、昔の自分が見ている夢のなかに入ってしまったのだろうかと思う。眠りながらつむぐ世界に、何者かが迷い込んでしまうことは、よくあるという。

 女のほうへ進んでも、なかなか近づかなくて、もどかしい。淵堂と女は目を合わせたまま。女は立ったまま。近づいてゆくにつれ、言葉を忘れてゆく。自分の見ているものの呼び方がわからなくなり、女は女でなくなり、水は水でなくなり、女の開いた口は口でなくなり、口から伸びるものが何であるかわからず、藻は藻でなくなり、苦しみは苦しみでなくなり、血は血でなくなる。彼女に何か言いたいことがあったはずなのだが、何をしたかったのかは曖昧に覚えているにしても、それをする術はもうわからない。何もわからないまま、何かがわかるということを少しずつ失っていったとき、突然、痛みが戻ってきた。歯が戻ってきて、歯が痛かった。歯を鋸で挽かれるような痛みで、淵堂は言葉を取り戻した。

「レセト」

 3500年をそこに立ち続けた女に呼びかけた。

「守りきれなかったものがもう一度現れるのをお前は待っているんだ。覚えているか。棕櫚の樹皮はひやりとして好きだった。おまえは16歳だった。拾った石に絵を描くことが好きだった。顔料を手に入れるとうっとりして見入った。でもお前が好きだった星々はお前に優しくはなかったな。お前の屋敷は喪われた。お前の国は煙になった。お前は奪われた。お前はそれを取り返そうとして壊してしまった」

 リュックサックからシュケの円盤を取り出して女に差し出した。円盤の周辺をいくつかの球が光りながらめぐる。ちっぽけな、昔流行ったおもちゃかインテリアだ。

「これをお前にやる。なんでなのか私にはわからないが、そうしなくてはいけないらしい」

 そのとき、女は長い手を伸ばした。まるでどこか別の夢からいくつもの闇を越えて伸びてくるような手だ。その手が円盤を掴んだ。

 そのとき、淵堂の目から信じられない量の涙が出てきた。何かが溶けて漏出しているかのようで、感情のスープがぶちまけられているようだ。「なんでなのか、全然わかんないんだよ」と淵堂は言った。

 女は淵堂の頭を撫でた。

 淵堂はめまいを感じ、目を閉じて、開いた。すると、雪のなかで、手を空に向かって差し出していた。膝まで雪に埋まっていた。翌年の地図からアトリの湖の名は消えた。西から来たフチドーという女が魔法で呪われた湖を雪原に変えたと人々は言った。

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